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第二部 外からの誘い
その1 堀雅代
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母、加奈代から電話がかかった。
由紀子は携帯電話を持っていたが、極力触れないようにしていた。せっかく藪家荘に来たのだから、出来る限り人との関りを断ちたかった。
それで、加奈代からの着信に気づいたのは、電話がきてから三時間以上も経過してからのことである。
荷物の中に入れて来てしまったクロマチックハーモニカを分解し、綺麗に掃除をした。それを組み立て、試し吹きをしている最中、携帯電話がちかちかと点滅しているのに気が付いた。
それは奥の座敷の縁側だった。晴れた日は、冷たい空気を家の中に入れたくて、昼間の間は和室は開け放してある。庭に向かい、ハーモニカを奏でるのは良い趣向だと由紀子は思った。縁に尻をついて座り、くつろいだ格好で、誰の耳も目も気にすることなくーー近所の岡田家だって、ここから随分離れているのだ――好きにハーモニカを吹けるのは、嬉しいことだった。
楽しみの最中に携帯電話の着信に気づき、由紀子は一瞬、見なかったふりをしようかと思った。
しかし、一度気になると絶対に頭から離れないのも由紀子の病的な部分だった。気にしないように努めるほど苛々とした。それで、ついにハーモニカを床に置き、座敷のちゃぶ台に置きっぱなしになっていた携帯を手に取り、加奈代からであることを知った。仕方なく折り返すと、運悪く不在だった。せっかくのハーモニカ日和を台無しにされたような気がして、由紀子はがっかりとした。
吹いてよ、ねえ。
囁き声が風に乗って聞こえたような気がした。
縁側を振り向いたが、開かれた硝子戸からは、赤く色づいた庭のもみじが、尖った枝を手招きするように伸ばしているだけで、もちろん誰もいなかった。
(日に日に、はっきりと聞こえるようになってくる)
この藪家荘に来てから、最初はうっすらと気配を感じる程度だったが、ここに住まう何者かは、どんどん存在を主張してくるようだ。
おずおずとテニスボールを転がしてくるような悪戯っぽさは当初から見られたが、こんなふうに甘えてねだるように囁いてくるようになったのは、最近の事だ。
きい、きい。
ゆりかごの音が静かに聞こえる。そして、その音を聞くと、不思議と我に返る。なにか、深い本能の部分が反応し、しゃんとしなければ、と背筋が伸びる。
きい――マ、マ――きい、き――マーマ。
(赤ちゃんを産んだ母親なら、こんな気持ちになるのだろう)
自分が倒れたら、子供はどうなるのかと、母親なら常に張り詰めているものだろうから。
吹いて、吹いてよ。
また、小さく聞こえた。
由紀子はそれで、鬱に突入しようとしていた自己を取り戻すことができた。電話はいずれまたかかってくるだろう。苛々していても仕方がない。
冷たい風がうなじに触れた。小さな、ぺちゃんとした幼い掌が体に触れて来たかのように冷たかった。
由紀子は一息つくと、綺麗になったクロマチックハーモニカを口に当てた。
**
加奈代からは、和室の縁側から庭に出て、草をちまちまむしっている最中に再び電話があった。
縁に置いた携帯を、軍手を脱ぐ間ももどかしく取った。「あー、元気、そっちはどうなのよ」加奈代は良く言えば温かみのある、悪く言えば無遠慮な口調でそう言った。
「今草むしりしてた」
由紀子は軍手を取りながら言った。ふうん、健康的になったわね、と、加奈代が電話の奥で少し笑ったようだった。やっと、由紀子も微笑みを浮かべることができた。
はらはらと庭木は朽ちた葉を落とす。庭のあちこちに枯れ葉の吹き溜まりができていた。放置していても良いかなとは思ったが、雨が降るとべたべたと地面にはりつき、せっかくの綺麗な庭が汚れているような気がした。草をむしるついでに、ごみ袋に枯れ葉を集めているところだった。由紀子の足元には、もう三袋分の枯れ葉のごみが集まり、袋は軽く口を縛ってあった。
「あんたの同僚の、堀さんて方から家に電話があってね。どうしてるか気になったから連絡してみたって言われたわ」
加奈代はそう告げた。
