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May
藤の会 Side 翠葉 04話
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涼先生は気を遣ってツカサとふたりにしてくれたのかもしれない。でも、できればもう少しいてほしかった。唯兄にからかわれようと何を言われようと、何か喋っていてくれる人がいたほうが良かった気がするのだ。
ふたりにされた途端、この場はしんとしてしまった。今となっては風が吹くたびに、藤の房がさわわ、と音を立てるのみ。
視線を芝生に落としていたけれど、もう一度藤をバックにしたツカサを見たいと思う。
勇気を出してツカサを見ようとしたら、そのタイミングでツカサが私の隣に腰を下したため、タイミングを逃がしてしまう。
どうしたらツカサを見ることができるだろう……。
考えに考えて、ツカサが自分を見ていなければ見られるかも、という答えにたどり着く。
「ツカサ、お願いがあるの」
「……何?」
「目、瞑って?」
「は……?」
「目、瞑ってほしい」
理由を訊かれるかと構えていたけれど、隣から声は返ってこない。
そっとツカサに視線を向けると、ツカサは目を瞑ってくれていた。私は胸を撫で下ろしてツカサの姿を堪能する。
やっぱり和服がとてもよく似合う。私が見たことのある姿は弓道の道着姿だけだったこともあり、爽やかな印象を受ける青い長着や羽織は新鮮に映った。
姿勢がいいのもいつものこと。でも、和服だとより強調されてびしっとして見える。
そんな中、少し俯きがちの顔には前髪がかかる。漆黒の髪の毛に漆黒の睫。
睫、長い……。
肌は相変わらず陶器のように白く滑らかだ。ツカサの肌ににきびができているのを見たことがない。何をどのくらい気をつけたらこのコンディションを維持できるのか――
気づけば、私は和服姿のツカサではなく、顔のパーツに釘付けになっていた。今まで、こんなに近くでまじまじと見る機会はなかったのだ。
球技大会では試合に出ているツカサを堪能することはできる。けれども、球技大会ではコート外からコート内のツカサを見るのであり、顔の細かなパーツを見つめられるほど近くにはいない。さらには、注視できるほど一所に留まっていてはくれない。ゆえに、普段のツカサとは違う一面――走ったり飛んだりする姿を楽しむことになる。
す、と通った鼻筋の先には薄い唇。この唇に口付けられたのだと思うと、頬が自然と熱を持つ。私はこの唇の柔らかさもぬくもりも知っているのだ。
「いつまで瞑ってればいいわけ?」
「……もう少し」
もう一度和服を着た全体像を視界におさめ、思う。
今日のツカサの写真が欲しい……。でも、さすがに「写真を撮りたい」と申し出る勇気はない。願わくば、今見ているものが完全に、完璧に脳裏へ焼きつきますように――
私は名残惜しく思いながら、「ありがとう」と終わりを告げる言葉を口にした。
「……今の、なんだったの?」
事前に訊かれるのは抵抗があったけれど、今訊かれる分にはさほど抵抗を感じない。
「……目、開けてるツカサは直視できないから……。でも、着物がすごく似合っていて、見たくて……だから……」
隠すほどのことではないけれど、正直に話すのはやっぱり恥ずかしかった。言葉を続けられなくなると、
「翠、目、瞑って」
「えっ!?」
「……俺にやらせたんだから聞いてくれてもいいと思う」
「あ……うん……」
すぐに目を閉じたけど、ツカサに見られていると思うとそれだけで身体が熱くなる。
お化粧をしたのは初めてではない。けれど、アイシャドウとアイラインは初めてだったし、ここまではっきりとした赤い口紅を使ったところを見られるのは今日が初めて。鏡を見ても、自分ではしっくりとこなかった。そんな私はツカサの目にどう映るのか――
そう考えると、恥ずかしいよりは少し怖かった。
「振袖もメイクも、似合ってる……」
その言葉に息を呑む。目を開き、ゆっくりとツカサを見る。
「……本当?」
