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第三部 交錯
その2 ゆりかごのビジョン
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雅代は来年で還暦を迎える。
施設の介護士の中では大御所のほうだが、年齢だけでいえば雅代より上はいる。パートタイマーではあるが、七十を超えても務める人がいるくらいだ。
(この仕事は、年とっても続けることができる)
そりゃあ、体力は追いつかなくなるけれども。
(早く、たくさんやるだけが、良い介護というわけじゃない)
数年前まで施設の正職員の定年は還暦だった。去年から定年が六十四歳になった。つまり、人手がないということだった。
雅代は、あともう少しで定年だ、夜勤免除される、楽になると思っていたのに、この青天の霹靂の事態を受けて、つくづくと情けなくなった。どんどん人は辞めていくし、入ってくる若手はいない。それほどまでに嫌われる業種なのだろうか、施設介護は。
「堀さん頑張るねー、風呂介助ありがとうございまーす」
その日、雅代は入浴介助の業務にあたっていた。入浴介助の仕事は、ただでさえ重たい利用者が多いなか、施設の重労働の一つだ。
「いいえぇ。若い人みたいにてきぱきできないけれど、わたしはわたしで楽しんでやってるわよ」
雅代はいたわりの言葉に、そう答える。三日月型に目を微笑ませて。
ぽちゃっとした体型に色白の肌は、昔から変わらない。雅代がこの施設に入社したのは、もう十年以上前のことだ。そのころから、雅代の外見はほとんど変わらない。
だから、雅代が来年還暦であることを知ると、職員はみな、びっくりする。
「堀さん辞めないでくださいよー。堀さんに育ててもらった人が、何人もいるんだから」
中堅どころの職員からそう言われると、雅代は苦笑する。確かにここに来てから雅代は、もう何人もの後輩を励まし、指導してきた。しかし、そうして教えた者のうち、辞めていった人数のなんと多いことか。
(育ててもらった人、か)
風呂介助が長引いたせいで、その日の昼休憩はいつもよりずれた時間だった。雅代が休憩室に入った時、そこで休んでいた職員たちはちょうど今、現場に戻ろうとするところだった。
あー、堀さん、お疲れ様です、ゆっくり休んで―。
若い者たちが口々に言いながら、怒涛のように現場に繰り出してゆくのを、雅代はにこにこと見送った。
カップ麺にお湯をそそぎ、ぼんやりとテレビをながめながら、「育てた後輩」のなかの一人、坂東由紀子を思い出していた。
三年前だったか、坂東由紀子が離婚したのは。それまで、職員間の噂で、由紀子の腕に青あざがあったとか、顔半分が腫れていたとか囁かれたことが幾度となくあった。
「旦那さん、ドメスティックなんじゃないの」
口さがない中年の職員らは、面白おかしく言い合った。
由紀子は決して表に出さなかったが、確かに時折、びっこを引いていたり、暑い日なのに腕を隠すためか長袖だったりと、気がかりな様子を見せた。
そういう時、ふとした瞬間の由紀子の表情は、まるで死んだ魚の目のように虚ろで覇気がないのだった。
(直接聞くことができなかったけれど、分かってしまったから)
堀雅代は、坂東由紀子の思考を覗いたことを、未だに公開している。
あれは人生の深淵。絶望の淵だ。
(因果な力だ)
**
雅代は霊感がある。
施設に漂う霊は、まあ、見ようと思えばどれだけでも見ることができた。
外にも、職員同士でなんらかの精神的確執が生じている場合、互いに激しい生霊を飛ばし合っているのも見ることができた。
だから、雅代は水面下でいがみあう職員同士を、簡単に見抜くことができる。雅代がグループリーダーだった頃は、相性の悪い職員同士、シフトをずらすようにしたので、グループの雰囲気は他に比べて、とても良かった。
霊感とは別に、人の思いを見抜く力も、いつからか備わった。
この力は最初からあったものではなく、雅代自身、人生で波乱があり、それを乗り越えた頃に身についたものだった。
