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第三部 交錯
その1 大井正幸
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「なんだか、お騒がせばかりで悪かったわ」
せっかく、療養中なのに。そう言って、旅行鞄を傍らに、奈津子は申し訳なさそうにした。
奈津子と香代美の藪家荘滞在は、予定よりずいぶん短かった。たった二泊で、奈津子は「そろそろ帰るね」と切り出した。由紀子は黙ってうなずいた。
(その方がいいのかもしれない)
かちゃかちゃと心地よい音である、陶器がぶつかりあう音は。日常の音、安心できる世界の音だと由紀子は思う。
ふわりと緑茶の香りが漂う。もう、奈津子と香代美は簡単に朝食を摂った。電車の時刻を待って、藪家荘の奥の座敷で休んでいる。そこにお茶と茶菓子を運んだ。香代美は無心に絵本を眺めている。奈津子が側で、スマホの画面を操作し、時刻表を確かめている。
「送って行くから心配しないで」
と、由紀子は何度繰り返したか分からない言葉を吐いた。
奈津子は「いきなり帰るって言いだしちゃってるんだから、タクシーでも頼んで駅までいくから。これ以上迷惑かけられない」と、やけに他人行儀なことを言っている。
奈津子なりに、気遣ってくれているのだ、と、由紀子は感じる。
そして、奈津子の体に凭れるようにして足を延ばし、絵本を読む香代美を見た。
奈津子は、自覚していないかもしれないが、どこかで由紀子に対して、後ろめたさのようなものがある。決して奈津子が悪いわけでもない。ただ、奈津子は順当に結婚し、香代美を授かっただけのことだ。変な男にひっかかって、お腹に子供を宿したことに気づかずに離婚し、その後、宿った子供を流産してしまった姉など、奈津子とは全く関係がないはずだ。
**
「お人形壊れちゃったから、ねーちゃんのお人形さんと取り換えて」
緑茶の湯気に見惚れているうちに、ぼうっと頭の中が過去に飛んだ。幼い日、姉と妹の姿。お姉ちゃんだから、という言葉で片づけられた時期が確かにあった。そして奈津子のほうも、人生の中でごくわずかな時期かもしれないが、妹だから仕方がないね、と、甘やかされた時間が存在した。お姉ちゃんは我慢。妹は泣かないよう極力要求を満たして。
姉妹は厄介だ。
人生は別れて行き、ほぼ他人と変わらなくなるくせに、幼少期の記憶は離れない。
奈津子の後ろめたさは多分、幼い時期のあれこれから派生しているーーと、由紀子は思う。由紀子は微笑んだ。
**
後部座席に賑やかな二人を乗せて、軽四は進む。
藪家荘を出る時、香代美は小さなリュックを背中で揺らしながら振り向いて、「じゃあねえ」と手を振った。
奈津子は気がかりそうに由紀子を見た。由紀子は無言で苦笑いした。「子供の遊びよ」と、小さく言ったが、奈津子の表情は晴れなかった。
(藪家荘には確かになにかがいて、香代美はそれを感じることができている)
本当は、香代美の話を聞きたかった。
「このおうちにいる子はいくつくらいなの」
「なんて名前なの」
「どうしてここにいるの」
根掘り葉掘り、聞きたかった。
けれど香代美はただの子供であり、霊媒師ではない。
車を運転しながら、由紀子は考えていた。
あの、プリンのことを。
夜更けに三階の部屋の前に置いて来たプリンのカップ。翌日、明るくなってから取りに行ったが、どこにもなかった。
由紀子は真っ青になって三階から引き返したが、いろいろ考えた末、香代美があそこまでのぼって、プリンを取って盗み食いしたのではないかという結論にたどり着いた。
実際、香代美は甘い食べ物には目がない。あのプリンにしても、母親の分を横取りしそうな勢いで食べていた。
しかし、五歳の子供があの急な階段をのぼり、三階まで行きつき、また無事に引き返してこられるだろうかと思うと、それも疑問だった。