尋ねたかったのに、嘘ではない、と表情を見て判断したかったのに、私は全部を言い終わる前にツカサから視線を逸らしていた。
だって、ツカサと目が合ってしまったから。さっきは瞑られていた涼やかな目がこちらを見ていたから。
普段なら、ツカサと一緒にいるときの沈黙は居心地の悪いものではない。けれど、今日はどうしてか会話がないと間が持てない気がして、
「なんか……恥ずかしいね」
口にした直後、この内容では自分で自分を追い詰めかねないと察し、すぐに方向転換を試みる。
「あ、あのねっ、今日、須藤さんが調理スタッフに加わっているらしくて、さっき桃のシャーベットをいただいたの。須藤さんに会いに行きたいのだけど、案内してもらえる?」
「……わかった」
いつものようにツカサが先に立ち手を差し出される。私はその手に自分の手を重ね、ゆっくりと立ち上がった。
建物に入るまで、刺さるような視線を注がれていた。それまでは直接声をかけられることはなかったのに、ツカサのエスコートに変わった途端、声をかけてくる人が増えたように思える。
けれども、それらにはすべてツカサが対応してくれていた。私は尋ねられたときのみ、自分の名前を述べた程度。
中には朗元さんとの関係や、静さんとの関係。秋斗さんとの関係を詳しく訊き出そうとする人もいたけれど、それらはツカサが上手にあしらってくれた。
私に対し自己紹介をしてくれた人もいるけれど、藤宮一族であったりどこぞの企業のお偉いさんであることが多く、自分とはまったく接点のない人たちを夫婦セットで覚えることなどできそうにはない。
「ツカサ、今の人たち全員覚えなくちゃいけないのかな……」
「別に……。面倒くさい人間の相手はこっちに任せてくれてかまわない」
「その言葉、信じてるからね? 私、今日話しかけてきた人の顔も名前もまったく覚えられていないんだから」
「それ、威張ること?」
「威張ってるつもりはないけど、そう見える?」
「強いていうなら、覚えるつもりがまったくないようには見える」
「……否定はしない、かな? だから、覚える必要があるなら今言ってね?」
「今は覚えなくてもいい」
「この先は?」
「覚える必要があれば、顔写真付きのデータを渡すから心配しなくていい」
「……了解」
調理場へ案内されると、私に気づいた須藤さんがすぐに出てきてくれた。
「須藤さん、お久しぶりです」
「翠葉お嬢様、ご無沙汰しております」
「先日はホワイトデーのお菓子をありがとうございました。とっても美味しかったです。それから、先ほど静さんから桃のシャーベットをいただきました。そちらもとても美味しくて……。どうしてもお伝えしたくて、ここまで連れてきてもらいました」
「もったいないお言葉です。まだシャーベットが残っているのですが、司様とご一緒にいかがですか? あたたかいハーブティーもご用意いたします」
「わ、嬉しいです!」
「司様、すぐにご用意いたしますので応接室にてお待ちください」
お屋敷に入ってから調理場まではさほど歩かなかったのに、調理場から応接室まではそれなりの距離があった。
個人のおうちとして、これほど長い廊下を見たのは初めてだった。廊下の先が小さな四角に見える程度には長い。
廊下はお庭に面しているけど藤棚がある庭園との間には池があり、庭園まではちょっとした距離がある。
池には錦鯉が悠然と泳いでいて、池の水面は空に浮かぶ真っ白な雲を映している。
これは廊下であり縁側とは違うのだろうけれど、ここで日向ぼっこをしたら気持ち良さそうだ。
「ここまで長い廊下を見たのは初めて。お庭も広いけど、お屋敷も広いのね?」
「それなりに」
「ここには元おじい様しか住んでいらっしゃらないの?」
「……じーさんの呼び方変わった?」
不意に尋ねられて恥ずかしくなる。
「あ……あの、今日会ったときにね、『朗元さん』とは呼ばないように、って言われたの。それで、『元おじい様』と呼ばせていただくことになって……」
朗元さんにお願いされたことだけど、実の孫でもないのに「おじい様」は馴れ馴れしいだろうか……。それでも、「おじいさん」よりは「おじい様」な気がしたのだ。
