ゆりかごを抱いて

井川林檎

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第一部 藪家荘の中で

その5 ここにいれば大丈夫

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 久々に、あの夢を見た。

 「いなくなればいい」

 体に異物が入った気持ちの悪さを毎日引きずっていた。正幸の子供が自分の胎内にいるということは、やっと切れたと思った縁が未だ存続しているようなものだ。常にだるく、重く、食べ物も受け付けず、由紀子は毎日のように思っていた――いなくなればいい、いっそ。
 だけど、そう思ったことを、次の瞬間に激しく後悔する。勤務先には妊娠の事は未だ告げず、通常通りに出勤していた。けだるく動かない体に鞭打って、のろのろとアパートの駐車場に向かう。楽し気な声が近づいてきて、登校途中のランドセルの子供たちが賑やかしく通り過ぎてゆく。子供。小さな子供。まだ幼稚園から小学校に上がってまもないような、短く細い幼い足。年上の子供についてゆくのが必死で、一生懸命になって、黄色い帽子を振りたてて歩いてゆく。
 (ごめんなさい、ああ、ごめんなさい)
 
 由紀子は下腹に手を当てて泣きたく思う。
 この命に罪はない。この命はやがて生まれて、今通り過ぎた子のように、小学校の制服を纏い、ぴかぴかのランドセルを背負って歩いてゆかねばならない。愛されるために生を受けたというのに、まだ胎内にいるうちから、母親から疎まれ、「いなくなれ」と念じられる。
 (ごめんなさい、ああ)

 由紀子は涙をこらえながら車に乗り込み、アクセルを踏む。
 出勤だ。誰にも言えない秘密を抱えながら、仕事をこなさねばらない。体を動かさねばならない。職場では既に、このところの由紀子の働きの悪さについて、問題視する声があがっている。

 (ああ、ごめんなさい)

 逃れられない重たさ。
 ぐるぐる回るような不安。
 そして、やっぱり由紀子は思うのだ――いなくなればいい、と。

 泣きじゃくりながら由紀子は目覚めた。  

**

 酷く寒い朝、なにか騒々しい。
 悪夢から醒めた由紀子は、まだ暗かったが再び布団に戻る気にはなれず、身支度を整えてお湯を沸かしていた。五時になる前から急に外が活気づいたように思えた。
 台所の窓の外はまだ薄闇であり、触れれば指が凍るような結露がガラスを流れている。しゅんしゅんと湯気を立てたやかんのガスを止め、ポットに移しながら、もう一度由紀子は耳をそばだてる。

 確かに、賑やかしかった。
 この早朝から何だろう、と、由紀子は首を傾げた。ごく遠くから響いてくる声は、どうやら年配の女性たちのものらしく、多分ここらの自治会の関係だろうと由紀子は思った。
 こういう田舎では地区ごとの婦人会が目覚ましく活動していると聞く。それを思うと、ここに越してきてから誰にも挨拶もせず、ほぼ引きこもって暮らしている自分の身が、急に心細く、居づらく感じた。

 それにしても、こんな早朝から何の活動だろう。
 コーヒーを淹れながら、由紀子はあれこれと思いをめぐらす。草刈り活動だろうか――否、それなら婦人会というより、自治会全体で行うものだろう。
 では何か。
 はっと思い出したのは、あの地蔵群だった。坂道羅漢の赤い前掛けや風車、供え物などを新しいものに取り換える作業が、今、行われているのに違いなかった。

 見てみたいような気がしたが、それより、ここに住みながら地域の活動に参加しないことが後ろめたかった。
 悪いことに今日は、燃えるごみの収集日だった。先日、風山に案内してもらったのでゴミステーションの位置は分かる。徒歩で行けない事はないが、距離やごみの量から考えて、車で向った方が良かった。
 ごみ出しに行くには、坂道羅漢の当りを過ぎなくてはならない。人の視線を受けることになるだろう。
 