(危ないことは危ないけれど、できないわけではない)
「あーっ、みんないるー」
その時、賑やかしく香代美が叫び、車窓の外を指さして無邪気に笑った。
これっ、香代美、誰もいないじゃないのっ。奈津子が呆れている。
坂道羅漢に、車は差しかかっていた。
真新しい赤い前掛け。風車。
あどけない顔をした地蔵たちは、ひっそりと由紀子たちを見送った。地蔵たちの足元には子供が好みそうな食べ物が供えられており、このところ朝晩になると降りてくる細かな冷たい雨の露に打たれて濡れて、午前の光を受け光っていた。
由紀子はゆっくりと車を進めながら、ありもしないことを妄想した。
もしかしたら、この地蔵たちの中に、プリンアラモードの食べかすを口につけたものがいるのではないかと。
きっとその足元には、プリンのカップのからが転がっているはずである。
(馬鹿なことを)
「姉ちゃん、この地蔵たちって、明らかに子供だよね」
薄気味悪そうに奈津子が声をかけてきた。
車はすでに坂道羅漢の前を通り抜けている。ガードレールの向こう側、雑木林の隙間から、町の景色が覗いていた。
「一体、このへん、どんな歴史があるのかしら」
奈津子は独り言のように呟いた。
由紀子は物さみしい洋楽のCDから、賑やかなラジオに切り替えた。
じきに、駅に着く。
**
賑やかな二人を見送ってから藪家荘に戻る。
帰り道、坂道羅漢たちを横目で見ながら、由紀子は溜息をついた。安堵の溜息だった。
どうしても、由紀子は送らねばならなかった。
由紀子の頭から、あの日、唐突に藪家荘を訪れ、婦人会へ強引に勧誘した浅香のことが消えなかった。
浅香は藪家荘に引きこもる由紀子を外に引っ張り出そうとした。由紀子はそれを嫌がった。
考えすぎだとは自分でも思うが、藪家荘に巣食う何者かが、由紀子の心理に反応し、浅香を死に追いやったのではないかという無意味な恐怖が未だ付きまとう。
(『あの子』は、わたしを藪家荘に引き留めておきたがっている)
「あの子」という言葉を、心の中で、はじめて由紀子は使った。
(『あの子』は、わたしを苦しめる者を、許さない)
きい、き。きい、きい。
「マ、マ」
「ママ大好き」
「ママと、一緒にいたい」
「ママ、ママあ」
はっとした。
坂道羅漢の群れの中に、小さな姿がきょとんと立って、あどけなくこちらを見ていた。
それが纏っていたものが、着物なのか、洋服なのか。
それが、いくつ位の子供なのか。女の子なのか男の子なのか。
由紀子が車の速度をゆるめて、もう一度確認しようとした時には、もうその幻は視界から溶けており、そこには寒い濡れた空気が漂うばかりだった。
**
帰宅して台所で昼の支度をしていると、テーブルに置いた携帯が鳴った。
じゅうじゅう焼けるフライパンの火を止めて電話を取ると、大学時代の友人からだった。
近々、気心の知れたもの同士で同窓会をしたいけれど、良かったらどうかという誘いだった。「由紀子、実家にいるんだよね」と、その、口の軽い友人は気軽そうに言った。由紀子は電話口で微笑みながら「いえ、ちょっと体を壊して、療養中なの。××という田舎にいるから、そこまではとても行けないわ」と答えた。
言ってしまってから、あっと後悔した。自分の居場所を、この友人に教えてしまったことに気づいた。
友人はさして気にも留めていないように「そっかー、わかったよ、じゃあまたねー、大事にしてねえ」というと、電話を切った。いかにも、次に連絡するところがあるから急いでいるといったふうだった。
由紀子は電話をテーブルに戻すと、作りかけの料理に戻ろうとし、軽いめまいを覚えた。
辛うじて椅子に座ると、気持ちを落ち着けるよう、湯呑の残りのお茶を飲んだ。
自分は確かに、ぼうっとしている。それは薬物の影響もあるのに違いない。戸棚の中には食後と就寝時に飲む薬がストックされている。