そんなことを考えているうちに応接室と思われる場所に着き、中へと促された。部屋へ入った直後、ぐい、とツカサに引き寄せられキスをされる。
「つ、ツカサっ?」
ごく至近距離で見たツカサの目に息が止まりそうになる。かろうじて出た言葉は、
「……口紅、ついちゃったよ?」
ツカサの唇には自分に塗られていた紅がくっきりとついていた。紅は、ツカサの白い肌にとても映える。きれいだな、と一瞬見惚れてしまったくらい。
胸元から懐紙を取り出し渡すと、ツカサは顔を背けて唇を拭った。
再度手を引かれ、部屋の中ほどに置かれたソファに腰掛ける。
もともとの部屋は和室なのだろう。そこに絨毯が敷かれており、和と洋が混在した応接室になっていた。
しばらくは部屋の観察をしていたけれど、気づけば無言空間を意識することとなる。それでも、藤棚にいたときほど居心地が悪いとは思わなかった。思わなかったけれど、まだいつものように顔を見て話せる気はしない。
「ツカサ、手、つないだままでもいい?」
ツカサは何も言わず、離しかけた手に力をこめてくれた。
いつもそう。手をつなぎたいと言えば無言でつないでくれる。そんなことがひどく嬉しいと思う。
側にいられることを嬉しいと思う。でも、ツカサが何を考えているのかを知ることができたらもっと嬉しい。
今、私が何を考えているのかを話したら、ツカサも話してくれるかな……。
「和服姿が似合うのは知っていたのだけど、今日は一段と格好良くてまだまともに見られないの。……でも、いつもみたいに手をつないでいてもらえたら、少しは落ち着く気がするから」
けれども、ツカサから返ってきた言葉は、
「……現状に困っているのは翠だけじゃない」
以上。
私は困ると口にするほど困っているわけではないのだけど、ツカサは困っているらしい。主に何に困っているのかが知りたいところだけど、自分がツカサの立場だったらそこまでは訊かれたくない気がしたから訊くのはやめた。
「……このおうち、とても広いけど住んでいるのは元おじい様だけなの?」
私たちは目を合わせることなく話す。なんとも不自然な感じだけれど、手をつないでいるからか、そこまで奇妙な感じはしなかった。
「……じーさんのほかには住み込みのお手伝いさんとじーさんの側近、ボディーガード、料理長、紫さんと清良さん」
「……藤原さんも?」
「籍は入れてないけど、あの人紫さんの内縁の妻だから」
「……知らなかった」
「籍を入れるにはお互い難しい立場にいるから、この先もこのままだと思う」
「そうなのね……。でも、良かった。元おじい様がひとりじゃなくて」
この広いおうちにひとりだったら――と考えると少し怖い。「ひとり」を意識したとき、寂しくて心細くてどの部屋にいても落ち着けない気がするから。
「……藤山には親族の家があるからさほど寂しくはないんじゃない?」
「……そういうもの?」
「さぁ。料理長を雇っているくせに、うちの夕飯にもよく顔を出すし。俺にはそんな寂しそうには見えない」
大人になったら「ひとり」は寂しいものではなくなるのかな……。
「ツカサがひとりを感じるのはどんなとき?」
「……は?」
ツカサは何を尋ねられたのかわからない、という顔で私を見ていた。きちんと視線を合わせたのは今日これが初めてかもしれない。
「ツカサがひとりを感じるのはどんなとき?」
「……あまり意識して考えたことがない」
そうは言いながらも、ツカサは次に続ける言葉を探してくれている。
「……強いて言うなら、朝の道場にひとりでいるとき」
その答えにツカサらしいな、と思った。
私が「ひとりを感じる時間」を考えるならば、孤独で寂しい時間を想像する。けれども、ツカサが想起するのはまったく別のことなのだ。
「私は、ご飯を食べるときと眠りにつくまでの時間。うちは自営業だから、ひとりでご飯を食べることはめったにないの。だから、ご飯を食べるとき、ひとりだとものすごく寂しい。それから、夜。夜って静かでしょう? 家には家族が揃っているってわかっていても、なんだかひとりのような気がして寂しくなる。小さいときは、蒼兄のベッドやお母さんのベッドによく潜り込んでた」
