後宮化粧師は引く手あまた

七森陽

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絶対にこの人の味方で居つづけよう

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 俊熙と香月は、大急ぎで東宮まで馬車を走らせていた。行きは目立たないようにと青楼街を歩いていたが、今は子の刻も終わりの頃だ。客引きもほとんど居ない時間帯に、わざわざ二人駆けて帰る必要もない。なにより一刻も早く、東宮の警備状況を確認せねばならなかった。
「思った以上に東宮も危険だ」
「…そうですね、もう、誰を信用していいのかわからなくなりそうです」
 香月は先程聞いた子豪の報告を思い返す。


 侍従の洋はあの時命じられるまま、梁豪宇に確認に行ったらしい。運良く空安の都にいたらしい豪宇に聞いたのは、香月が拉致されたあの日の詳細である。
「豪宇さんが言うには、噂の第二皇子のお気に入りを手に入れられそうだ、と当日急に明軒から持ちかけられたとか」
「確かにオレぁここ数日その噂は耳にしててよォ、言ったことあるんだわ、そいつ使えるかもしれねェなァって」
「豪宇さんの手柄でいいし連れ出すのも手伝うから、一緒に東宮に入れてくれって明軒に言われたそうです」
「ちょっと待て。趙明軒は、お前達が探ってる姜秀英側の人間じゃないのか? 冬胡の豪族だろう?」
 俊熙の疑問は尤もで、香月もそこが引っかかっていた。いくら子豪の為になりそうと言えど、そんな簡単に豪宇が趙明軒の言を信用するだろうか。
「それがよォ…明軒のヤツってのは金に目がなくてよ。恥ずかしい話だが、豪宇は明軒が報酬欲しさに情報を売ってきただけだと思ったらしい」
 子豪が呆れたようにため息をつく。
「今までもあったんです、明軒が小遣い欲しさにちょっとした商売敵の情報を売りに来たことが」
 洋の言葉になるほどと香月は思う。普段からそうなら、今回も何か思惑があって…などと邪推することはないだろう。
「完全に今回の件はオレの監督不行届でしかねェ」
 豪宇も豪宇で、子豪の為と思って半信半疑ながら飛びついたのだろう。成功報酬という形なら、とりあえず時間が無駄になる以外に失うものはないのだから。――まぁ連れ去った人物が香月だった、というのは思わぬ誤算だった訳だが。
「夕刻、豪宇さんと孟と明軒は一緒に東宮に入宮して、その後すぐにバラバラに分かれたそうです。噂の女を探すと言って。で、半刻後、門の近くで待っていた豪宇さんの元に、麻袋を担いだ明軒と孟が現れた。無事捕らえた、と言って」
「……麻袋……」
 まさか自分が麻袋に入れられて運ばれたとは思ってもおらず、乱暴な扱いに愕然とした。
「どうやって東宮を出たんだ?」
「普通に正門から。『どうやら殿下のお気に召さなかったらしく、こんなにも大量の衣装返品をされちまいました、商売あがったりです』とか何とか言って」
 俊熙はそれを聞いて大きく溜息をついた。
 いくらいつも出入りしている姜商家であると言っても、そんなにも大きな荷物を抱えて出入りしているなら中身を検めるべきだろうに。
「すまねェな、オレらが圧倒的に信頼される商売してるもんでよ」
 俊熙の嘆きを悟ったのか、子豪から妙な言い訳が飛び出た。そういう問題ではないと思うが。
「……まぁ、それが本当だとして、疑問は二つだ。一つは、どうやって東宮に紫丁香が現れると知ったか。もう一つは、…東宮で何をしたかった、いや、何をしたか、だ」
 俊熙は気を取り直したように、顎に手を当てて思案する。
 確かにそうだ。香月が東宮を訪ねたのは、突発的なことだったはず。あの時たまたま、例の宮女を見つけた香月がとにかく誰かに報告せねばと策を練り、紫丁香に扮して郎官を騙したのである。郎官が万が一間者だったとしてもそれを明軒が知り、豪宇を説得し、東宮に侵入する暇は――。
「…もしか、して」
 そこまで考えて、香月はあることに思い至って思わず身体をかき抱いた。
「……全部、仕組まれていた…?」
 その香月の言葉に、俊熙は何を言いたいのかを理解したのだろう、息を飲んだ。
 そう言えばあの日訪れたのは、蝋梅殿。反太燿派の吏部尚書を父に持つ、夏淑妃が居る殿である。香月がそこで化粧師の仕事をしていることを知り、『わざと』その帰り道に例の宮女をチラつかせたとしたら。そこに駄目押しのように桔梗殿の印の入った許可証があれば、香月は真っ先に俊熙に報告しようとするだろう。
 もし、そこまで読まれていたとすると。
「わたしが『紫丁香』だということも……」
 相手には筒抜けだったのである。
「…それに関しては思い当たるところがある」
 俊熙は尚も思案しながら、そう言った。
 やはり、桔梗殿か後宮について、何か知っているのだ。
「しかしもしそうだったとすると、二つ目の疑問はより深刻になるな」
 知っていることについては言及せず、俊熙は言葉を続ける。二つ目の疑問――東宮で何をしたか、だ。
「そうなると明軒の目的は紫丁香の拉致ではなかったことになる。動きがわかっているなら、もっと拐かしやすい場所はあるからな」
「そう、ですね」
 何ならあの時間帯であれば、中庭の方が人攫いには絶好の場所だ。宮女をチラつかせるよりよっぽど簡単である。
「明軒の目的は、一時的でもいいから東宮に入ること…」
 つまり、とっても、やばい気がする。
「…姜子豪、急いで馬車を呼ぶよう楼主に命じてくれ」
「お、おう、洋頼む」
「はい」
 パタパタと出ていく侍従を見送りながら、俊熙は子豪に問いかける。
「姜子豪、明日から冬胡に向かうと言っていたが…アテはあるのか?」
「ああ、向こうには兄貴と違う商路を作ってある」
「信用出来るのか?」
「大丈夫と思うぜ。寺院側の商家だかンな、今は皇族派の趙に敵対心燃やしてンだろ」
 先程仕入れた情報のお陰で、今の情報に少し安心できる。
「なら、頼まれてくれるか」
「まぁオレでやれる範囲ならなァ」
「範囲外でもやれ。趙明軒が紫丁香を拉致した四日前から、昨日夏蕾を出て冬胡に到着するまで、どういう動きをしたのかを全て追うんだ」
「…マジかよ?」
「大マジだ、おそらく趙明軒は東宮で『何か』を成しているはず。それから二日、夏蕾で動いたあと冬胡へ向かっている。絶対にそこに手掛かりがある」