頭の回転が明らかに鈍くなっているのだ。由紀子は自分を呪った。
(あいつに知られてしまったら)
**
由紀子の元夫、大井正幸。
大学の講座が同じだった。その当時は付き合いがなかったが、社会人になってから正幸から連絡がくるようになった。
だから、今電話してきた友人は、由紀子と正幸が結婚し離婚したことを知らない可能性が高かった。
(もし、その同窓会に、正幸も来るのだとしたら)
どきどきと心拍数が急激にあがった。息がつまるように思った。意識して深呼吸を繰り返しながら、ぐるぐるめぐる思考の波を止めようと試みた。
だけど思考はどんどん不安な方へ流れて行き、由紀子はしばらく目を閉じて動きを止めなくてはならなかった。
おしゃべりで、あまり考えずになんでも言ってしまう友人。
正幸に、由紀子の所在を喋るかもしれない。
(いえ、大丈夫)
もし、由紀子が××町にいることが分かっても、藪家荘の場所までは分からないはずだ。
まさか、正幸がここまで追って来ることはないだろう。
どろどろとした不安がべたべたと貼りついてくる。
怖気が走る。
正幸の、少し猫背気味の姿、中肉中背の基準から、若干外れかけた、腹の出た体型。
大学時代、決して目立つ人ではなかった。みんなに紛れて、にこにことして、誰からも問題視されない代わりに、特に嫌われてもいなかった。
付き合うようになって、違和感を少しずつ覚えたが、由紀子はその年齢まで恋愛経験がなかった。こういうものかと呑気に思った。
「俺の言う通りにして。俺の思う通りの由紀子でいて」
細い目の向こうは奇妙に哀切の光が宿り、そう訴えられると、まるで自分が正幸を傷つけているのではないかと思った。
優しくしなくてはならない。正幸の思いを裏切らないようにしなくてはならない。正幸の気に入るようにしなくてはならない。
実際に暴力が出てきたのは結婚してからのことだ。
それにしても、長い間由紀子は、自分が正幸の心をえぐっているからだと思っていた。悪いのは自分であり、悲しみ狂う程の被害を受けているのは、気の毒な正幸の方なのだと思い込んでいた。
それが違う事を自覚し、その精神の檻から抜け出すきっかけをくれたのが、同僚の堀雅代である。
堀雅代は自分が由紀子にもたらした影響を、知らないままだ。
穏やかに力みなく、大きな意味のある言葉をぽろりと呟くのが、堀雅代だった。
「人は自分を苦しめているものから逃げる権利があるものだよ」
あの言葉を生涯、由紀子は忘れないだろう。
人生経験をしたわけではない。特に、由紀子の事を言ったわけではない。堀雅代は、緊急措置で入所が決まった、ある入居者のことについて呟いたのだ。
その高齢女性は夫に暴力を受け続けて、あざだらけになっていた。施設にきた時点で尿臭が漂う服を纏い、フケで固まった頭髪を晒し、放心した顔をしていた。
「この方がこの施設にいることは極秘です。だから、食事もお部屋で食べてもらいますから」
介護主任が現場に説明し、職員たちは皆、複雑そうに顔を見合わせた。
「逃げ込む場所があるなら、そこで籠っていていいんじゃないかな」
堀雅代はそんなふうに言った。
風がそよぐような軽い調子で。
「人は、自分を苦しめているものから、逃げる権利があるんだよ。それくらい許されるよ」
**
あの当時、由紀子はまだ、大井由紀子だった。
雅代のことを思い出すと、心拍数は徐々にさがり、混乱した頭は平穏に戻った。
やっと落ち着いてから椅子から立ち上がり、由紀子は再び台所に立った。
じゅうじゅうとフライパンが心地よい音を立てる。かんたんなパスタだ。美味しそうな香りが漂う。
(堀さんと、会いたい)
由紀子は、そう思った。すると、その思いはもう止まらなくなった。
そうだ、堀さんはなんでもできる。
あの人は、なんでも見通すし、なにかを言ってくれる。それに。
(堀さんは、霊感があるから)
白い皿にパスタを盛りながら、由紀子は考え続けていた。