 本当なら、まだ薄暗い間にごみ出しに行きたかったが、今日は少し時間をずらそうと思った。
 コーヒーを飲み終わると、物置から掃除機を引っ張り出し、広い藪家荘のそうじを始めた。ずうん、と細かいごみを吸い込む掃除機の音は妙に頼もしく、嫌な夢を見て失いかけていた由紀子の重心を取り戻してくれるような気がした。
 照明をつけると、ホールのシャンデリアは古風に輝いた。
 通路やホールの床に掃除機をかけてしまうと、今度は奥の和室に向った。座敷には未だ荷物が積んであり、雑庫のようになっていた。雨戸がしまっているせいで真っ暗な和室の照明をつけると、障子を開いた。しいんと冷たい板張りに足を置くと、ガラス戸を開き、ついでに雨戸を開いた。さあっと湿った庭の空気が和室に流れ込んだ。

 (滅入った時は掃除をしよう)

 体を動かしていると無心になれる。
 空気を入れ替え、掃除機を使っているうちに、由紀子は落ち着いた。
 
 そうだ。悪夢は何度でもきっと見るだろう。過去の事は変わらないのだ。
 流産のことは生涯逃れられない。それでも自分は生きてゆかねばならないのだ。

 (今は、こんな家にまで越してきて、現実から逃げてきているのだから)
 逃避が許されているうちに自分を取り戻し、再び元気に生きてゆけるようにならねばならなかった。
 
 きい。

 聞こえた。ゆりかごが揺れている。家のどこかで、まるで由紀子の気持ちを支えるかのように。
 「マ、マ」
 細い声が聞こえたが、由紀子にはそれは、不気味というよりも、次元を超えて見守ってくれている寂しそうな何かの声のように思われた。そうだ、ここは寂しい。ぽつんと人から離れて隠れて過ごす孤独の場所だ。
 由紀子はひとりきり。
 そして、この藪家荘に恐らくは存在している、目に見えないなにかも、寂しさを抱いているのに違いなかった。

 その時点では由紀子は、ゆりかごを揺らしている存在に対し、むしろ愛おしさを感じていたのだ。

**

 結局、明るくなってからごみ出しに行ったが、坂道にまだ女性たちの姿が見えたので、由紀子はひやりとした。
 割烹着を纏い、温かな恰好をした年配の婦人たちは、坂道羅漢の前で立ち話をしていた。恐らくとっくの昔に作業は終わっているのに、お喋りのほうが長引いているらしかった。
 由紀子は減速して通り過ぎたが、やっぱり女性たちの視線が痛く感じた。なるべく愛想笑いを浮かべながら会釈を何度もしたのだが、こちらを見る女性たちの目は辛辣で、詮索がましく感じられた。身がすくむ思いでゴミステーションまでたどり着き、ゴミ袋三袋分の引っ越しのごみを捨ててしまうと、まだ同じ道を戻った。帰り道も、やはり女性たちの好奇の視線にさらされて、由紀子は、以降、坂道羅漢の活動の日は、ごみ捨ての時間はもっと遅くしようと心に決めた。

 地蔵たちは新しく綺麗な前掛けをし、供え物も新鮮なものにかえられた。
 婦人会の仕事は丁寧であり、この地域で、坂道羅漢をとても大切にしていることが垣間見えた。

 それから数日ほどたったある日の午後、奥の和室の整理をしている時に、ドアのチャイムが鳴った。
 風山だろうかと首を傾げながら玄関に出ると、小柄で目の鋭い、痩せた老女が立っていた。戸惑う由紀子に、老女は微笑みながら、自分がこの地区の婦人会の長であり、挨拶に来たのだと告げた。
 そういえば、あのごみ捨ての日、立ち話の女性たちの中に、このひとの姿を見たような気がする。由紀子は茫然とお辞儀をし、とりあえずはと、中に招いた。