人の苦しみや悲しみを、感覚として捉え、理解することが、雅代にはできる。
表向きでは、みんなに悪く言われ、また、そうなることが当然のように見える、非が多い人物であっても、なぜ嫌われるような素行に走るのか、その理由が雅代には分かるのだった。
だから雅代は、滅多に人を悪くは言わないし、怒ることもない。
どんな人も苦しみは対等にあるのだと判っていたから。
雅代が坂東由紀子の「深淵」を見たのは、由紀子がその問題のDV夫から逃れ、離婚が成立した前後のことだ。
大井由紀子が坂東由紀子になり、職員たちは陰で「これで良かったのだ」と心から言い合った。面白おかしく噂を言い立てる連中ですら、由紀子の様子を気遣っていた。
実際、こぎつけるのに苦労した離婚らしい。恐ろしいもので、これだけ職員や利用者の家族が出入りする場だから、個人の秘密などあってないようなものだ。誰かかれかが、由紀子の事情を知っていた。
「やっぱりDVだったんだって。おまけに、ものすんごいマザコンだったらしいよ」
「うっわ、最悪。よくそんなのと結婚したね」
「坂東さん、ぽーっとしてるからなー」
休憩室で、ひそひそと職員たちは言い合った。
坂東由紀子の元夫はDV男。由紀子の結婚生活は不幸そのものだった。離婚の話が出て、耐えきれず由紀子が家を出た後も相手が納得せず、いつまでも由紀子を追い回していた。
「子供いなくてよかったじゃん」
「ほんとそうだね」
子供なんかいたら、一生、そこから逃れられなかったんじゃないの、坂東さん。
**
カップ麺を啜りながら、雅代は暗い顔で思い続ける。
そうだ、子供のことだ。
あの頃、坂東由紀子はそのことで絶望の淵に立たされていた。
(分かってしまったから)
胎内には確かに命が宿っており、それは微弱ながら正常な美しい輝きを放っていた。宿った子供にはなんら罪はない。そこにはただ親の愛に包まれてのびやかに成長するためにこの世に降り立った、綺麗な命が眠っていた。
由紀子はしかし、そのことを受け入れ兼ねていた。
もちろん職場にも妊娠を告げず、今まで通りの過酷な勤務を続けていた。
雅代は気が気ではなく、由紀子の様子をちょろちょろと見守りに行った。由紀子は動きが鈍く、辛そうだった。雅代の手を借りる度に、弱弱しく微笑んで頭を下げた。
由紀子の胎内の輝きが突然光を失い、濁った鉛色に変化したのは、まもなくだった。
由紀子は通院し、体調不良として二日ほど休んでから、職場に戻ってきた。その時点で由紀子の胎内は完全に空になっているのを、雅代は見抜いた。
(あれは、流産)
宿った命が天に召された。生まれないまま命を失った。
それはもちろん誰のせいでもない。
流産によって、由紀子は身軽になったはずだった。
今度こそ、おぞましいDV夫のくびきから解き放たれるはずだった。
ところが、由紀子の絶望は、流産前よりも深く、暗く、閉じこもったものになったようだった。
人には見せないように、由紀子は振舞い続け、そしてある日、様子がおかしくなった。
「鬱、みたいです。外にもいろいろ。統合失調症の可能性もあるって、お医者さんから言われて」
ある夜勤の時、誰もいないのを見計らい、そっと由紀子は雅代に告げた。
「だから、療養させてもらおうかと。もう診断書は出したんです。ご迷惑かけます。申し訳ありません」
由紀子が若干鬱っぽいのでは、という噂は、前々から流れていた。
心身の不調による療養、と表向きには言われ、職員たちは納得した。
そうだよね、少しやすめばいいと思うよ。ここ数年、大変だっただろうから。
女性が多い職場は、女同士の苦労が理解できるところが長所だ。
中には「ずるい、自分だけ。わたしも鬱になれば休ませてもらえるかな」とか言い出す者もいたが、大半は「ゆっくりね」と快く由紀子を送り出した。
「本当に申し訳ありません。戻ってきましたら、また一から出直すつもりで頑張りますから、よろしくお願いします」
最後の日、深く頭を下げて、少し涙ぐんで、由紀子は各グループを回った。