せっかく、療養中なのに。そう言って、旅行鞄を傍らに、奈津子は申し訳なさそうにした。
奈津子と香代美の藪家荘滞在は、予定よりずいぶん短かった。たった二泊で、奈津子は「そろそろ帰るね」と切り出した。由紀子は黙ってうなずいた。
(その方がいいのかもしれない)
かちゃかちゃと心地よい音である、陶器がぶつかりあう音は。日常の音、安心できる世界の音だと由紀子は思う。
ふわりと緑茶の香りが漂う。もう、奈津子と香代美は簡単に朝食を摂った。電車の時刻を待って、藪家荘の奥の座敷で休んでいる。そこにお茶と茶菓子を運んだ。香代美は無心に絵本を眺めている。奈津子が側で、スマホの画面を操作し、時刻表を確かめている。
「送って行くから心配しないで」
と、由紀子は何度繰り返したか分からない言葉を吐いた。
奈津子は「いきなり帰るって言いだしちゃってるんだから、タクシーでも頼んで駅までいくから。これ以上迷惑かけられない」と、やけに他人行儀なことを言っている。
奈津子なりに、気遣ってくれているのだ、と、由紀子は感じる。
そして、奈津子の体に凭れるようにして足を延ばし、絵本を読む香代美を見た。
奈津子は、自覚していないかもしれないが、どこかで由紀子に対して、後ろめたさのようなものがある。決して奈津子が悪いわけでもない。ただ、奈津子は順当に結婚し、香代美を授かっただけのことだ。変な男にひっかかって、お腹に子供を宿したことに気づかずに離婚し、その後、宿った子供を流産してしまった姉など、奈津子とは全く関係がないはずだ。
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「お人形壊れちゃったから、ねーちゃんのお人形さんと取り換えて」
緑茶の湯気に見惚れているうちに、ぼうっと頭の中が過去に飛んだ。幼い日、姉と妹の姿。お姉ちゃんだから、という言葉で片づけられた時期が確かにあった。そして奈津子のほうも、人生の中でごくわずかな時期かもしれないが、妹だから仕方がないね、と、甘やかされた時間が存在した。お姉ちゃんは我慢。妹は泣かないよう極力要求を満たして。
姉妹は厄介だ。
人生は別れて行き、ほぼ他人と変わらなくなるくせに、幼少期の記憶は離れない。
奈津子の後ろめたさは多分、幼い時期のあれこれから派生しているーーと、由紀子は思う。由紀子は微笑んだ。
**
後部座席に賑やかな二人を乗せて、軽四は進む。
藪家荘を出る時、香代美は小さなリュックを背中で揺らしながら振り向いて、「じゃあねえ」と手を振った。
奈津子は気がかりそうに由紀子を見た。由紀子は無言で苦笑いした。「子供の遊びよ」と、小さく言ったが、奈津子の表情は晴れなかった。
(藪家荘には確かになにかがいて、香代美はそれを感じることができている)
本当は、香代美の話を聞きたかった。
「このおうちにいる子はいくつくらいなの」
「なんて名前なの」
「どうしてここにいるの」
根掘り葉掘り、聞きたかった。
けれど香代美はただの子供であり、霊媒師ではない。
車を運転しながら、由紀子は考えていた。
あの、プリンのことを。
夜更けに三階の部屋の前に置いて来たプリンのカップ。翌日、明るくなってから取りに行ったが、どこにもなかった。
由紀子は真っ青になって三階から引き返したが、いろいろ考えた末、香代美があそこまでのぼって、プリンを取って盗み食いしたのではないかという結論にたどり着いた。
実際、香代美は甘い食べ物には目がない。あのプリンにしても、母親の分を横取りしそうな勢いで食べていた。
しかし、五歳の子供があの急な階段をのぼり、三階まで行きつき、また無事に引き返してこられるだろうかと思うと、それも疑問だった。
(危ないことは危ないけれど、できないわけではない)
「あーっ、みんないるー」
その時、賑やかしく香代美が叫び、車窓の外を指さして無邪気に笑った。