由紀子は一瞬どきりとした。堀雅代は同僚の中でも親身になってくれる、良い先輩である。友達などいない由紀子に取って、最も心を許すことができる相手かもしれなかった。
「あんた、職場の誰にも、そっちに行って療養すること知らせてないのね」
加奈代は言った。由紀子は無言になった。携帯電話の番号すら職場の誰にも教えてはいない。堀雅代ですら、由紀子に連絡を取る場合は自宅の固定電話にかけてくる。
しばらく加奈代は由紀子の表情を読むように黙った。電話の沈黙は長い。耐えきれなくなった時、加奈代の方から喋り始めた。
「堀さんの携帯番号教えようか。聞いといたから。あんた、直接電話してお話してみたら」
わかった、教えて、わたしから連絡してみるから。
由紀子はそう言った。
「メモ持ってくるから、ちょっといい。あ、それより、ショートメールで携帯番号送ってくれれば助かるわ」
ショートメール。面倒くさいこと言うわねえ、いいわよ、わかったわよ。じゃあね、切るよ。
加奈代はぞんざいに言った。電話を切る一瞬前に「なにも変わりはない。前も言ったけれど、あんまりいい家じゃないからねそこ」と、加奈代は言った。
あまり、いい家じゃない。
由紀子は色々と聞き返したかったが、加奈代はもう電話を切っていた。
(何らかのいわくがあるのは分かるけれど、具体的に何があったのか、誰も何も教えてくれないじゃない)
由紀子は携帯を縁に置くと、また軍手をはめて、庭仕事に戻ろうとした。
その時、唐突に風が吹き上がり、ばさばさと足元のごみ袋が暴れた。あっという間もなく、軽く結わえた袋の口元は弾け、せっかく集めた枯れ葉が一気に飛び散った。
とととと。
猫が走るような軽い音が近づき、枯れ葉が飛び散って狼狽している由紀子のお尻に勢いよくなにかが当たった。振り向くと、黄色いテニスボールが足音に転がっていた。
どこから飛んできたんだろうと首を傾げた。和室の押し入れの中に、不要なものと一緒にしまっておいたはずのテニスボール。
ママ。マ、マ。マーマ。
由紀子はテニスボールを拾い上げると、縁に置いた。
静かに「どこにも行かないわよ。堀さんも優しくていい人だから、心配しないで」と言った。
きい、き。
家のどこからか、ゆりかごが軋む音が小さく応えた。
**
加奈代は早急にショートメールを送ってくれていた。
由紀子は夜、シャワーを浴びてから寝室に入り、ベッドの上に座りながら、携帯をチェックした。時刻は十時を回っており、もし堀雅代が今日、夜勤ではなければ、確実に家にいてくつろいでいる時間だと思った。
がたがたと窓が風に当たって揺れている。
今日に限って、窓が騒いでいる。晴れているけれど風が強い晩なのかもしれない。
おもむろに由紀子は教えてもらった番号にダイヤルした。
何度目かのコールで、懐かしい声が電話に出た。なんの衒いも気取りもない、温かな堀雅代の声が、ダイレクトに由紀子の鼓膜を震わせた。
「あー、坂東さん。どうしてるー、急に連絡しちゃって、なんかごめんねえ」
陽だまりのような雅代の声に、由紀子は知らずに微笑んでいた。聞いているうちに胸が熱くなった。自分はどれほど遠い場所に来てしまったんだろうかと思った。
「こちらこそ、長期休暇を戴いて迷惑をかけてすいません。だいぶ落ち着きました」
由紀子は声の震えを落ち着かせながら答えた。そう、良かったわー、と堀雅代は言った。
「なんかね、気になっちゃって。わたし、ほら、そういうの強いでしょう、知ってるでしょう」
**
由紀子は受話器を手に、無言になった。
堀雅代はぺちゃくちゃと喋り散らすことはなかったが、霊感の類がある人だ。施設の中で、次に誰かがなくなる未来も、堀雅代は正確に当てた。
「坂東さん、次の夜勤にアタルよ。あの利用者さん、ちょっとまずいから気をつけていて」
どうしてそういうことが分かるんですか。
ある時、由紀子のほうから尋ねたことがある。
それは、同じシフトで昼食の時間がかぶった時だったか。二人だけの休憩室だった。
「あー、あれね」
堀雅代はなんでもなさそうに答えた。
「見えるのよ。お迎えが来るのよねえ、そういう場合って。お部屋になにかが出入りしてるのを見たり――耳で聞いたり、鼻で香りを感じたり、かな。そんな感じ」
分からないわよね、だからあたし、坂東さん以外にはこのこと言ってないのよぉ。
