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春の足音
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わたしは意識して今日のことを忘れようとした。
なんといっても今夜は鉄板焼きパーティであり、最高に楽しい晩になるはずなのだ。沙織を迎えに行った時、晴れていた空が鮮やかな夕焼けに染まった。蛍光色のような鮮やかさは、凍り付くような冬だからこそ見られる色だと思う。
ふっと吐き上げる息がオレンジピンクと群青色の空に溶け、黒い影になった鳥たちが慌ただしく頭上を越えてゆく。ダッフルコートの前を掻き合わせて、冷気が首元に入らないようにした。
昼間は小春日和だったが、夕暮れ時から急激に寒くなる。
冬は、全ての色が主張する。
薄く暗くなってゆく道、ぽつぽつ明かりが着く通りの店達。
グラウンドは小島のように雪が残り、いったん溶けかけたそれらは夜になるとまた、固く凍り付く。てらてらと明かりを受けて光る土は、夏は野球少年たちに踏まれていた。今、真冬のグラウンドで遊ぶ子供は誰もいない。
緑のフェンス越しに歩いていたら、ちょうど校門から子供たちが出てくるのと出くわした。先生さよならー。気を付けて帰りなさい。わあきゃあ。寒いね、寒い。楽し気な少女たちの一団から離れたところで、赤いランドセルの沙織がいた。
下校班の子たちとは相性が悪い。最初は耐えながら集団下校していた沙織だけど、この頃は「嫌なものに無理やり付き合う義理はない」ということを悟ったようで、少しずつ少しずつ、キライな子たちの集団と距離を取りながらのろのろ歩いている。
良い、根性だ。
わたしの姿を見たら、つまらなさそうに口をとがらせていた沙織が、ぱっと明るい笑顔になった。
生意気そうに笑っている少女たちを抜かして走ってきて、たるちゃんケーキ買いに行こうケーキ、と、飛びついて来た。
ケーキ。これからわたし、ケーキ買いに行くんだもんね!
沙織は多分、これを後ろから歩いてくる嫌いな子たちに聞かせたかったのだろう。いいでしょう、ケーキだよ、わたし今日これからケーキ食べるんだから!
なんとなく沙織の背後を見たら、ディ〇ニーランドやら、アニメのキャラクターやらの話で得意そうに盛り上がっていた下校班の子たちが唖然としていた。沙織はにやにやしているし、わたしも可笑しくなった。
「シャンティに行こう、あのお洒落な店」
と、わたしが、前から沙織が行きたいと言っていた新しいケーキ屋さんの名前を出すと、犬みたいにぴょんぴょん飛び跳ねられた。
手を繋いで道を渡って、そのケーキ屋に寄るために大回りして梟荘への帰路についた。夕暮れはますます進み、蛍光色の赤を残しつつ、空はもっと濃くて暗い赤に馴染んだ。群青色の夜が混じり始めており、向こう側には一番星が見えている。
車道はうちに帰る車たちが忙しく走っており、通りの家々からは香ばしい夕食のにおいが漂い始めていた。
ケーキ屋さんに着くと、沙織は目を輝かせてケーキをウィンドウ越しに眺め、あれもこれもと選び始めた。わたしの誕生日だよ、と言ってやったら、うんわかってる、だから一番たるちゃんに似合いそうなの選ぶの、と返って来た。
「これはたるちゃんの、これは優菜ねえちゃんの、これは沙織の」
一つずつセレクトしている。
沙織に選ばせて代金を払い、ケーキの箱を大事に持って帰った。
楽しそうなイラストが描かれた綺麗なケーキの箱。幸せの箱。
箱からは甘い匂いが漂った。
梟荘に到着して、玄関に入った時、沙織がなにか気になる風にわたしを見上げた。
「たるちゃん、なんか怖いことあった」
そう聞かれて、わたしはどきりとした。沙織は敏感に感じ取っている。昼間ここで起きた、あの恐ろしい出来事を。
「ないよ、なにもない」
わたしは答えた。うまく演じることができたと思う。
沙織はすぐに納得すると、玄関から中に入り込み、自室にランドセルとアノラックを置きに駆けていった。
**
じゅうじゅう焼ける肉と野菜。
大人はビールを飲んで、沙織は炭酸ジュースを飲んだ。
いつもと同じようにラジオが流れていた。
台所は温かで和やかで、世界のどこよりも安全に守られていた。
優菜が帰ってきてから宴が開かれ、わたしたちは最高にはしゃいだと思う。
沙織はとびきりの笑顔でクラッカーを騒々しく鳴らし、カラフルな紙屑が散らばったテーブルに、優菜が楽しそうな悲鳴を上げた。
「おいしい」
「おいしいねー」
安い肉を山ほど買っておいて良かった。女子三人が全力で食べ始めたら、こんなに食べきれないと思っていた肉がどんどんどんどん減っていった。
じゅーじゅわー。焦げた玉ねぎのほろ苦い旨み。たるちゃん野菜ばっかり食べてる、はいお肉。沙織がこまっちゃくれた口調で、自分の箸で焼けた肉を取ってわたしの皿に乗せた。
「うっま」
優菜はがばがばと食べた。化粧が落ちかけた頬が、脂でてらてら輝いている。
