光のもとで1

葉野りるは

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第十四章 三叉路

43話

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 藤宮では放課後の教室に人が残ることはめったにない。
 全校生徒が部活に所属していることと、帰りのホームルームが終わってから三十分で教室に鍵がかけられるため、たいていの人が教室外へ移動する。
 例外はなく、今日もそうだった。
 みんな単独行動が身についているだけに、行き先が同じではないのなら、昇降口まで一緒に行こう、という話にもならない。
 桃華さんが教室を出ると、私は教室にひとりになった。
 ロッカーを開けコートのポケットに手を伸ばす。
 確認するように触れたけれど、思っていたような感触は得られず、コートの生地は形を変えてふにゃりと折れた。
「え……?」
 一瞬にして頭が真っ白になる。
 いつもなら制服のポケットに携帯を入れてからコートを着る。でも、今朝は携帯を忘れそうになったのを蒼兄に指摘され、出かけ間際にコートのポケットに入れたのだ。
 マンションのエレベーターの中でサイレントモードにセットして、教室に着いたらコートを脱いでロッカーへ入れた。
 携帯を取り出すことはすっかり忘れていた。
 だから、あるはずなのだ。コートのポケットに。
「どうして、ないの……?」
 私は信じられない気持ちを抑え、今度は制服のポケットに手を入れる。
 けれども、やっぱり携帯は入っていなかった。
 ロッカーの中に落ちていないかも調べてみたけれど、それらしきものは見当たらない。
 焦りを覚えた私は、再度制服のポケットに手を入れる。
 すでにないことを確認し終わっているにも関わらず、私は席に戻りかばんをひっくり返した。
 思いつく場所はすべて探した。でも、どこを探してもない。
 携帯が、ストラップが、とんぼ玉が、鍵が、ない――
「落ち着こう……落ち着かなくちゃ――」
 私は椅子に座ってかばんに荷物を詰め始めた。
 ひとつひとつきれいに入れることで気持ちを落ち着けようとした。
 落ち着こうと思うのに、心臓はドクドクと鼓動を速め、気は急くばかり。
「どうしよう……」
 自分を抱き締めるように自身の腕をぎゅ、と握ると、バングルの存在に気づく。
「っ……GPS機能――」
 一瞬秋斗さんの顔がよぎったけれど、緊急ではない。
 私にとってはとても大切なもので今すぐどこにあるか知りたいけれど、緊急事態ではない。
 それなら、帰ってから唯兄か蒼兄に携帯の場所を探してもらうべきだ。
 帰ろうっ――帰って唯兄に調べてもらおう。
 学校にあるのなら、もう一度戻ってくればいい。
 算段が立てばあとは行動に移すのみ。
 焦る気持ちに任せて席を立ったら眩暈を起こした。
 大丈夫……少し座っていれば落ち着く。
 真っ暗な視界の中、ただひたすらに「大丈夫」と唱える。
 それが体調に対するものなのか、携帯に対するものなのか、境目はほとんどなかったと思う。
 視界が戻ると今度は慎重に立ち上がり、かばんとコートを手に持って教室を出た。
 階段を下り下駄箱へと急ぐ。
 下駄箱を開け靴に手をかけると、指先に何かが触れた。
 驚きに手を引っ込め、窺うようにに靴の中を見る。と、右の靴に白いものが入っていた。
「……か、み?」
 靴を傾けると白い紙が三つ折にたたまれていた。
 開くと、「お話したいことがあります。放課後、池のほとりで待っています」と女性らしい線の細い字が書かれていた。
「……どうして今日――」
 最近、こういった呼び出しはなかったのに……。
 そこまで考えて、はたと我に返る。
 ……違う。このタイミングだからこの手紙なの……?
 中学では物がなくなることなんて珍しくなかった。でも、高校に入ってからは物がなくなることだけはなかった。
 私はメモ用紙に視線を戻し、じっと見つめる。
 宛名も差出人の名前もない。ただ、「話したいことがある」とだけ書かれている。
 確信も確証もない、ただの勘。
 私は昇降口を出ると桜香苑へ向かって歩きだした。
 逸る気持ちを抑え、走り出したい気持ちを抑えて。