今でこそ、寂しくなって人のベッドに潜り込むことはなくなったけれど、寂しさ自体を感じなくなったわけではない。「夜」という時間は無条件で不安を助長する気がする。
ほかの人はそんなふうに感じることはないのだろうか。
「じーさんが翠と同じように思っているとでも?」
「ううん、そこまでは思わないけど……」
周りの人が「夜」という時間に何を考えているのか、何を感じるのかは少し気になる。
「そんなに気になるなら、直接じーさんに訊いてみたら?」
「んー……それはちょっと訊きづらい」
「それなら、たまにはここに遊びにくるなり泊まりにくるなりしてあげれば? じーさんは諸手をあげて喜びそうだけど?」
「……そうかな?」
「あとで訊いてみればいい」
「……やっぱり訊けない」
「何をそんなに遠慮してるんだか……」
「だって、図々しく思えるもの」
「それを言うなら、本当の孫でもない人間に『おじい様』って呼ばせているほうが図々しいと思うけど……」
「そうかな?」
そんな会話をしているところにシャーベットが運ばれてきた。
「とっても美味しいのよ?」
「……甘いもの苦手なんだけど」
「果物の桃も苦手?」
「果物なら食べられるけど……」
「なら大丈夫っ! だって、果物の桃の甘さしかしないもの」
気が進まないふうのツカサにスプーンを渡し、ツカサが一口目を口にするのをじっと見ていた。ツカサは居心地悪そうな顔でスプーンを口に運び感想らしきことを口にする。
「……食べられる」
「ツカサ、やり直し。食べられる、はあまりいい感想じゃないよ? 美味しいなら美味しいって言わなくちゃ」
ツカサの顔を覗き込むと、
「……美味しい」
言い直してくれたのに、ばつが悪そうに顔を背けられた。
そんなツカサを見られるのも嬉しい。好き、と思う。
心に好きが溢れる。どうしたらこれをすべて伝えられるだろう。どうしたら伝わるのかな。
彼氏彼女、恋人――そんな関係性には少し憧れた。でも、そんな関係になれたとして、気持ちをすべて伝えられるかは別物みたい。
どうしたら伝わるのかな。どうやったら伝えられるのかな。
そんなことを考えながら、今日二回目のシャーベットを口にした。
ふたりにされた途端、この場はしんとしてしまった。今となっては風が吹くたびに、藤の房がさわわ、と音を立てるのみ。
視線を芝生に落としていたけれど、もう一度藤をバックにしたツカサを見たいと思う。
勇気を出してツカサを見ようとしたら、そのタイミングでツカサが私の隣に腰を下したため、タイミングを逃がしてしまう。
どうしたらツカサを見ることができるだろう……。
考えに考えて、ツカサが自分を見ていなければ見られるかも、という答えにたどり着く。
「ツカサ、お願いがあるの」
「……何?」
「目、瞑って?」
「は……?」
「目、瞑ってほしい」
理由を訊かれるかと構えていたけれど、隣から声は返ってこない。
そっとツカサに視線を向けると、ツカサは目を瞑ってくれていた。私は胸を撫で下ろしてツカサの姿を堪能する。
やっぱり和服がとてもよく似合う。私が見たことのある姿は弓道の道着姿だけだったこともあり、爽やかな印象を受ける青い長着や羽織は新鮮に映った。
姿勢がいいのもいつものこと。でも、和服だとより強調されてびしっとして見える。
そんな中、少し俯きがちの顔には前髪がかかる。漆黒の髪の毛に漆黒の睫。
睫、長い……。
肌は相変わらず陶器のように白く滑らかだ。ツカサの肌ににきびができているのを見たことがない。何をどのくらい気をつけたらこのコンディションを維持できるのか――
気づけば、私は和服姿のツカサではなく、顔のパーツに釘付けになっていた。今まで、こんなに近くでまじまじと見る機会はなかったのだ。
球技大会では試合に出ているツカサを堪能することはできる。けれども、球技大会ではコート外からコート内のツカサを見るのであり、顔の細かなパーツを見つめられるほど近くにはいない。さらには、注視できるほど一所に留まっていてはくれない。ゆえに、普段のツカサとは違う一面――走ったり飛んだりする姿を楽しむことになる。