 「広いわねえ。藪家さんのお屋敷に人が住むことがあるなんて、わたしたちも驚いているんですよ」

 婦人会の長は、浅香やえと名乗った。今年七十になるので、そろそろ引退したいのだけど次に引き継ぐ若い人がいないのよと言い、ちらっと由紀子を横目で見た。
 
 引っ越しの片づけがまだ終わっておらず散らかっていることを詫びながら、由紀子は奥の座敷にやえを通した。幸い、積んである荷物はだいたいは片付いており、和室の中央にはもともとこの家に備え付けられていた古い立派なちゃぶ台を置いてあった。座布団もなかったが、とりあえずはそこに座ってもらい、大急ぎで部屋の暖房を入れた。台所からお茶を持ってきて襖を開いた時、浅香やえが座敷の中を歩き回り、あれこれ触れているのを見てしまった。

 「あの、お話というのは」
 由紀子は切り出した。
 浅香は全く悪びれる様子がなく、あらまあ、ほほほと笑いながら席に戻った。湯気のたつ日本茶をすすりながら、「婦人会の活動に参加してみたらと思って、これを渡しに来たんですよ」と、プリントをホチキス止めした荒い冊子を一部、えんじ色の手提げバッグから取り出して、ちゃぶ台に乗せた。
 年間のスケジュールが書いてありますから、と言うと、浅香は電話番号と住所が走り書かれたメモを出した。
 「良かったら参加できるものだけでも。わたしの方からもお誘いしますし、そら、このへんに岡田さんがいるので、岡田さんからもお誘いするよう伝えておきますよ」
 と、浅香は言うと、立ち上がった。
 
 長居されるのではと危ぶんでいたが、思いのほかあっさりと引き上げてくれそうなので、由紀子は内心ほっとした。
 それにしても、婦人会の勧誘とは。冊子をぱらぱら見てみると、思いのほか、活動内容は濃かった。

 「お誘いはありがたいのですが、わたし、療養のために一時的にここに住まわせていただいているので。地域の活動はあまり参加できないと思うのですが」
 玄関から出てゆこうとする浅香に向かい、控えめに由紀子は言った。
 すると浅香はにこにことした顔で振り向くと、笑顔の中で目を鋭くさせて、じっと由紀子を射たのだった。

 「ゴミステーションも自治会で成り立っているのでね。あそこを利用するなら、やっぱり自治会の一員として、役割を果たしていただかなくちゃ」

 さっきまでのやんわりとした感じではなく、ざくりと切り込む強い言い方だった。
 にこにこしながら浅香は、「こういう自治会のことは、あまり分かっておられないのかしら」と口調だけは穏やかに言うと、由紀子の表情を素早く読んだ。それから、ごめんなさいねえ、と一応は詫びてから、大きくにっこりと笑って見せた。

 「療養中ということですが、体の。心の方かしら。だとしたら、なおさら外に出て人と関わった方がいいと思うわよ」
 
 由紀子は絶句した。
 浅香はにこにこと「難しく考えず、できることからでいいから。みんないい人だし、歓迎しますよ」というと、ゆっくりとした動きで敷地から出ていった。

**

 人から離れて一人になるために藪家荘に来たというのに、婦人会に参加するなど、考えもしなかったことだった。
 由紀子としては、一日中でもこの陰うつな家の中に閉じこもり、人目を避けて息をしていたかったのだ。
 もらった冊子をめくってみたが、ページを進めるほどに頭を抱えたくなった。坂道羅漢の維持活動以外にも、バザーだったり、ふれあいサロンだったり、お祭りの活動だったり、週単位で行事が連ねてある。確かにこれでは、例え若い人が地区にいたとしても、敬遠したくなるのではないか。
 
 仕事を定年になり時間をもてあます高齢女性たちに駆り出されて活動するのは、考えただけでも滅入る事だった。
 (出ていきたくない)
 由紀子は本格的に重たく感じた。息をするのも辛くなった。今日はもう午睡をして、夕方まで休んでしまおうと思った。
 (出ていきたくない、この家から)

 久々に知らない人と喋り、疲弊したのかもしれない。
 そのまま由紀子は二階の寝室にあがり、ばたんとベッドに倒れて眠ってしまった。眠りの中で、きいきいとゆりかごがせわしなく軋む音を聞いた気がした。