大きな花束をもらい、餞別の贈り物をもらって、由紀子はひっそりと職場を後にした。
雅代は気がかりに思い、由紀子の荷物をひとつ持ち、正面玄関まで見送った。
由紀子は微笑んでいたが、由紀子の深い部分から漏れ出すものは、暗く重たく、どこか不吉なー―死の色だ、と、雅代は思った――感じがした。
**
「きい、き」
軋む音。
なんの音だろう。雅代はラーメンをすすりながら耳を澄ます。
テレビの音ではない。天井を通る水道の管だろうか。それとも、施設のどこかの引き戸が軋んでいるのか。
どれも違う気がした。聞きなれない音だった。しかも、どこから聞こえてくるのか、得体が知れなかった。
「きいきいきい」
その音は空気中を漂い、手招きしているかのようだ。
(なんだろう)
雅代は霊障には慣れているが、これはそういう類とは少し違う気がした。
なにか、小さくて、揺れ動くものが、音を立てているのだ。
雅代にはそれが何なのか、とっさには分からなかった。
ラーメンを食べ終わる頃、雅代の携帯が鳴った。メールの着信音だった。
なんだろうと取り上げてみて、息を飲んだ。
坂東由紀子から、メールが届いている。
**
「いかがお過ごしですか、御迷惑かけています」というような、由紀子らしいくどくどとした前置きの後で、「落ち着きましたので、良かったら遊びにいらしてください」と書いてあった。所在地の住所まで明記されていた。
**
「ゆりかご・・・・・・」
メールを開いた瞬間、雅代の脳裏には、それがありありと浮かび上がった。
古い、年代物のゆりかごが揺れている。
ほこりっぽく暗く狭い場所で、それはずっと、待ち続けている。
(誰を)
雅代はしばらく眉をひそめて、頭の中に浮かんだ不気味なゆりかごのビジョンを追った。
粘着するように、ゆりかごの音はいつまでも耳に残る。雅代は頭痛を覚えた。
大きな、寂しい、古い館。
そこは、坂東由紀子に取って、快適な場所であるらしい。
けれど、由紀子がその場所を快適だと思うこと自体が、雅代は心配だった。
由紀子がいてはならない場所だと、雅代は感じた。
施設の介護士の中では大御所のほうだが、年齢だけでいえば雅代より上はいる。パートタイマーではあるが、七十を超えても務める人がいるくらいだ。
(この仕事は、年とっても続けることができる)
そりゃあ、体力は追いつかなくなるけれども。
(早く、たくさんやるだけが、良い介護というわけじゃない)
数年前まで施設の正職員の定年は還暦だった。去年から定年が六十四歳になった。つまり、人手がないということだった。
雅代は、あともう少しで定年だ、夜勤免除される、楽になると思っていたのに、この青天の霹靂の事態を受けて、つくづくと情けなくなった。どんどん人は辞めていくし、入ってくる若手はいない。それほどまでに嫌われる業種なのだろうか、施設介護は。
「堀さん頑張るねー、風呂介助ありがとうございまーす」
その日、雅代は入浴介助の業務にあたっていた。入浴介助の仕事は、ただでさえ重たい利用者が多いなか、施設の重労働の一つだ。
「いいえぇ。若い人みたいにてきぱきできないけれど、わたしはわたしで楽しんでやってるわよ」
雅代はいたわりの言葉に、そう答える。三日月型に目を微笑ませて。
ぽちゃっとした体型に色白の肌は、昔から変わらない。雅代がこの施設に入社したのは、もう十年以上前のことだ。そのころから、雅代の外見はほとんど変わらない。
だから、雅代が来年還暦であることを知ると、職員はみな、びっくりする。
「堀さん辞めないでくださいよー。堀さんに育ててもらった人が、何人もいるんだから」
中堅どころの職員からそう言われると、雅代は苦笑する。確かにここに来てから雅代は、もう何人もの後輩を励まし、指導してきた。しかし、そうして教えた者のうち、辞めていった人数のなんと多いことか。
(育ててもらった人、か)
風呂介助が長引いたせいで、その日の昼休憩はいつもよりずれた時間だった。雅代が休憩室に入った時、そこで休んでいた職員たちはちょうど今、現場に戻ろうとするところだった。
