七夕の出逢い

葉野りるは

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Side 涼

自覚

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 自分が藤宮の人間を好きになろうとは……。
 思わぬ誤算とはこういうことを言うのだろうか。
 腕時計に表示される月日を見て、しばし驚く。彼女と出会ってから、すでに二ヶ月が経っていた。
 短かったと思うのは俺だけか……?
 彼女がどう思っているのかは知らない。わかっていることといえば、噂が広まり飛躍すればすぐに身を引く、ということのみ。
 
 出勤すると、朝から院内が騒がしかった。
 騒がしいといっても、急患が運ばれてきて慌しい、という類のものではない。
 ただ、自分を取り巻く噂が一転したらしい、という程度。
 いつものようにそ知らぬ顔を決め込むと、とてもかわせそうにない人物がやってきた。
 藤宮紫、彼女の兄だ。
「芹沢先生、妹と婚約破棄って言うのは――」
「紫先生、おはようございます」
 にこやかに朝の挨拶などしてみた。
 その言葉にはっとしたのか、きちんと挨拶が返ってくる。
 こういうところに育ちのよさが出るな、などと思っていると、
「……じゃなくてっ」
 瞬時に話を戻された。
「落ち着いてください」
「落ち着くも何も……」
 いつもは温厚な人が、どうにもこうにもおさまりがつかない、といった感じだ。
 掴み掛かることはないが、そうされてもおかしくない勢いがあった。
「紫先生、噂は噂です」
「じゃあっ……」
「私は真白さんとお付き合いをすることは許されておりますが、婚約をしたわけではありません」
「っ!?」
 目を見開き怒りを露にする。
 俺はそれを無視して自分のペースを守る。
「最初の噂は交際。次が婚約、今は婚約解消のようですね? まだ私たちは婚約すらしてないというのに。噂ばかりが先行します」
 紫先生が口を開けた瞬間に、言葉を発した。
「ご安心を……。決して真白さんを弄んでるつもりはございません。私たちはまだ何も決まっておりません。噂は二転三転するものです。どうか、それに心煩わされないようお気をつけください」
 まだ納得もしていないし、言い足りないようでもあった。
 が、噂ごときに時間をとられるのは癪だ。
 そもそも、自分の想いに気づいた途端に婚約破棄説などと――

 噂は聞きたくなくとも聞こえてくる。そして、噂の事実確認をしにくる人間までもが出てきた。
 それらすべて、適当に答えあしらってはいたものの、休憩の度に訊かれていればうんざりもする。
 疲労とイラつきが最高潮に高まった日、帰り支度の済んだ俺に、事務の女が声をかけてきた。
「なんでしょう?」
 自然と、いつもより低い声になる。
 振り返ると、女の表情は硬く、言葉にするなら「緊張」の二文字。
「こちら……」
 そう言って差し出されたのは電話の子機。
 声音に気をつけ、問い返す。
「私に、ですか?」
「は、い……藤宮、会長から……です」
 もしかしたら女の緊張は俺に声をかける前からだったのかもしれない。
 電話をかけてきた人間、藤宮元に緊張を強いられているのだろう。そして、院内を跋扈ばっこする噂を知っていれば、どんな内容なのか、と詮索のひとつやふたつもするのが人間というもの。
「ありがとうございます」
 子機を受け取り、フロアの端へ移動する。
「お待たせいたしました。芹沢です」
『これから屋敷へ来い。十分以内だ』
 それだけで通話は切れた。
 ……紫先生もそうだったが、この狸もか? 情報が早い、というよりは頭に血がのぼりやすいのだろうか。
 血圧計を持っていって測ってみたいものだ、などと考えつつ、子機を先ほどの女に渡す。
「ありがとうございました」
「い、いえっ……」
 女は、俺の顔を見たまま眉をひそめていた。
 心配されるようなことでも、間柄でもないんだが……。
「どうやら噂の件でお叱りを受けるようですよ」
 俺は笑みを残してその場を去った。