 サイレンの音を聞いて目を覚ました時、部屋の中は夕日が差し込んで、透明な赤に彩られていた。
 ひんやりとした夕方の空気を感じ、カーデガンを纏い、由紀子は起きた。

 サイレンの音は未だ続いている。それどころか、どんどんこちらに近づいていた。一際大きく聞こえた後、ぴたりとサイレンは止んだ。
 由紀子はカーデガンの上にウインドブレーカーを待とうと、藪家荘から飛び出した。小雨が降っていた。

 由紀子が敷地から出るのと同時に、背広を着た男性が二人、白い息をあげながらこちらに向かうのと出くわした。
 雨に肩を濡らしながら男性たちは由紀子の前に立ちはだかり、自分たちが警察の者であることを告げた。

 「高齢女性が一人、坂道羅漢の前で亡くなっていたんですが」
 刑事は言った。
 「ご家族やご友人の言葉だと、藪家荘に用事で向かった後、戻らないので探しに来て遺体を発見したということなのですが」

 立ちすくむ由紀子を、刑事は探るように見ている。

 「浅香やえさんという人で、婦人会の会長をしておられた。会われましたか」

 由紀子は戸惑いながら頷いた。

**

 急な坂道は小雨で濡れており、浅香は足を滑らせて溝にはまったのではないか。
 溝は浅い水が流れており、浅香はその流れの中に顔をうつ伏せに押し入れて、溺死していたのだという。

 由紀子は道の隅に掘られた細い溝を思い出した。確かにあそこには常時水が流れていたと思う。ほんの浅い水なのに、一度そこで転んでしまったらなかなか立ち上がれず、溺死してしまうのだろうと思うと、心底ぞっとした。

 「事故でしょうね。あの坂は滑りやすいですし」 
 警察の事情徴収は簡単に終わった。刑事は名刺を由紀子に渡すと、また伺うと思いますと宣言して去っていった。
 
 由紀子は茫然として、藪家荘の中に戻った。
 夕食の支度をしようと台所に入ると、テーブルの家に、浅香からもらった冊子が置き去りになっていた。

 (ついさっき、話したばかりの人なのに)

 なんとも言えない気持ちになった。
 
 ガスをつかいながら、ふと由紀子は、自分がどこか安堵していることに気づいた。
 恐らく浅香は今後も婦人会の活動があるたびに自分を呼び出し、執拗に勧誘し続けたのに違いないと思うと、今こうして不慮の事故で浅香が命を落としたことが、まるで天の助けのように思われた――なんということを考えるのかと、由紀子は自分自身を強く責めた。

 (死んでしまえばいいと、願ったわけじゃ、決してない)

 しゅんしゅんとお湯が沸く音に混じり、きいきいと、ゆりかごが軋む音が聞こえた。
 ガスを使い続ける由紀子の背後で、なにか小さなものが台所に入って来て立ち、じっとこちらを見ているような気配があった。
 由紀子は黙って家事を続けた。

 「マ―マ」
 あどけない、小さな声がしたので振り向いたが、もちろんそこには何もいなかった。
 しいんと冷たい沈黙が落ちた。暗い照明がテーブルや調理の手元を照らしていたが、部屋の隅には闇が沈んでいた。

 ママをここから連れ出そうとするなんて、絶対に、許さない。

 ひそひそと楽し気な内緒話が聞こえるように思った。
 由紀子は頭痛を覚えた。アスピリンが残りわずかなことを思い出し、明日、町に行って買い物してこようと心に決めた。

 「ここにいたら、大丈夫」
 護ってあげる。

 空気の中に溶け込むような、ひそやかな内緒話はほとんど聞き取れなかった。
 それは、鬱の瀬戸際にいる時期、ぼうっとしている時に、ふわふわと耳に飛び込んできた幻聴のような感じがした。
 そのとりとめのない幻聴の中に、由紀子は自分を護ってあげる、ここは安全だからという囁きを聞き取ったような気がした。 
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