これっ、香代美、誰もいないじゃないのっ。奈津子が呆れている。
坂道羅漢に、車は差しかかっていた。
真新しい赤い前掛け。風車。
あどけない顔をした地蔵たちは、ひっそりと由紀子たちを見送った。地蔵たちの足元には子供が好みそうな食べ物が供えられており、このところ朝晩になると降りてくる細かな冷たい雨の露に打たれて濡れて、午前の光を受け光っていた。
由紀子はゆっくりと車を進めながら、ありもしないことを妄想した。
もしかしたら、この地蔵たちの中に、プリンアラモードの食べかすを口につけたものがいるのではないかと。
きっとその足元には、プリンのカップのからが転がっているはずである。
(馬鹿なことを)
「姉ちゃん、この地蔵たちって、明らかに子供だよね」
薄気味悪そうに奈津子が声をかけてきた。
車はすでに坂道羅漢の前を通り抜けている。ガードレールの向こう側、雑木林の隙間から、町の景色が覗いていた。
「一体、このへん、どんな歴史があるのかしら」
奈津子は独り言のように呟いた。
由紀子は物さみしい洋楽のCDから、賑やかなラジオに切り替えた。
じきに、駅に着く。
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賑やかな二人を見送ってから藪家荘に戻る。
帰り道、坂道羅漢たちを横目で見ながら、由紀子は溜息をついた。安堵の溜息だった。
どうしても、由紀子は送らねばならなかった。
由紀子の頭から、あの日、唐突に藪家荘を訪れ、婦人会へ強引に勧誘した浅香のことが消えなかった。
浅香は藪家荘に引きこもる由紀子を外に引っ張り出そうとした。由紀子はそれを嫌がった。
考えすぎだとは自分でも思うが、藪家荘に巣食う何者かが、由紀子の心理に反応し、浅香を死に追いやったのではないかという無意味な恐怖が未だ付きまとう。
(『あの子』は、わたしを藪家荘に引き留めておきたがっている)
「あの子」という言葉を、心の中で、はじめて由紀子は使った。
(『あの子』は、わたしを苦しめる者を、許さない)
きい、き。きい、きい。
「マ、マ」
「ママ大好き」
「ママと、一緒にいたい」
「ママ、ママあ」
はっとした。
坂道羅漢の群れの中に、小さな姿がきょとんと立って、あどけなくこちらを見ていた。
それが纏っていたものが、着物なのか、洋服なのか。
それが、いくつ位の子供なのか。女の子なのか男の子なのか。
由紀子が車の速度をゆるめて、もう一度確認しようとした時には、もうその幻は視界から溶けており、そこには寒い濡れた空気が漂うばかりだった。
**
帰宅して台所で昼の支度をしていると、テーブルに置いた携帯が鳴った。
じゅうじゅう焼けるフライパンの火を止めて電話を取ると、大学時代の友人からだった。
近々、気心の知れたもの同士で同窓会をしたいけれど、良かったらどうかという誘いだった。「由紀子、実家にいるんだよね」と、その、口の軽い友人は気軽そうに言った。由紀子は電話口で微笑みながら「いえ、ちょっと体を壊して、療養中なの。××という田舎にいるから、そこまではとても行けないわ」と答えた。
言ってしまってから、あっと後悔した。自分の居場所を、この友人に教えてしまったことに気づいた。
友人はさして気にも留めていないように「そっかー、わかったよ、じゃあまたねー、大事にしてねえ」というと、電話を切った。いかにも、次に連絡するところがあるから急いでいるといったふうだった。
由紀子は電話をテーブルに戻すと、作りかけの料理に戻ろうとし、軽いめまいを覚えた。
辛うじて椅子に座ると、気持ちを落ち着けるよう、湯呑の残りのお茶を飲んだ。
自分は確かに、ぼうっとしている。それは薬物の影響もあるのに違いない。戸棚の中には食後と就寝時に飲む薬がストックされている。
頭の回転が明らかに鈍くなっているのだ。由紀子は自分を呪った。
(あいつに知られてしまったら)
