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本編

序幕

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 初めての生観戦だった。

 ものすごい迫力……テレビと比べて臨場感が違いすぎる。
 千手アスラズの本拠地、千手ドーム――一番安い外野ビジター応援席でしかも招待券だけど、そんなの全く関係なかった。
 僕はアスラズを応援しに来たんじゃない。
 このドームの雰囲気を体感したかったんだ。
 ここからマウンドまでとても遠い。距離以上に多くの壁が僕の前に立ちはだかる。
 だけど、僕はいつか必ずあそこに立ってみせる!

「すごいッ! 今の完全に左中間に抜けてた当たりだったよッ! さっすがプロは違うなあ!」
辰弥たつや、あまりはしゃぐな。他のお客さんに迷惑だぞ」

 敵味方関係なく、ワンプレーごとに称賛する僕を弱々しくたしなめる無精髭の父さんは、もはや生きる目的を失った廃人を連想させる。
 子供ながらに、覇気のないこの抜け殻同然の生き物を哀れに思う。
 それでいて、僕はそんな父さんを尊敬してる。
 元々、こうじゃなかった。
 昔の映像で観たんだ。
 絶体絶命のピンチに緊急登板して、四番打者のバットに1球もかすらせずチームを勝利に導いた父さんの全盛期を。
 いつかは僕も父さんみたいにプロ野球のピッチャーになって、バッタバッタと三振の山を築くのが夢だ。

「昔の血が騒がない? また野球をやろうってさ?」
「こら、声が大きい」

 大きいさ。
 ワザと周囲に聞こえるよう喋ってるんだから。

「父さん、猫背はやめて。元プロのピッチャーなんだから堂々と胸を張ってよ。今でも、サイン攻めにあっておかしくないんだから。……ね、小泉辰信こいずみたつのぶ投手?」

 僕の発言に、チラチラと周りの視線がかつての名選手に集まる。
 けれども、父さんは赤くなるどころか顔面蒼白で「トイレに行く」と、そそくさ席を外してしまった。
 情けないな……。
 完全に野球界から足を洗って、今じゃ千手グループの下請け会社の派遣社員だ。恥ずかしがるのもわかるよ。
 でも、過去は幻じゃない。
 卑屈に生きる必要なんてないんだよ。

 あれ……女の子がいる。

 淡いブルーのワンピース。綺麗な黒髪が肩までかかってる。僕と同じ歳くらい。
 気づかなかった。隣の隣にそんなコが座ってたなんて。
 多分、試合の途中から来たんだ。そうだよ、そこはずっと空席だった。
 独りかな? 彼女の両隣りは空席だ。そのうち一つは僕の父さんだけど。
 すっごいジト目で僕を見てる。……はしゃぎ過ぎたから軽蔑してるんだ。

「ごめん。うるさかった?」

 一応、謝ってみた。
 ちょうど今の大ファインプレーでチェンジになったし、少しくらい話しかけても観戦の妨げにならないだろう。

「別に。こういう場所で子供がはしゃぐのは普通じゃない?」

 意外な返答に面食らう。そっちも子供じゃないか。

「キミ、1人で来たの?」
「だとしたら? ナンパする気?」

 僕はまだ小五だ。今のところ女の子には興味もないしナンパする度胸もない。
 確かにクラスの女の子と比べてもダントツに可愛いけどさ、そのタレた目がちょっと苦手だ。
 僕が沈黙を保ってると、