す、と通った鼻筋の先には薄い唇。この唇に口付けられたのだと思うと、頬が自然と熱を持つ。私はこの唇の柔らかさもぬくもりも知っているのだ。
「いつまで瞑ってればいいわけ?」
「……もう少し」
もう一度和服を着た全体像を視界におさめ、思う。
今日のツカサの写真が欲しい……。でも、さすがに「写真を撮りたい」と申し出る勇気はない。願わくば、今見ているものが完全に、完璧に脳裏へ焼きつきますように――
私は名残惜しく思いながら、「ありがとう」と終わりを告げる言葉を口にした。
「……今の、なんだったの?」
事前に訊かれるのは抵抗があったけれど、今訊かれる分にはさほど抵抗を感じない。
「……目、開けてるツカサは直視できないから……。でも、着物がすごく似合っていて、見たくて……だから……」
隠すほどのことではないけれど、正直に話すのはやっぱり恥ずかしかった。言葉を続けられなくなると、
「翠、目、瞑って」
「えっ!?」
「……俺にやらせたんだから聞いてくれてもいいと思う」
「あ……うん……」
すぐに目を閉じたけど、ツカサに見られていると思うとそれだけで身体が熱くなる。
お化粧をしたのは初めてではない。けれど、アイシャドウとアイラインは初めてだったし、ここまではっきりとした赤い口紅を使ったところを見られるのは今日が初めて。鏡を見ても、自分ではしっくりとこなかった。そんな私はツカサの目にどう映るのか――
そう考えると、恥ずかしいよりは少し怖かった。
「振袖もメイクも、似合ってる……」
その言葉に息を呑む。目を開き、ゆっくりとツカサを見る。
「……本当?」
尋ねたかったのに、嘘ではない、と表情を見て判断したかったのに、私は全部を言い終わる前にツカサから視線を逸らしていた。
だって、ツカサと目が合ってしまったから。さっきは瞑られていた涼やかな目がこちらを見ていたから。
普段なら、ツカサと一緒にいるときの沈黙は居心地の悪いものではない。けれど、今日はどうしてか会話がないと間が持てない気がして、
「なんか……恥ずかしいね」
口にした直後、この内容では自分で自分を追い詰めかねないと察し、すぐに方向転換を試みる。
「あ、あのねっ、今日、須藤さんが調理スタッフに加わっているらしくて、さっき桃のシャーベットをいただいたの。須藤さんに会いに行きたいのだけど、案内してもらえる?」
「……わかった」
いつものようにツカサが先に立ち手を差し出される。私はその手に自分の手を重ね、ゆっくりと立ち上がった。
建物に入るまで、刺さるような視線を注がれていた。それまでは直接声をかけられることはなかったのに、ツカサのエスコートに変わった途端、声をかけてくる人が増えたように思える。
けれども、それらにはすべてツカサが対応してくれていた。私は尋ねられたときのみ、自分の名前を述べた程度。
中には朗元さんとの関係や、静さんとの関係。秋斗さんとの関係を詳しく訊き出そうとする人もいたけれど、それらはツカサが上手にあしらってくれた。
私に対し自己紹介をしてくれた人もいるけれど、藤宮一族であったりどこぞの企業のお偉いさんであることが多く、自分とはまったく接点のない人たちを夫婦セットで覚えることなどできそうにはない。
「ツカサ、今の人たち全員覚えなくちゃいけないのかな……」
「別に……。面倒くさい人間の相手はこっちに任せてくれてかまわない」
「その言葉、信じてるからね? 私、今日話しかけてきた人の顔も名前もまったく覚えられていないんだから」
「それ、威張ること?」
「威張ってるつもりはないけど、そう見える?」
「強いていうなら、覚えるつもりがまったくないようには見える」
「……否定はしない、かな? だから、覚える必要があるなら今言ってね?」
「今は覚えなくてもいい」
「この先は?」
「覚える必要があれば、顔写真付きのデータを渡すから心配しなくていい」
「……了解」
調理場へ案内されると、私に気づいた須藤さんがすぐに出てきてくれた。
「須藤さん、お久しぶりです」
「翠葉お嬢様、ご無沙汰しております」