 最高速度で走る馬車の揺れに耐えながら、香月は回想を終える。
 もし先程の仮説が全て本当であるならば、夏家や反太燿派の面々は、趙家を使って完全に冬胡と深く繋がっているということになる。
 冷戦中の敵国と、自国の吏部尚書達が――。そう言えば六率府将軍の郭もそうだったか。
 こうなってくると当然、今この国を静かに脅かしているのは単なる継嗣問題なんかではなくなってしまうのだ。いち商家の長男が、国家転覆を企むなんてことよりも厄介な事態である。
「郎官達の買収のあたりも洗った方がいいだろうな。取り込んでいた方が今後東宮に出入りしやすくもなるし、情報も仕入れやすい」
 郎官が冬胡に買収。そんなのとてつもなく恐ろしい事態だ。そうなってしまったら――誰が太燿を守るのだろうか。
「…やることが多いな。武器の出処の調査、郎官の勤務状態の確認…確実に味方だと言える人物は、全て集めるしかないかもしれない」
 ブツブツと珍しく独り言を呟く俊熙の眉間は、深く皺が刻まれている。
「確実な味方…まだ、いらっしゃるんですね」
 この継嗣問題についてまだまだ不勉強だった香月は、少し驚いて問う。
「…あぁ、まぁな。主に動いているのは今日の面々だが、太燿様を慕っているものが殆どではある。ただ表立って反太燿派に対峙出来る者が少ないだけだ」
 成程、確かに太燿の人柄は、多くの人を魅了する者だ。そう言えば磊飛の父親である汪大将軍も親太燿派であるし、梦瑶の生家である張家もそうだった。
「今が、協力を仰ぐ最後の機会かもしれないな」
 いよいよその時が来た、と言わんばかりに、俊熙の表情は覚悟を決めたものになった。
 ――先程の部屋での時間は、たった半刻にも満たない休息だった。
 本当の意味で彼が心を休められる日は、まだまだ到底先の話のようである。
 せめてそれまでは絶対にこの人の味方で居つづけようと、下弦の月を見上げながら、香月は静かに心の中で誓った。



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