けらけらっと堀雅代は笑い、明るくこの話題を終わらせた。
見えないものを感じる能力については、堀雅代は語りたがらない。
**
「お母さんから聞いたけど、今、坂東さんがいるお家、随分古いんだってねえ」
堀雅代は屈託なく続けた。
はっと我に返り、由紀子は「ええ、とっても」と答えた。そうだよねえ、そうだと思った、と、堀雅代は言った。
「そっち、小さい子供がいるんじゃなーい」
と、堀雅代は言った。
一瞬、由紀子はぞわりと背筋が冷たくなった。
「いいえ、ここは誰もいない。わたしが一人で住んでるんです」
由紀子は答えた。
「ふうん」
堀雅代は、ただ明るく、それが故に感情が読み取れない声で言った。
「どっか、親戚のご家族のうちにホームステイしてるのかと思ってたわ。違うんだ」
いいじゃない、広々として贅沢で。ゆっくりできそうね。堀雅代は言った。
「一度、そっち行ってみてもいい」
堀雅代は唐突に言った。
どきんと由紀子の心臓が重たい音を立てた。一瞬迷ったが、由紀子はやはり、堀雅代に会いたかった。ええぜひ、今度の休みにでも。なんなら泊って行って下さいと、由紀子は言った。
「ありがとう。職場の人からも、いろいろ言伝があるし、いっかい寄らせてもらうねー」
明るく堀雅代は言った。
**
電話を切り、由紀子はしばらくぼんやりと足を抱えた。
さっきから、窓硝子が酷く騒いでいる。ごん、ごん――まるで、人が拳を振り上げて、窓を叩いているかのようだった。
ごん、ごん。
ごん。
藪家荘のあちこちの窓が、酷く騒いでいた。今にも割れてしまいそうなほど、風にあおられて音を立てている。由紀子は目を閉じ、耳をふさいだ。
そして、気が付いた。
堀雅代が今まで、どんなに気安くしていても、由紀子に対し、遊びに行こうとか、食事など誘ったことがなかったことに。
こんなふうに、療養中の場所にまで堀雅代が訪ねて来るなんて、思いもよらないことなのだった。
あの、屈託ない、丸い顔でにこにこ笑っている堀雅代を思い浮かべると、心が温かくなった。同時に、なにか得体の知れない不安がもくもくと首をもたげてくるのだった。
(堀さんは、なにが気になって電話をしてきたのだろう)
きい。きい。
ゆりかごが気を引くように、家のどこかで軋んでいる。
由紀子は携帯電話を持っていたが、極力触れないようにしていた。せっかく藪家荘に来たのだから、出来る限り人との関りを断ちたかった。
それで、加奈代からの着信に気づいたのは、電話がきてから三時間以上も経過してからのことである。
荷物の中に入れて来てしまったクロマチックハーモニカを分解し、綺麗に掃除をした。それを組み立て、試し吹きをしている最中、携帯電話がちかちかと点滅しているのに気が付いた。
それは奥の座敷の縁側だった。晴れた日は、冷たい空気を家の中に入れたくて、昼間の間は和室は開け放してある。庭に向かい、ハーモニカを奏でるのは良い趣向だと由紀子は思った。縁に尻をついて座り、くつろいだ格好で、誰の耳も目も気にすることなくーー近所の岡田家だって、ここから随分離れているのだ――好きにハーモニカを吹けるのは、嬉しいことだった。
楽しみの最中に携帯電話の着信に気づき、由紀子は一瞬、見なかったふりをしようかと思った。
しかし、一度気になると絶対に頭から離れないのも由紀子の病的な部分だった。気にしないように努めるほど苛々とした。それで、ついにハーモニカを床に置き、座敷のちゃぶ台に置きっぱなしになっていた携帯を手に取り、加奈代からであることを知った。仕方なく折り返すと、運悪く不在だった。せっかくのハーモニカ日和を台無しにされたような気がして、由紀子はがっかりとした。
吹いてよ、ねえ。
囁き声が風に乗って聞こえたような気がした。
縁側を振り向いたが、開かれた硝子戸からは、赤く色づいた庭のもみじが、尖った枝を手招きするように伸ばしているだけで、もちろん誰もいなかった。
(日に日に、はっきりと聞こえるようになってくる)
この藪家荘に来てから、最初はうっすらと気配を感じる程度だったが、ここに住まう何者かは、どんどん存在を主張してくるようだ。
おずおずとテニスボールを転がしてくるような悪戯っぽさは当初から見られたが、こんなふうに甘えてねだるように囁いてくるようになったのは、最近の事だ。