「先日はホワイトデーのお菓子をありがとうございました。とっても美味しかったです。それから、先ほど静さんから桃のシャーベットをいただきました。そちらもとても美味しくて……。どうしてもお伝えしたくて、ここまで連れてきてもらいました」
「もったいないお言葉です。まだシャーベットが残っているのですが、司様とご一緒にいかがですか? あたたかいハーブティーもご用意いたします」
「わ、嬉しいです!」
「司様、すぐにご用意いたしますので応接室にてお待ちください」
お屋敷に入ってから調理場まではさほど歩かなかったのに、調理場から応接室まではそれなりの距離があった。
個人のおうちとして、これほど長い廊下を見たのは初めてだった。廊下の先が小さな四角に見える程度には長い。
廊下はお庭に面しているけど藤棚がある庭園との間には池があり、庭園まではちょっとした距離がある。
池には錦鯉が悠然と泳いでいて、池の水面は空に浮かぶ真っ白な雲を映している。
これは廊下であり縁側とは違うのだろうけれど、ここで日向ぼっこをしたら気持ち良さそうだ。
「ここまで長い廊下を見たのは初めて。お庭も広いけど、お屋敷も広いのね?」
「それなりに」
「ここには元おじい様しか住んでいらっしゃらないの?」
「……じーさんの呼び方変わった?」
不意に尋ねられて恥ずかしくなる。
「あ……あの、今日会ったときにね、『朗元さん』とは呼ばないように、って言われたの。それで、『元おじい様』と呼ばせていただくことになって……」
朗元さんにお願いされたことだけど、実の孫でもないのに「おじい様」は馴れ馴れしいだろうか……。それでも、「おじいさん」よりは「おじい様」な気がしたのだ。
そんなことを考えているうちに応接室と思われる場所に着き、中へと促された。部屋へ入った直後、ぐい、とツカサに引き寄せられキスをされる。
「つ、ツカサっ?」
ごく至近距離で見たツカサの目に息が止まりそうになる。かろうじて出た言葉は、
「……口紅、ついちゃったよ?」
ツカサの唇には自分に塗られていた紅がくっきりとついていた。紅は、ツカサの白い肌にとても映える。きれいだな、と一瞬見惚れてしまったくらい。
胸元から懐紙を取り出し渡すと、ツカサは顔を背けて唇を拭った。
再度手を引かれ、部屋の中ほどに置かれたソファに腰掛ける。
もともとの部屋は和室なのだろう。そこに絨毯が敷かれており、和と洋が混在した応接室になっていた。
しばらくは部屋の観察をしていたけれど、気づけば無言空間を意識することとなる。それでも、藤棚にいたときほど居心地が悪いとは思わなかった。思わなかったけれど、まだいつものように顔を見て話せる気はしない。
「ツカサ、手、つないだままでもいい?」
ツカサは何も言わず、離しかけた手に力をこめてくれた。
いつもそう。手をつなぎたいと言えば無言でつないでくれる。そんなことがひどく嬉しいと思う。
側にいられることを嬉しいと思う。でも、ツカサが何を考えているのかを知ることができたらもっと嬉しい。
今、私が何を考えているのかを話したら、ツカサも話してくれるかな……。
「和服姿が似合うのは知っていたのだけど、今日は一段と格好良くてまだまともに見られないの。……でも、いつもみたいに手をつないでいてもらえたら、少しは落ち着く気がするから」
けれども、ツカサから返ってきた言葉は、
「……現状に困っているのは翠だけじゃない」
以上。
私は困ると口にするほど困っているわけではないのだけど、ツカサは困っているらしい。主に何に困っているのかが知りたいところだけど、自分がツカサの立場だったらそこまでは訊かれたくない気がしたから訊くのはやめた。
「……このおうち、とても広いけど住んでいるのは元おじい様だけなの?」
私たちは目を合わせることなく話す。なんとも不自然な感じだけれど、手をつないでいるからか、そこまで奇妙な感じはしなかった。
「……じーさんのほかには住み込みのお手伝いさんとじーさんの側近、ボディーガード、料理長、紫さんと清良さん」
「……藤原さんも?」