あー、堀さん、お疲れ様です、ゆっくり休んで―。
若い者たちが口々に言いながら、怒涛のように現場に繰り出してゆくのを、雅代はにこにこと見送った。
カップ麺にお湯をそそぎ、ぼんやりとテレビをながめながら、「育てた後輩」のなかの一人、坂東由紀子を思い出していた。
三年前だったか、坂東由紀子が離婚したのは。それまで、職員間の噂で、由紀子の腕に青あざがあったとか、顔半分が腫れていたとか囁かれたことが幾度となくあった。
「旦那さん、ドメスティックなんじゃないの」
口さがない中年の職員らは、面白おかしく言い合った。
由紀子は決して表に出さなかったが、確かに時折、びっこを引いていたり、暑い日なのに腕を隠すためか長袖だったりと、気がかりな様子を見せた。
そういう時、ふとした瞬間の由紀子の表情は、まるで死んだ魚の目のように虚ろで覇気がないのだった。
(直接聞くことができなかったけれど、分かってしまったから)
堀雅代は、坂東由紀子の思考を覗いたことを、未だに公開している。
あれは人生の深淵。絶望の淵だ。
(因果な力だ)
**
雅代は霊感がある。
施設に漂う霊は、まあ、見ようと思えばどれだけでも見ることができた。
外にも、職員同士でなんらかの精神的確執が生じている場合、互いに激しい生霊を飛ばし合っているのも見ることができた。
だから、雅代は水面下でいがみあう職員同士を、簡単に見抜くことができる。雅代がグループリーダーだった頃は、相性の悪い職員同士、シフトをずらすようにしたので、グループの雰囲気は他に比べて、とても良かった。
霊感とは別に、人の思いを見抜く力も、いつからか備わった。
この力は最初からあったものではなく、雅代自身、人生で波乱があり、それを乗り越えた頃に身についたものだった。
人の苦しみや悲しみを、感覚として捉え、理解することが、雅代にはできる。
表向きでは、みんなに悪く言われ、また、そうなることが当然のように見える、非が多い人物であっても、なぜ嫌われるような素行に走るのか、その理由が雅代には分かるのだった。
だから雅代は、滅多に人を悪くは言わないし、怒ることもない。
どんな人も苦しみは対等にあるのだと判っていたから。
雅代が坂東由紀子の「深淵」を見たのは、由紀子がその問題のDV夫から逃れ、離婚が成立した前後のことだ。
大井由紀子が坂東由紀子になり、職員たちは陰で「これで良かったのだ」と心から言い合った。面白おかしく噂を言い立てる連中ですら、由紀子の様子を気遣っていた。
実際、こぎつけるのに苦労した離婚らしい。恐ろしいもので、これだけ職員や利用者の家族が出入りする場だから、個人の秘密などあってないようなものだ。誰かかれかが、由紀子の事情を知っていた。
「やっぱりDVだったんだって。おまけに、ものすんごいマザコンだったらしいよ」
「うっわ、最悪。よくそんなのと結婚したね」
「坂東さん、ぽーっとしてるからなー」
休憩室で、ひそひそと職員たちは言い合った。
坂東由紀子の元夫はDV男。由紀子の結婚生活は不幸そのものだった。離婚の話が出て、耐えきれず由紀子が家を出た後も相手が納得せず、いつまでも由紀子を追い回していた。
「子供いなくてよかったじゃん」
「ほんとそうだね」
子供なんかいたら、一生、そこから逃れられなかったんじゃないの、坂東さん。
**
カップ麺を啜りながら、雅代は暗い顔で思い続ける。
そうだ、子供のことだ。
あの頃、坂東由紀子はそのことで絶望の淵に立たされていた。
(分かってしまったから)
胎内には確かに命が宿っており、それは微弱ながら正常な美しい輝きを放っていた。宿った子供にはなんら罪はない。そこにはただ親の愛に包まれてのびやかに成長するためにこの世に降り立った、綺麗な命が眠っていた。
由紀子はしかし、そのことを受け入れ兼ねていた。
もちろん職場にも妊娠を告げず、今まで通りの過酷な勤務を続けていた。
