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無一文で天涯孤独
しおりを挟む「……とにかく、おめぇは家ん中に入りな。おい、およね」
茂三がさように告げて女房を顎でしゃくると、およねは弾かれたように持っていた桶と柄杓を三和土に置いて支度のために奥へ入っていった。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
仕舞屋の奥にある座敷に通された丑丸は、幼い体躯をさらに縮こまらせて正座していた。
「……さて、おめぇをどうするか、だな」
茂三は部屋の端にあった莨盆を引き寄せながら告げた。
亡くなった丑丸の父親は、大坂よりもまだ西にある藩に仕える御武家だったらしい。
そこまでは男が江戸に出てきて紆余曲折を経て此の貧乏裏店に流れ着いた折に茂三が聞いた話だが、なにぶん口数少なく如何なる経緯でお故郷をおん出てきたかは最期まで判らずじまいだ。
相対して、丑丸の母親は器量は良いがどこかぼんやりとして頼りなげで、気の強い御武家の御新造(奥方)にはとても見えない。亡くなった亭主とは故郷から手を携えて出てきたわけではなく、江戸で知り合ったらしい。
されども、如何なる経緯で二人が夫婦になったかはやはり此れもまた判らずじまいだ。
茂三は煙管を取り上げ、一番上の抽斗から出した刻み莨を丸めて雁首の火皿に置き、火入の炭火で焼べた。
「おめぇのおっ母さんが、腹を痛めて産んだ我が子を置いて出てったのも腹立たしいけどよ。
裏店の連中が身銭を切ってこしらえた線香代を根こそぎ持って行っちまいやがったのが、腹に据えかねるぜ」
そして、深く一服する。気を鎮めるためだ。
およねが盆に麦湯を乗せて座敷にやってきた。
「あんた、お父っつぁんを亡くした上におっ母さんまで逃げちまったんだってねぇ」
ますます縮こまっている丑丸の前に、麦湯を置く。
「先刻はいきなりだったんでたまげて大声出しちまったけどさ。堪忍しとくれよ」
丑丸はぶんぶんと左右に頭を振った。
「お前さん」
およねは亭主の茂三に向き直ると、麦湯を差し出した。
「こんな幼い子がたった一人で残されちまって……おまんまの支度やらおさんどんは誰がやるんだえ。
あたしゃこの子が不憫でならないよ。ねぇ、しばらく家で面倒見てやれないもんかね」
小僧の頃から廻船問屋「淡路屋」に奉公し、主人に引き立てられて手代から番頭へと上がっていった茂三が女房のおよねと世帯を持ったのは四十の声を聞いた頃であった。二人に子はいない。
同じお店で女中をしていたおよねは茂三よりも若いとは云えすでに三十を過ぎて四十に近い年増で、二十の娘時分に一度嫁入ったが一人息子を病で亡くして亭主と別れていた。
年ごとの大名行列(参勤交代)だけでなく、喰いっぱぐれた挙句に職を求めて諸国から男たちが入ってくるゆえ、おなごの数より男がずっと多い江戸では男が初婚でおなごが再婚なのはよくある話だ。
その後淡路屋で先代から当代へ主人の代替わりがあると、茂三は其れをを機におよね共々暇をもらうことにした。
すると、先代が茂三の長年の働きを労って、此の仕舞屋を住まいとして貸してくれた上に地主として持っていた裏店を家守として差配するよう任じてくれた。
「……いや、おいらは裏店に帰るんで」
丑丸は小さな声ではあったが、きっぱりと告げた。
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