 本院を出て数分のところにある車のドアを開け、身体は動かしたままに考える。
 さて、どうするか……。
 今から来い、ということはもう自宅にいるのだろう。
 だとしたら、彼女と連絡を取り、口裏を合わせることはできない。できることといえば――
「あのお手伝いさんがいるといいんだが……」
 いつも電話を取り次いでくれる使用人。名を川瀬といったか……。
 かばんから手帳を取り出しペンを走らせる。『私に話を合わせてください』とだけ記すために。
 書き終えると、そのページを切り、胸の内ポケットにしまった。

 病院から屋敷まで、さほど距離はない。
 あるのは、私有地入り口と屋敷前の警備システムだろう。
 私有地の入り口に着くと、車を降りるように言われる。
 ボディチェックを受けるところまではいつもと変わらないが、そのあと、敷地内に待機していた車に乗るよう指示された。
 車両チェックには今しばらく時間がかかるためだろう。
 エンジンのかかった車には運転手がおり、自分は後部座席へ乗るように言われる。
 運転手は彼女の護衛リーダーを勤める人間、藤堂武。
「お車は車両チェックが済み次第、邸内へ移動させていただきます」
 言うと、車を発進させた。
「お手数をおかけして申し訳ございません」
 儀礼的に礼を述べると、
「いえ……――」
 明らかに、何かを言おうとしてやめたような間。
「何か?」
 訊くと、バックミラー越しに鋭い視線が返された。
「いえ、何もございません」
「……初めてお会いしたときにも感じましたが、何も……というようには思えないのですが」
 この男のことは彼女から少しだけ聞いていた。
 藤宮の分家である藤守、さらにはその分家の藤堂の人間であること。それから、紫先生とは幼馴染で親友という仲であること。
 察しはついていた。この男も彼女が好きなのだろう、と。
「……真白様に何かあってみろ。ただじゃおかない」
 なんともわかりやすい敵意だった。むしろ、敬語を使われないほうがしっくりくる。
「あなたがそう仰らなくとも、すでに会長に呼び出しを食らっている私ですよ? それ以上の何があなたにできますか?」
 答えを訊く前に屋敷に着く。
「あなたは、一介のナイトのままでよろしいのですか?」
 降りる間際にたずねると、
「真白様の気持ちが第一です」
 言葉はまた敬語に戻った。それは俺に対してではなく、彼女に対してのもの。