雅代は気が気ではなく、由紀子の様子をちょろちょろと見守りに行った。由紀子は動きが鈍く、辛そうだった。雅代の手を借りる度に、弱弱しく微笑んで頭を下げた。
由紀子の胎内の輝きが突然光を失い、濁った鉛色に変化したのは、まもなくだった。
由紀子は通院し、体調不良として二日ほど休んでから、職場に戻ってきた。その時点で由紀子の胎内は完全に空になっているのを、雅代は見抜いた。
(あれは、流産)
宿った命が天に召された。生まれないまま命を失った。
それはもちろん誰のせいでもない。
流産によって、由紀子は身軽になったはずだった。
今度こそ、おぞましいDV夫のくびきから解き放たれるはずだった。
ところが、由紀子の絶望は、流産前よりも深く、暗く、閉じこもったものになったようだった。
人には見せないように、由紀子は振舞い続け、そしてある日、様子がおかしくなった。
「鬱、みたいです。外にもいろいろ。統合失調症の可能性もあるって、お医者さんから言われて」
ある夜勤の時、誰もいないのを見計らい、そっと由紀子は雅代に告げた。
「だから、療養させてもらおうかと。もう診断書は出したんです。ご迷惑かけます。申し訳ありません」
由紀子が若干鬱っぽいのでは、という噂は、前々から流れていた。
心身の不調による療養、と表向きには言われ、職員たちは納得した。
そうだよね、少しやすめばいいと思うよ。ここ数年、大変だっただろうから。
女性が多い職場は、女同士の苦労が理解できるところが長所だ。
中には「ずるい、自分だけ。わたしも鬱になれば休ませてもらえるかな」とか言い出す者もいたが、大半は「ゆっくりね」と快く由紀子を送り出した。
「本当に申し訳ありません。戻ってきましたら、また一から出直すつもりで頑張りますから、よろしくお願いします」
最後の日、深く頭を下げて、少し涙ぐんで、由紀子は各グループを回った。
大きな花束をもらい、餞別の贈り物をもらって、由紀子はひっそりと職場を後にした。
雅代は気がかりに思い、由紀子の荷物をひとつ持ち、正面玄関まで見送った。
由紀子は微笑んでいたが、由紀子の深い部分から漏れ出すものは、暗く重たく、どこか不吉なー―死の色だ、と、雅代は思った――感じがした。
**
「きい、き」
軋む音。
なんの音だろう。雅代はラーメンをすすりながら耳を澄ます。
テレビの音ではない。天井を通る水道の管だろうか。それとも、施設のどこかの引き戸が軋んでいるのか。
どれも違う気がした。聞きなれない音だった。しかも、どこから聞こえてくるのか、得体が知れなかった。
「きいきいきい」
その音は空気中を漂い、手招きしているかのようだ。
(なんだろう)
雅代は霊障には慣れているが、これはそういう類とは少し違う気がした。
なにか、小さくて、揺れ動くものが、音を立てているのだ。
雅代にはそれが何なのか、とっさには分からなかった。
ラーメンを食べ終わる頃、雅代の携帯が鳴った。メールの着信音だった。
なんだろうと取り上げてみて、息を飲んだ。
坂東由紀子から、メールが届いている。
**
「いかがお過ごしですか、御迷惑かけています」というような、由紀子らしいくどくどとした前置きの後で、「落ち着きましたので、良かったら遊びにいらしてください」と書いてあった。所在地の住所まで明記されていた。
**
「ゆりかご・・・・・・」
メールを開いた瞬間、雅代の脳裏には、それがありありと浮かび上がった。
古い、年代物のゆりかごが揺れている。
ほこりっぽく暗く狭い場所で、それはずっと、待ち続けている。
(誰を)
雅代はしばらく眉をひそめて、頭の中に浮かんだ不気味なゆりかごのビジョンを追った。
粘着するように、ゆりかごの音はいつまでも耳に残る。雅代は頭痛を覚えた。
大きな、寂しい、古い館。
そこは、坂東由紀子に取って、快適な場所であるらしい。
けれど、由紀子がその場所を快適だと思うこと自体が、雅代は心配だった。
由紀子がいてはならない場所だと、雅代は感じた。
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