きい、きい。
ゆりかごの音が静かに聞こえる。そして、その音を聞くと、不思議と我に返る。なにか、深い本能の部分が反応し、しゃんとしなければ、と背筋が伸びる。
きい――マ、マ――きい、き――マーマ。
(赤ちゃんを産んだ母親なら、こんな気持ちになるのだろう)
自分が倒れたら、子供はどうなるのかと、母親なら常に張り詰めているものだろうから。
吹いて、吹いてよ。
また、小さく聞こえた。
由紀子はそれで、鬱に突入しようとしていた自己を取り戻すことができた。電話はいずれまたかかってくるだろう。苛々していても仕方がない。
冷たい風がうなじに触れた。小さな、ぺちゃんとした幼い掌が体に触れて来たかのように冷たかった。
由紀子は一息つくと、綺麗になったクロマチックハーモニカを口に当てた。
**
加奈代からは、和室の縁側から庭に出て、草をちまちまむしっている最中に再び電話があった。
縁に置いた携帯を、軍手を脱ぐ間ももどかしく取った。「あー、元気、そっちはどうなのよ」加奈代は良く言えば温かみのある、悪く言えば無遠慮な口調でそう言った。
「今草むしりしてた」
由紀子は軍手を取りながら言った。ふうん、健康的になったわね、と、加奈代が電話の奥で少し笑ったようだった。やっと、由紀子も微笑みを浮かべることができた。
はらはらと庭木は朽ちた葉を落とす。庭のあちこちに枯れ葉の吹き溜まりができていた。放置していても良いかなとは思ったが、雨が降るとべたべたと地面にはりつき、せっかくの綺麗な庭が汚れているような気がした。草をむしるついでに、ごみ袋に枯れ葉を集めているところだった。由紀子の足元には、もう三袋分の枯れ葉のごみが集まり、袋は軽く口を縛ってあった。
「あんたの同僚の、堀さんて方から家に電話があってね。どうしてるか気になったから連絡してみたって言われたわ」
加奈代はそう告げた。
由紀子は一瞬どきりとした。堀雅代は同僚の中でも親身になってくれる、良い先輩である。友達などいない由紀子に取って、最も心を許すことができる相手かもしれなかった。
「あんた、職場の誰にも、そっちに行って療養すること知らせてないのね」
加奈代は言った。由紀子は無言になった。携帯電話の番号すら職場の誰にも教えてはいない。堀雅代ですら、由紀子に連絡を取る場合は自宅の固定電話にかけてくる。
しばらく加奈代は由紀子の表情を読むように黙った。電話の沈黙は長い。耐えきれなくなった時、加奈代の方から喋り始めた。
「堀さんの携帯番号教えようか。聞いといたから。あんた、直接電話してお話してみたら」
わかった、教えて、わたしから連絡してみるから。
由紀子はそう言った。
「メモ持ってくるから、ちょっといい。あ、それより、ショートメールで携帯番号送ってくれれば助かるわ」
ショートメール。面倒くさいこと言うわねえ、いいわよ、わかったわよ。じゃあね、切るよ。
加奈代はぞんざいに言った。電話を切る一瞬前に「なにも変わりはない。前も言ったけれど、あんまりいい家じゃないからねそこ」と、加奈代は言った。
あまり、いい家じゃない。
由紀子は色々と聞き返したかったが、加奈代はもう電話を切っていた。
(何らかのいわくがあるのは分かるけれど、具体的に何があったのか、誰も何も教えてくれないじゃない)
由紀子は携帯を縁に置くと、また軍手をはめて、庭仕事に戻ろうとした。
その時、唐突に風が吹き上がり、ばさばさと足元のごみ袋が暴れた。あっという間もなく、軽く結わえた袋の口元は弾け、せっかく集めた枯れ葉が一気に飛び散った。
とととと。
猫が走るような軽い音が近づき、枯れ葉が飛び散って狼狽している由紀子のお尻に勢いよくなにかが当たった。振り向くと、黄色いテニスボールが足音に転がっていた。
どこから飛んできたんだろうと首を傾げた。和室の押し入れの中に、不要なものと一緒にしまっておいたはずのテニスボール。
ママ。マ、マ。マーマ。
由紀子はテニスボールを拾い上げると、縁に置いた。
静かに「どこにも行かないわよ。堀さんも優しくていい人だから、心配しないで」と言った。
きい、き。
家のどこからか、ゆりかごが軋む音が小さく応えた。
**
加奈代は早急にショートメールを送ってくれていた。