 屋敷の入り口にはいつもと同じように川瀬という使用人が待っていた。
「応接室までご案内いたします」
「結構です」
「っ!?」
 びっくりした顔をして俺を見上げた。
「驚かせてしまって申し訳ございません。これを……」
 内ポケットから取り出した紙を握らせ、
「真白さんにお届けください。応接室に来る前に、必ず」
「……かしこまりました。応接室にはほかの者に案内させますので、今しばらくお待ちください」
 女が去ったあと、すぐに代わりの人間が来て応接室に案内された。
「失礼いたします」
 応接室に入ると、部屋の主の鋭い視線が飛んでくる。
「お待たせして申し訳ございません」
「時間内に来た者に文句は言わぬわ」
 向かいに座るように、と目で促され、浅めに腰掛けた。
「で、お話とは……?」
 知ってて訊く。
 彼女が来る前に終わらせることができるならばそれに越したことはない。が――
「真白がすぐに来るじゃろう。話はそれからじゃ」
 どうやら、ふたりだけで話を済ませるつもりはないようだった。
 使用人が茶請けと茶を運んできて数分。彼女の声がするまで、部屋はカッカッカッカッ、と人の背丈ほどある振り子時計の音のみ。
「失礼いたします」
 硬質な声が聞こえ、彼女が部屋に姿を現す。
 声だけではなく、表情も硬かった。
 自分と父親を交互に見る彼女に、
「真白さん、こちらへ」
 席を立ち手を伸ばした。 
 彼女は戸惑いながらもその手を取る。 
「ほぉ……どうやら噂は単なる噂のようじゃの?」
 ソファに座りなおすと狸に問われる。目は鋭いというよりも、ニヤリと笑っていた。
 ……仕方ない、受けて立ちましょう。
 す、と息を吸いこみ、静かに、淡々と話す。
「火のないところに煙は立たないものです」
 彼女がはっとした様子でこちらを見ているのを視界の端に捉えた。
 どうか、そのまま何も言わずにいてくれ……。
「ほぉ……? それはどういう意味かぜひ知りたいのぉ」
 狸は髭をいじりながらソファから身を乗り出して見せる。
「お付き合いを認めていただきたくこちらにご挨拶に伺った際にもお話させていただきましたが、現時点ですぐに結婚どうこうは考えていない……と、そう申しましたのを覚えていらっしゃいますでしょうか?」
「おぉ、そんなことも言っておったな? あのときは真白が大声を出すなぞ珍しいものを見たせいか、ほかのことをほとんど覚えておらんでな」
 きっと覚えていたとしてもそう答えるのだろう。だが、そんなことは問題ではない。
 このまま自分のペースで話させてもらえればそれで十分。
 ずっと聞いていた振り子時計の音に、いつしか自分の心拍が重なり始めていた。
 つまり、脈拍は毎分六十前後。速くも遅くもない、いいペースだ。
「院内で婚約、結婚間近だという噂が持ちきりになった際、私は同じことを申しました。お付き合いに関しては肯定しておりますが、結婚に関しては何ひとつ話しておりません」
「くっ……おぬし、なかなか狡賢いのぉ」
 狸はくつくつと笑う。
「それでは、真白が蔑ろにされているようではないか」
 抑揚をつけた口調にも淡々と言葉を返す。
「そのようなつもりはございません。ただ、職場での浮ついた噂は迷惑甚だしいのと厄介だと思いましたので、お付き合いすることはご了承いただいてますが、『婚約』のお許しを得たわけではない、と……そう申し上げたつもりだったのですが」
 笑みを送り、
「言葉の捉え方は実に三者三様ですね」
 言うと、狸は豪快に笑い出した。
 手元にある電話の子機を取り、「夕飯の用意を」と短く告げて切る。
「食べて行くじゃろう?」
 俺はその誘いを笑顔で断った。
「申し訳ございません。帰ってやらねばならないことがございますので」
「ほぉ……なんじゃ? 言ってみよ」
「明日のオペの予習を。勤続二年目の医師にはまだまだ勉強せねばならないことが山積みです。お話がお済みのようでしたら、こちらで失礼させていただきます」
 彼女の手を放し、席を立つと、
「真白、夕飯の席には遅れてもかまわん。そやつを送ってやれ」
「はい」

 応接室を出ても彼女は蒼白な顔で黙り込んでいた。
 邸内ではできない会話がある。
 使用人と言えど、人目のある場所では「申し訳ない」と謝ることすらできない。契約解消の話も同様に――
 そんな状況に、俺はほっとしていた。
 長い廊下を歩き、玄関まで来ると、
「ここまでで結構ですよ」
 そう申し出る。
「いえ、せめてお車まで……」
「蚊に刺されたら痒いですよ? その白い肌が赤くなるのはもったいない。ここまでで結構です」
 瞳を潤ませる彼女を見かねてか、川瀬さんが申し出た。
「お嬢様、私が代わりにお見送りしてまいります。どうか、母屋にいらしてください」
 彼女ためらいながらもその言葉に従った。
 玄関を出て、
「川瀬さんも、こちらで結構ですよ。私はどこぞの令嬢でも跡取りでもありません。こういった見送りには慣れていないんです」
「……お嬢様に申し出た手前、お見送りさせてくださいませ」
 これ以上は困らせるだけか……。
 仕方なく、おとなしく見送られることにした。
 玄関を出て少し歩いた場所に、車が停まっていた。そのすぐ近くにあの男も立っている。
「お車の鍵です」
 渡されたキーを手に、車のドアを開けた。
「あのっ……」
 振り返ると、川瀬さんが早くも声をかけたことを後悔したような顔をしている。
「なんでしょう?」
 川瀬さんは男の目を気にしつつ、
「病院でのお噂は……お嬢様は……」
 あぁ……ここにも噂に踊らされている人間がいるわけか。
 しかし、これは紫先生と同質のもの。色濃く見えるのは「心配」の二文字。
「川瀬さん、噂は噂です。今日はそのことを申し上げに参りました。どうぞ、ご心配なく」
 ふたりに軽く会釈してから車に乗り込み、発進させる。
 車内すべての窓が開けてあったことから、息苦しいむわっとした暑さは感じない。
 ただ、夏の夜らしい、湿気多めの空気がそこにあった。
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