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由紀子の元夫、大井正幸。
大学の講座が同じだった。その当時は付き合いがなかったが、社会人になってから正幸から連絡がくるようになった。
だから、今電話してきた友人は、由紀子と正幸が結婚し離婚したことを知らない可能性が高かった。
(もし、その同窓会に、正幸も来るのだとしたら)
どきどきと心拍数が急激にあがった。息がつまるように思った。意識して深呼吸を繰り返しながら、ぐるぐるめぐる思考の波を止めようと試みた。
だけど思考はどんどん不安な方へ流れて行き、由紀子はしばらく目を閉じて動きを止めなくてはならなかった。
おしゃべりで、あまり考えずになんでも言ってしまう友人。
正幸に、由紀子の所在を喋るかもしれない。
(いえ、大丈夫)
もし、由紀子が××町にいることが分かっても、藪家荘の場所までは分からないはずだ。
まさか、正幸がここまで追って来ることはないだろう。
どろどろとした不安がべたべたと貼りついてくる。
怖気が走る。
正幸の、少し猫背気味の姿、中肉中背の基準から、若干外れかけた、腹の出た体型。
大学時代、決して目立つ人ではなかった。みんなに紛れて、にこにことして、誰からも問題視されない代わりに、特に嫌われてもいなかった。
付き合うようになって、違和感を少しずつ覚えたが、由紀子はその年齢まで恋愛経験がなかった。こういうものかと呑気に思った。
「俺の言う通りにして。俺の思う通りの由紀子でいて」
細い目の向こうは奇妙に哀切の光が宿り、そう訴えられると、まるで自分が正幸を傷つけているのではないかと思った。
優しくしなくてはならない。正幸の思いを裏切らないようにしなくてはならない。正幸の気に入るようにしなくてはならない。
実際に暴力が出てきたのは結婚してからのことだ。
それにしても、長い間由紀子は、自分が正幸の心をえぐっているからだと思っていた。悪いのは自分であり、悲しみ狂う程の被害を受けているのは、気の毒な正幸の方なのだと思い込んでいた。
それが違う事を自覚し、その精神の檻から抜け出すきっかけをくれたのが、同僚の堀雅代である。
堀雅代は自分が由紀子にもたらした影響を、知らないままだ。
穏やかに力みなく、大きな意味のある言葉をぽろりと呟くのが、堀雅代だった。
「人は自分を苦しめているものから逃げる権利があるものだよ」
あの言葉を生涯、由紀子は忘れないだろう。
人生経験をしたわけではない。特に、由紀子の事を言ったわけではない。堀雅代は、緊急措置で入所が決まった、ある入居者のことについて呟いたのだ。
その高齢女性は夫に暴力を受け続けて、あざだらけになっていた。施設にきた時点で尿臭が漂う服を纏い、フケで固まった頭髪を晒し、放心した顔をしていた。
「この方がこの施設にいることは極秘です。だから、食事もお部屋で食べてもらいますから」
介護主任が現場に説明し、職員たちは皆、複雑そうに顔を見合わせた。
「逃げ込む場所があるなら、そこで籠っていていいんじゃないかな」
堀雅代はそんなふうに言った。
風がそよぐような軽い調子で。
「人は、自分を苦しめているものから、逃げる権利があるんだよ。それくらい許されるよ」
**
あの当時、由紀子はまだ、大井由紀子だった。
雅代のことを思い出すと、心拍数は徐々にさがり、混乱した頭は平穏に戻った。
やっと落ち着いてから椅子から立ち上がり、由紀子は再び台所に立った。
じゅうじゅうとフライパンが心地よい音を立てる。かんたんなパスタだ。美味しそうな香りが漂う。
(堀さんと、会いたい)
由紀子は、そう思った。すると、その思いはもう止まらなくなった。
そうだ、堀さんはなんでもできる。
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