「籍は入れてないけど、あの人紫さんの内縁の妻だから」
「……知らなかった」
「籍を入れるにはお互い難しい立場にいるから、この先もこのままだと思う」
「そうなのね……。でも、良かった。元おじい様がひとりじゃなくて」
この広いおうちにひとりだったら――と考えると少し怖い。「ひとり」を意識したとき、寂しくて心細くてどの部屋にいても落ち着けない気がするから。
「……藤山には親族の家があるからさほど寂しくはないんじゃない?」
「……そういうもの?」
「さぁ。料理長を雇っているくせに、うちの夕飯にもよく顔を出すし。俺にはそんな寂しそうには見えない」
大人になったら「ひとり」は寂しいものではなくなるのかな……。
「ツカサがひとりを感じるのはどんなとき?」
「……は?」
ツカサは何を尋ねられたのかわからない、という顔で私を見ていた。きちんと視線を合わせたのは今日これが初めてかもしれない。
「ツカサがひとりを感じるのはどんなとき?」
「……あまり意識して考えたことがない」
そうは言いながらも、ツカサは次に続ける言葉を探してくれている。
「……強いて言うなら、朝の道場にひとりでいるとき」
その答えにツカサらしいな、と思った。
私が「ひとりを感じる時間」を考えるならば、孤独で寂しい時間を想像する。けれども、ツカサが想起するのはまったく別のことなのだ。
「私は、ご飯を食べるときと眠りにつくまでの時間。うちは自営業だから、ひとりでご飯を食べることはめったにないの。だから、ご飯を食べるとき、ひとりだとものすごく寂しい。それから、夜。夜って静かでしょう? 家には家族が揃っているってわかっていても、なんだかひとりのような気がして寂しくなる。小さいときは、蒼兄のベッドやお母さんのベッドによく潜り込んでた」
今でこそ、寂しくなって人のベッドに潜り込むことはなくなったけれど、寂しさ自体を感じなくなったわけではない。「夜」という時間は無条件で不安を助長する気がする。
ほかの人はそんなふうに感じることはないのだろうか。
「じーさんが翠と同じように思っているとでも?」
「ううん、そこまでは思わないけど……」
周りの人が「夜」という時間に何を考えているのか、何を感じるのかは少し気になる。
「そんなに気になるなら、直接じーさんに訊いてみたら?」
「んー……それはちょっと訊きづらい」
「それなら、たまにはここに遊びにくるなり泊まりにくるなりしてあげれば? じーさんは諸手をあげて喜びそうだけど?」
「……そうかな?」
「あとで訊いてみればいい」
「……やっぱり訊けない」
「何をそんなに遠慮してるんだか……」
「だって、図々しく思えるもの」
「それを言うなら、本当の孫でもない人間に『おじい様』って呼ばせているほうが図々しいと思うけど……」
「そうかな?」
そんな会話をしているところにシャーベットが運ばれてきた。
「とっても美味しいのよ?」
「……甘いもの苦手なんだけど」
「果物の桃も苦手?」
「果物なら食べられるけど……」
「なら大丈夫っ! だって、果物の桃の甘さしかしないもの」
気が進まないふうのツカサにスプーンを渡し、ツカサが一口目を口にするのをじっと見ていた。ツカサは居心地悪そうな顔でスプーンを口に運び感想らしきことを口にする。
「……食べられる」
「ツカサ、やり直し。食べられる、はあまりいい感想じゃないよ? 美味しいなら美味しいって言わなくちゃ」
ツカサの顔を覗き込むと、
「……美味しい」
言い直してくれたのに、ばつが悪そうに顔を背けられた。
そんなツカサを見られるのも嬉しい。好き、と思う。
心に好きが溢れる。どうしたらこれをすべて伝えられるだろう。どうしたら伝わるのかな。
彼氏彼女、恋人――そんな関係性には少し憧れた。でも、そんな関係になれたとして、気持ちをすべて伝えられるかは別物みたい。
どうしたら伝わるのかな。どうやったら伝えられるのかな。
そんなことを考えながら、今日二回目のシャーベットを口にした。
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