 桜香苑は広い。
 池のほとりといわれても、池の周り全部が「ほとり」だ。
「どこ」という指定がなかったため、私は池から少し離れた場所で立ち止まる。
「こういうとき、人目につくところは避けるよね」
 カメラを思い切り引いた状態、広角を意識して眼前に広がる風景を捉える。
 特定のひとつを注視するのは日常的にしていることだけれど、こうやって全体を見渡すことはめったにしない。
 しかも、冷静に、分析するように景色を見たことなど一度もなかった。
 高等部の敷地図を頭に思い浮かべ、目の前の風景と重ね合わせる。
 池の向こう、人がいる弓道場側ということはない。向かって左側は車道があるからそこでもない。人通りを考えれば橋の手前というのも考えがたい。
 あるとしたら橋の右側、奥の方。梅香苑の手前、弓道場と桜香庵の間はそれほど人通りがあるわけではないけれど、桜香庵からの見晴らしを良くする都合上入り組んではいない。
 桜香庵の手前なら――?
 あそこは桜の木の合間に背丈の高いツツジもある。
 私は桜香庵に続く道の途中で左に逸れた。
 塗装された小道を外れると木々を分け入り、枯れてベージュ色に変わりつつある草の上を歩く。
 道などない。けれど、私は躊躇うことなく目的地に向かって歩いた。
 池に近づくと、木陰に人がいた。
 カサリ――落ち葉を踏んだ音でその人が振り返る。
 髪の毛は長く、腰まである黒いストレート。目は、飛鳥ちゃんのようなきれいなアーモンド形で黒目が大きい。唇は血色のいいピンク色で、リップを塗っているのか艶やかに光って見えた。
 全体的に大人っぽい印象でお嬢様然としている人。
「呼び出しにひとりで応じるというのは本当なのね」
 声の発し方? それとも話し方?
 誰かに似ていると思うのに、その「誰か」が出てこない。
 じっとその人を見ていると、その人の手に自分の携帯が握られていることに気づく。
 何を訊くまでもなかった。
「携帯を返してください」
「これ? 私、拾ったのよ? 感謝してほしいわ」
 その人は携帯ディスプレイを表示させてはクスクスと笑う。
「……落としてはいないと思います」
 ずっとコートに入れてあったはずなのだから、落としようがない。
「あらやだ……では、どうして私が持っているのかしら? まさか、私が盗ったなんて仰らないわよね?」
 にこりと口元に笑みを浮かべる。艶然とした笑みを。
 その口端の上がり方に思い出す。雅さんに似ている、と。
 顔や声ではない。独特の抑揚を感じる話し方や仕草が似ている。
「あなた、どういうつもりなのかしら」
「何がですか?」
「何が? ずいぶんととぼけていらっしゃるのね」
 どういうつもりなのか、とだけ問われてもなんの話なのかさっぱりわからない。
 とにかく携帯を返してほしかった。
「携帯を返してください」
 私の言葉には返事をせず、その人は話し続ける。
「拾ったら、誰のものか調べなくてはいけないでしょう? それで少し中を見せていただいたの。そしたら、指が滑ってしまって着信履歴が表示されたわ」
 クスリと笑い、
「驚いたわ。ロックもかけていないなんて。そんな携帯に、藤宮の方々の番号がこんなにたくさん入っているだなんて」
 す、と身体中の血が引く。
 そこまで考えていなかった。
 携帯は個人情報を内包しているのだ。事、私の携帯は藤宮の人たちの個人情報を――
「返してくださいっ」
「あら、何を今さら慌てていらっしゃるの? ずいぶんと遅いのではなくて? 私がこの携帯を手にしてからどのくらい時間が経っていると思っているのかしら」
 彼女はゆっくりと話し上品に笑う。
「データなんて数分もあればコピーできるのよ? それに、いくつかの操作でこの携帯を初期化することもできるのだけど、ご存知?」
「っ……!?」
「機械に疎いという噂は本当なのね」
 データをコピーされてしまったのだろうか。そしたら静さんたちにも迷惑がかかる。
 どうしようっ――
「私、この中身、全部見てしまったの。そしたら、なぁに? あなた、秋斗様ともずいぶんと親しくていらっしゃるのね? 藤宮一族でもなく、内進生でもないのにどうしてかしら」
「っ……それは、兄が秋斗さんの後輩だからです」
「ふぅん……それにしては、秋斗様からのメールが熱烈ですこと」
 本当に全部見られたのだ。
 受信履歴と送信履歴を交互に見れば、会話の全容が見えるだろう。
 今さら感じても遅い焦りを感じ、背に汗が伝った。
「それなのに、司様にも色目を使って……」
「違うっ」
「あら、何が違うのかしら? 藤宮の殿方をふたりも手玉に取っている方の言葉とは思えないわ」
 ……そういうことなのね。
「どういうつもり」と訊かれたのは、秋斗さんとツカサのことなのね。
「これ、篠塚さんの作品よね?」
 彼女が触れているのは秋斗さんからいただいたストラップ。
 でも、シノヅカって……誰?
「やだ。あなたそんなことも知らずにこれを持っていらしたの?」
 知らないものは知らない。答えようがない。
「ジュエリー篠塚の篠塚誠さんは、藤宮お抱えの宝飾デザイナー。これはその方の手によるものよ。葉は十八金、このハートとチェーンはプラチナ。こんな粗雑なとんぼ玉と安っぽい鍵を一緒に通すなんて神経を疑うわ」
 カッ、と頭に血が上る。
 粗雑なとんぼ玉じゃない。安っぽい鍵じゃない。
 私にとってはどちらも世界にひとつしかないもの。 
 それをそんなふうに言われたくなかった。
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