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Chapter 5
そのときの「田中さん」⑬
しおりを挟む「……上條課長」
亜湖は「大奥の総元締め」の表情と声で呼びかけた。
「ツメが甘い、って言われたこと、ありませんか?」
一世一代の言葉を言ったはずなのに、見事に亜湖にスルーされてしまった。しかも、一番呼んでほしくない「上條課長」に戻っている。
大地は呆然としてしまって、なにも言えない。
「たまに、十中八九イケると思ってた商談が、どういうわけかダメになることあるでしょう?」
亜湖は名探偵のように詰問する。
「……違いますか?」
大地は、うっ、と詰まる。
——確かにそれはあるが。亜湖には絶対に内緒だが、実は珠紀にも言われたんだよな。
——ま、それは、おれからのプロポーズを待っていたらしい珠紀が、とうとう待てなくなって別れ話になったときだが……
すると……とたんに亜湖の表情も、声も、やわらかくなった。
「わたし、あなたから今まで『好き』とも『つき合ってほしい』とも、なにも言われてなかったのよ」
亜湖は膝立ちになって、まだ呆然とする大地をふわりと、自分の胸に抱きしめた。
「やっと……言ったね……大地」
「ごめんな……悪かった……ちゃんと言わなくて……おまえを不安な気持ちにさせて」
大地は亜湖の腕の中で言った。
「それに、このタワーマンションにはこの春に越してきたばかりなんだ。だから、珠紀はもちろん、女はだれも入っていない」
大地は亜湖を見上げる。
「……ほんとに亜湖だけなんだ」
亜湖は、いたずらがバレた子どもの顔みたいだ、と思った。彼女はふっくら微笑んだ。
大地は亜湖を引き寄せ、そのくちびるにそっと自分のくちびるを重ねた。
「……じゃあ、今度はおまえな」
亜湖が、はい?と大地を見る。
「おまえ、まさか、おれだけに、あんなこっ恥ずかしいこと、言わせるわけねえよな?」
いつの間にか、大地が仕事モードの「悪魔課長」になって、意地悪な笑みを浮かべている。
「えっと……あのう……」
亜湖が後ずさる。でも、いくらキングサイズのベッドでも逃げきれるわけがない。すぐさま、大地に腕を取られ、腰を引き寄せられ、すっぽり抱きすくめられてしまった。
「さあ、早く言えっ。おれはもう待てないんだっ。先刻のガキみたいなキスじゃなくて、もっと、がっつり、おまえとキスしたいんだっ」
これではまるで「悪魔課長」っていうより「ガキ大将」だ。すっかり、亜湖と初めて出逢った小学五年生の「だいち」に戻っている。
亜湖は思わず、ふふっ、と笑った。
そして、心を決めた。
大地の腕の中から彼を見上げる。それから、小さな声で囁いた。
「……好き……大地……いつまでも……わたしの傍にいて……」
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