由紀子は夜、シャワーを浴びてから寝室に入り、ベッドの上に座りながら、携帯をチェックした。時刻は十時を回っており、もし堀雅代が今日、夜勤ではなければ、確実に家にいてくつろいでいる時間だと思った。
がたがたと窓が風に当たって揺れている。
今日に限って、窓が騒いでいる。晴れているけれど風が強い晩なのかもしれない。
おもむろに由紀子は教えてもらった番号にダイヤルした。
何度目かのコールで、懐かしい声が電話に出た。なんの衒いも気取りもない、温かな堀雅代の声が、ダイレクトに由紀子の鼓膜を震わせた。
「あー、坂東さん。どうしてるー、急に連絡しちゃって、なんかごめんねえ」
陽だまりのような雅代の声に、由紀子は知らずに微笑んでいた。聞いているうちに胸が熱くなった。自分はどれほど遠い場所に来てしまったんだろうかと思った。
「こちらこそ、長期休暇を戴いて迷惑をかけてすいません。だいぶ落ち着きました」
由紀子は声の震えを落ち着かせながら答えた。そう、良かったわー、と堀雅代は言った。
「なんかね、気になっちゃって。わたし、ほら、そういうの強いでしょう、知ってるでしょう」
**
由紀子は受話器を手に、無言になった。
堀雅代はぺちゃくちゃと喋り散らすことはなかったが、霊感の類がある人だ。施設の中で、次に誰かがなくなる未来も、堀雅代は正確に当てた。
「坂東さん、次の夜勤にアタルよ。あの利用者さん、ちょっとまずいから気をつけていて」
どうしてそういうことが分かるんですか。
ある時、由紀子のほうから尋ねたことがある。
それは、同じシフトで昼食の時間がかぶった時だったか。二人だけの休憩室だった。
「あー、あれね」
堀雅代はなんでもなさそうに答えた。
「見えるのよ。お迎えが来るのよねえ、そういう場合って。お部屋になにかが出入りしてるのを見たり――耳で聞いたり、鼻で香りを感じたり、かな。そんな感じ」
分からないわよね、だからあたし、坂東さん以外にはこのこと言ってないのよぉ。
けらけらっと堀雅代は笑い、明るくこの話題を終わらせた。
見えないものを感じる能力については、堀雅代は語りたがらない。
**
「お母さんから聞いたけど、今、坂東さんがいるお家、随分古いんだってねえ」
堀雅代は屈託なく続けた。
はっと我に返り、由紀子は「ええ、とっても」と答えた。そうだよねえ、そうだと思った、と、堀雅代は言った。
「そっち、小さい子供がいるんじゃなーい」
と、堀雅代は言った。
一瞬、由紀子はぞわりと背筋が冷たくなった。
「いいえ、ここは誰もいない。わたしが一人で住んでるんです」
由紀子は答えた。
「ふうん」
堀雅代は、ただ明るく、それが故に感情が読み取れない声で言った。
「どっか、親戚のご家族のうちにホームステイしてるのかと思ってたわ。違うんだ」
いいじゃない、広々として贅沢で。ゆっくりできそうね。堀雅代は言った。
「一度、そっち行ってみてもいい」
堀雅代は唐突に言った。
どきんと由紀子の心臓が重たい音を立てた。一瞬迷ったが、由紀子はやはり、堀雅代に会いたかった。ええぜひ、今度の休みにでも。なんなら泊って行って下さいと、由紀子は言った。
「ありがとう。職場の人からも、いろいろ言伝があるし、いっかい寄らせてもらうねー」
明るく堀雅代は言った。
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電話を切り、由紀子はしばらくぼんやりと足を抱えた。
さっきから、窓硝子が酷く騒いでいる。ごん、ごん――まるで、人が拳を振り上げて、窓を叩いているかのようだった。
ごん、ごん。
ごん。
藪家荘のあちこちの窓が、酷く騒いでいた。今にも割れてしまいそうなほど、風にあおられて音を立てている。由紀子は目を閉じ、耳をふさいだ。
そして、気が付いた。
堀雅代が今まで、どんなに気安くしていても、由紀子に対し、遊びに行こうとか、食事など誘ったことがなかったことに。
こんなふうに、療養中の場所にまで堀雅代が訪ねて来るなんて、思いもよらないことなのだった。
あの、屈託ない、丸い顔でにこにこ笑っている堀雅代を思い浮かべると、心が温かくなった。同時に、なにか得体の知れない不安がもくもくと首をもたげてくるのだった。
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