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Epilogue
⑥〈完〉
しおりを挟む「ねぇ、七瀬さん……僕の名前、知ってる?」
高木がわたしの顔を覗き込むように訊く。
「えっと……『真澄』……くん?」
なんとなく、呼び捨てにするのは気が引けたので「くん」を付けてみた。
「……………」
彼がいきなり無言になった。
「……真澄くん?」
もう一度、呼んでみた。
「……………」
なのに、無言のままだ。
「ちょっとぉ、名前を呼ばせておいて返事しないのって、ひどくない?」
わたしは口を尖らせて、文句を言った。
すると、彼の目が一瞬見開かれたかと思うと、その顔が急降下してきて、尖らせたわたしのくちびるを啄んだ。
「あなたが『反則』なことばかりするから、もう僕の我慢も限界だ。それに、賢いくせにとんでもなくバカな七瀬さんが、絶対に素直に言うわけないことも、よくわかった」
——え……っ?
「だから、もう僕らは心が通じたんだと見做して——キスすることにする」
なぜか苦り切った顔で彼はそう宣言すると、ふわりと開いたわたしのくちびるの隙間に、自分の舌を捻じ込んできた。
そういえば、わたしたちのカラダはずーっとつながっているのに、キスだけはまだしていなかった。
——って、それよりもっ。また、わたしのこと、いきなりディスったわね⁉︎
「ちょっと、真澄くん、わたしのこと『賢いくせにとんでもなくバカ』ってどういう意味よっ⁉︎」
くちびるが離れたと同時に、わたしは彼に噛みついた。
「……先刻、あなたは『しあわせ』というものが『シーソー』だと定義づけて、反比例の数式を挙げてぶつぶつと論を展開していたけれども」
——えっ⁉︎ もしかして「独り言」が聞こえてた?
「そもそも、なぜ『反比例』だと断定できるのかが、僕にはわからない。もちろん、どういう『相手』なのかによって、変わってくるとは思うけれど。でも、少なくとも結婚相手に関しては……素直に『比例』じゃダメなのかな?」
どう考えても腑に落ちない、というふうに、彼は顔を顰めた。
「y=axの比例式であれば、僕もあなたも同じ方向に向かって同じだけ進むわけだから、その振り幅に関係なく、それが喜びであろうと悲しみであろうと、いつも同じだけ享受できると思うんだけどね。
……夫婦って、そんなふうに同じ方向に向かって人生を歩んでいく相手のことだよね?」
——しまった。呆気なく論破されてしまった……
小生意気だった子猫が、すっかり元気をなくしてしまったかように、わたしはしゅんとなってしまった。ほとんど挫折知らずで育ってきたから、情けないほど打たれ弱いのだ。
——でも、どうしちゃったんだろう?
いつもはもっと上手に隠し通せるはずなのに、真澄くんの前ではそれができない。心がすっかり曝け出されてしまう……
「ほらほらほら、こんなことくらいで悄気ないで」
彼がわたしの頭をぽんぽん、とする。
「こんなわたし——めんどくさくない?」
わたしは上目遣いで彼の表情を探った。
こんな自分がめんどくさくて大っ嫌いなのは、実はわたし自身だ。だから、本当はだれにもこんな姿を見せたくない。
「……ものすごく面倒くさいね」
彼は取りつく島もなく、ため息とともに断言した。
——やっぱり。
わたしのメンタルは、地球の内部のマントルを突き抜け、核に向かってめり込んでいった。こうなったら、もう地底人として生きていくしか、道はない……
「七瀬さん、それでもね。どういうわけか、僕はそんな面倒くさいあなたも好きなんだ。やっぱり、あなたには僕がいなくちゃダメだな、って思わせてくれるからかな?」
——えっ? こんなわたしなんかで、いいの?
彼のおかげでわたしは「地底生活」から急浮上した。
「でも、あなたの方はこれからだ。僕のことはほとんどなにも知らないだろうしね。……あ、でも、勉強が得意で仕事はできても『芸術』が理解できない諒志さんと違って、僕はあなたの好きな観客を結末で置いてけぼりにするフランス映画とかでも、全然大丈夫だからね。初めてのデートはミニシアターにしようか?」
わたしは縋るような目で彼を見て、うんうんと大きく肯いた。
——真澄くんのことを知りたい。
いいところも、悪いところも、これから全部。
そして、わたしにしてくれているみたいに、彼のすべてを受け入れたい、と思った。
「でも、無理しなくていいんだ。あなたはね……なんでもその賢い頭で、いつもあれこれ考え過ぎなんだよ」
彼は穏やかなやさしい笑みを浮かべて、わたしのくちびるに、ちゅ、と軽くキスをした。
「だから、とりあえずは、なにも考えずに……」
わたしの「中」の「彼」が増していく。二十代男子を侮ってはならない。
「……カラダから、はじめればいい」
「カラダから、はじまる。」〈 完 〉
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