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Chapter 5
そのときの「田中さん」⑨
しおりを挟む小学一年生の亜湖は、その日、朝から不安だった。
おとうさんの会社の「新年パーティ」とかいうのが大きなホテルであって、おとうさんが亜湖を連れて行きたいらしい。
でも、おかあさんは六年生のおにいちゃんがもうすぐ「入試」で「塾」へ送り迎えしないといけないから、一緒に行けないと言う。
『大人の人ばかりじゃないの?』
心細くて行きたくない気持ちをわかってもらいたくて亜湖が尋ねると、
『大丈夫、亜湖と同じ小学生の子たちもいるからね』
おとうさんはそう言って、亜湖の頭をぽんぽん、とした。
亜湖の気持ちとは裏腹に、おかあさんから七五三のときに着た、鶴の刺繍の真っ赤な着物を着せられた。作り帯なのでそう苦しくはないが、まるでロボットみたいな動きになるから、亜湖は着物があまり好きではなかった。
髪は結い上げるには中途半端な長さだったので、そのままにしたが、おかあさんはつげ櫛で亜湖のおかっぱ頭を丁寧に梳かした。
『亜湖、まるでお人形さんみたいだぞ』
おとうさんは破顔していた。
——お人形さんっておとうさんは言うけど。「リカちゃん」とはずいぶん違うと思うんだけどなぁ。
「新年パーティ」は小学校の講堂みたいに大きなお部屋でやっていた。
天井を見上げると、巨大なシャンデリアが怖いくらいにぎらぎらと輝いている。大きくて細長いテーブルの上には、銀の器に盛られた美味しそうな料理が所狭しと並んでいる。
亜湖は駆け寄って見てみたかったが、おとうさんから離れてはいけないと強く言われていたのでガマンした。そもそも、おとうさんからしっかり手をつながれていたのでどうしようもなかったが。
『あけましておめでとう、お嬢ちゃん』
それまでおとうさんとお話をしていた、濃紺のスーツを着た背の高いおじさんが、身を屈めて亜湖に話しかけてきた。
『……あけましておめでとうございます』
小さな声で亜湖は応じた。緊張したので、おとうさんとつないだ手にぎゅーっと力を込めた。
『着物姿の女の子はかわいいなぁ。すっごく似合ってるよ。うちは男だからな。こういう楽しみがない。小学校の五年生にもなると、どんどん生意気になってきてさ』
おじさんは顔を顰めてそう言ったが、すぐに晴れやかな顔に変わった。
『そうだ、お嬢ちゃん……うちのガキの嫁さんになってくれよ。そしたら、おじさんも君の『お父さん』になれるからさ』
『ちょっと、上條さん!?』
おとうさんが真っ赤な顔で遮った。
『娘は嫁に出しませんよ!それから、亜湖の「おとうさん」はおれ一人ですから!!』
『亜湖、おとうさん、なにか食う物取ってきてやるから、絶対にここを動くんじゃないぞ』
亜湖はこくっ、と肯いて、おとうさんを目で送った。
会場全体を見回していると、着物姿の小さな女の子がめずらしいのか、周囲からじろじろ見られているのに気づいた。目立たないように壁際にいるのだから、自分に注目しないでほしい、と亜湖は思った。向こうの方に同じ小学生くらいの子たちがいるのだから、そっちを見てほしかった。
そう思って見ていると、向こうから男の子が一人、こっちの方にずんずん歩いてきた。途中で立ち話をしている大人たちをひらりとかわしながら、男の子は一直線に亜湖の許へやってきた。濃紺のブレザーと揃いのズボンを身につけた、小学校高学年くらいの背の高い子だった。
『おい、おまえ……なんで、こっちに来ないんだ?』
開口一番、男の子は訊いた。
『……おとうさんが……ここを動いちゃ…ダメって』
亜湖は俯いて、小声で答えた。
——なんだか、この子……怖い。
ますます俯いてしまう。
『あ、そうだ、市松人形だ!おまえ、松濤のじいちゃん家にある市松人形そっくりだなっ』
——どうして男の子って、亜湖がなにもしないのにいじわる言うのかな?放っておいてくれたらいいのに……
男の子はしゃがんで立て膝になると、下から亜湖の顔を見上げた。目が合う。じーっと顔をガン見される。
『やっべぇ……おまえ、おれのどストライクだ』
『おまえ、名前は?』
下からものすごい目力で、男の子は訊く。
『……亜湖』
『そうか……「あこ」よく聞けよ?』
男の子は亜湖の両肩を掴んだ。
『おれは男だからな。これから大人になって、おそらく遊ぶだろう』
男の子はまるで天から遣わされた預言者のように言った。
『だけど、「あこ」はおれの「どストライク」だ。そんな女はそうそういないだろう。だから、どんなに遊んでも、絶対におまえのところに戻ってくる!約束する!!』
亜湖は首を傾げる。言っている意味がさっぱりわからない。
『「あこ」待ってろよ。……おれが大人になって、おまえを迎えに行くまで』
亜湖は相変わらず意味がわからなかったが、ものすごい目力に圧倒されて、こくっと肯いてしまった。
『それまで、おまえはおれ以外の男について行っちゃ、ダメだからな!……いいか!?』
幼すぎる亜湖には、それがどれだけ理不尽で身勝手な言い分なのか、わかるだけの分別はなかった。だから、迫力に押されてつい、こくこくっ、と二回も肯いてしまった。
『そうか……じゃあ、誓いのチュウな?』
そう言って、男の子は亜湖のくちびるに、ちゅっ、とキスをした。
しかし次の瞬間——
男の子は柔道の送り襟絞めをされて、亜湖からべりっと剥がされた。
『こっ、このクソガキが……っ⁉︎』
おとうさんは、今までに見たことがないくらい怖い顔をして怒鳴っていた。
『おれの娘になにをしやがるっ!?……大地っ!!』
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