「大人と来てるの。小泉君のお父さんと同じ理由で離席してるだけ」

 ませた喋り方だな。小学生の僕が言うのもおかしいけど。
 大人……親じゃないのかな?
 それよりもビックリした。

「僕の名前知ってるんだね?」
「あなたがお父さんの名前を言ったのよ。忘れた?」

 ああ、そうだった。

「じゃさ、"小泉辰信"を知ってる? 肘を壊すまではアスラズのクローザーだったんだよ」

 年齢的に厳しいと思いつつ、期待を込めて訊いてみる。

「知らない。野球に興味ないから」

 知らないだけならいい。
 興味ないだと?
 野球好きとして今の発言にカチンとくる。

「ずいぶん眠たそうだね。野球に興味がないならとっとと帰って寝たら?」
「コレ、生まれつきのタレ目なの。悪かったわね」

 お互い険悪になってきた。
 もういい。最初に声をかけた僕が間違ってたんだ。
 もうすぐ六回裏が始まる。
 試合に集中しようとグランドに目を移したところで、

「アイドルになるの」

 いきなり、女の子が夢を語り出した。

「別に訊いてないよ」

 素っ気なくそう返す。

「羨ましかった」
「……何が?」
「小泉君がよ。いかにも野球好きって情熱見せつけられてね。馬鹿みたいに叫んでさ」

 馬鹿みたいには腹が立ったけど、僕をジッと凝視してた理由はやっとわかった。

「だから、対抗して自分の夢を語ったの?」
「夢じゃないから。……聞こえなかった? 近い将来、アイドルになるのよ」

 僕は子供だ。思ったことがすぐ口から出てしまう。

「タレ目のアイドルなんて売れないよ」

 場が凍った。

 大観衆から切り取られた、僕と彼女だけの空間が。
 女の子は僕の父さんの席までスライドして、いきなり僕の右肩を左手でドンと突き押した。
 目がマジだ。タレてるけど。
 ムッとなった僕はやり返そうとしたものの、女の子に手を出すのはさすがにカッコ悪い。

「覚えておいて。将来、ドームツアーで全国を回るわ。当然ここもね。……今日はそのイメージを高めるために来たのよ」

 たいした自信だ。
 だけど、自信だけなら僕も負けちゃいない。

「じゃあ、賭けようか? キミがアイドルとしてここに戻って来るか、それとも僕がプロのピッチャーとしてあのマウンドに立つか……どう?」
「勝負にならない」

 女の子は首を振りながら席を立った。一連の動作がどれも天才子役みたいに大人びてる。

「こっちは芸能事務所に所属してるし、ボイトレやダンスのレッスンにも取り組んでいるの。エキストラだけど映画やCMにも出てるし。……で、キミは何をしてるの?」

 グッと言葉に詰まったところに、

「所詮、タダの一観客でしょ?」

 トドメを刺されてしまった。
 僕はリトルリーグにすら所属してない。グローブを買うお金がないから。
 そこに、女の子の保護者らしきスーツの男が戻って来た。
 彼が僕達のやり取りに小首を傾げながら着席しようとした時、

「山根さん、もう帰ります。今日はワガママにつき合っていただきありがとうございました」
「え、試合は?」
「プロの魅せ方は十分に学んだので。それより、少しでも早くレッスンに戻りたいんです」

 山根さんと呼ばれた男はおそらく事務所関係者だろう。
 彼は苦笑しながらも、最終的に「わかったよ」と折れた。
 女の子の肩を抱いて、来たばかりの通路を引き返そうとする。

 いいのか?

 行かせてしまったら、僕は一生負けたままだ。

「オイ、待てよ!」
「……何?」

 冷ややかなタレ目でこっちを捉えてる。
 僕は拳を握りしめて「名前、何て言うんだ? 教えろ!」と肩を怒らせながら吼えた。

「ハツメ」
「は?」
「"初夢はつゆめ"と書いてハツメ。プロフィール上、名字は明かさない。……せっかくだから訊いといてあげる。小泉君は何て名前なの?」

 僕の怒声に対し、ハツメは少しも動じない。
 その落ち着いた素振りにますます腹が立つ。

「辰弥だ! 小泉辰弥! いいか? 絶対に覚えとけよ! プロ入りしたら、最初にオマエにサインしてやる! ハツメじゃなく『タレメさんへ』ってな!」
「せっかく名前を教えてあげたのに損したわ。気分が悪いからとっとと忘れてくれる? こっちもオマエのこと忘れるから。……じゃあね、君」


 それが今から六年前のこと。

 僕とハツメの最初の出会いだった。
 何て憎たらしいヤツだと思ったんだ。

 


     *


 地元の高校に進学して野球部に入部届けを出してから、まだ一週間も経っていなかった。

 小泉辰信が自殺した。

 会社の金を横領した事実が発覚して、自宅で首を吊った。
 第一発見者は僕だ。父さんと2人暮らしだから、必然そうなる。
 遺書には会社に対してのお詫びしか書いてなかった。いまわの際に、僕の存在なんて思い浮かばなかったんだろう。

 母が出て行って、ずっと2人で力を合わせて生きてきた。
 そう思っていたのに、父さんは勝手に独りで逝ってしまった。
 知らない大人がたくさん我が家を訪れた。
 警察が来て、会社の関係者が弁護士を引き連れやって来て、それから数日後、何故だか親会社の千手の人間が僕の元に来た。とても威圧的に。

 それが一年前。

 今は17歳。
 甲子園を目指せる貴重な年齢でありながら、この僕は千手の奴隷にまで成り下がっていた。

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