二人が何も気にしないで、にこにこしながら物を食べているのを見ていると、わたしは自然に幸せになる。
優菜も沙織も、気になることだらけ、嫌なことだらけの日々を送っているはずだけど、ちゃんと笑えている。きっと人はみんな、全部忘れてとびきりの楽しさの中に浸ることを、許されているのだと思う。
良かった。みんなもりもり食べている、はちきれそうに笑っている。ちゃんと幸せなんだ。
オレンジ色の温かな輝きの中に閉じ込められた、こんなふうに優しくて強い風景を、わたしは生涯、忘れない。
優菜も沙織も大事な家族なんだ、二人は必ず幸せになって欲しい、絶対に泣いてばかりだったり、強くて卑劣な人に踏みにじられて不幸になったりしてほしくはない。ちゃんと認められて、愛される人でいて欲しい。
(カミサマ、こいつらを護って、幸せにして、せめて人並みに)
「おいしいなー」
沙織が取ってくれた肉を口に入れて、わたしはしみじみと呟いた。
**
バレンタインはとうの昔に終わっており、コンビニの中はホワイトデーになっている。
夜勤の度に適当なホワイトデー用ポスターを作り、店の中のあちこちに貼りつけていたら、井上さんから「もうちょっと何とかしてよ」と、苦笑いされた。
わたしのセンスで作るポップは、ちっともロマンチックではないイラストばかり使っている。謹賀新年のシュールなポップは井上さん的にはオッケーだったようだけど、バレンタインやホワイトデーにはシュールさは求めていないと言われた。
「面白いんだけどねー」
売り場に貼られたイラストの一つを指さして、井上さんは微妙な顔をしている。
目を血走らせた牛が闘牛士の持っているハート型のお菓子に突っ込んで行くイラストに「ホワイトデー」と、飾り文字が乗せられている。
「この闘牛士、次の瞬間にはヤラレてるなー」
わかりました、ちょっと可愛いものに変えますね。
わたしは淡々と答えて、パソコンの前に座る。適当な素材を探して作り直すのくらい、どうってことはなかった。
単に、井上さんはシュールナンセンスが好きなのかなと思ったので、そういう飾りつけを試みただけである。特にこだわりはなかった。
かたかたポップを作っていると、背後から井上さんが画面を覗いた。ふわっと煙草の臭いがした。
すぐ横に井上さんの尖った鼻先があり、眼鏡の奥の細い目がちらっとわたしを射た。優しい目だけど、一瞬、なにか考えているような鋭さが走ることがある。
「山崎さん、昼間は自宅」
と、聞かれたので、はいと答えた。立て続けに井上さんは色々質問してきた。インターネットは繋がっているのか。htmlを触った経験はあるのか。ブログを書いたり読んだりすることはあるのか。
「この店だけじゃなくて、ネットビジネスもしてるから、そっちの手伝いをしてくれる人も探していたんだよ」
山崎さんのセンスは凄く良いと思う。コピーライトの才能もあると思う。店の仕事の片手間に、そっちの仕事もしてもらえたら助かる。ちょっと考えてみて。
気軽そうにそう言うと、井上さんは分厚いコートを上に着て、店の外に出ていった。
凍てつく夜、僅かな仮眠の為に自宅に戻る彼。
店は少しの間、わたし一人の空間となる。昔懐かしいポップスが楽し気に流れ、商品棚は明るい照明の下で人待ち顔だった。
もうあと四時間ほどで商品を届けてくれるトラックが来る。その頃には井上さんも戻ってくる。それまでわたしは言われた仕事をこなし、店の中を綺麗に掃除するのだ。
棚をひとつひとつ丁寧に見て行き、昼間、お客さんが手に取って違う所に入れた品物を戻す。
その間に、おでんはぐつぐつと気持ちよく煮え始めるし、ホットフードのガラスケースの中はほどよく温まる。
お客のいない時間は、垂れ幕の内側で次の舞台に取り掛かる地道なあわただしさ。あれもこれもと欲張って動きたくなるのをぐっと堪え、まずはこれ、そしてこれと、順序良く片づけてゆく。
やがて朝が来る頃、お店は通勤途中のサラリーマンや朝ごはんを抜いた学生さんが駆け込んできて良いように、お品もそろい、床もトイレもピカピカになっているのだ。
電子レンジの中を掃除したり、イートインコーナーのテーブルを拭いたりしながら、わたしは井上さんの言葉を噛みしめる。
この店だけではなくて、別の仕事も手伝ってほしいと井上さんは言ってくれた。こんな寂れたお店一軒で、安定した生活ができるわけがないとは薄々思っていたけれど、やっぱり井上さん、二足の草鞋を履いていたようだ。
わたしはこの店が好きだけど、それ以上に、井上さんが創り上げた、この居心地の良い場所が好きだった。ということは、別の言葉で言えば、井上さんの下で働くのが好きと言う事だ。
(雇ってくれて、評価してくれた御恩は深い)
夜勤のアルバイトに来ると、昼勤の子たちと僅かな時間、シフトが重なる。ほんの少しの時間だけど、他のバイトさんたちと触れ合うことがある。
どの子にも、ざらっとした嫌な感じを覚えなかった。もしかしたら、このお店で働く人はみんな、自分と似た部分があるのかもしれないと思う。
夜だけではなく昼も井上さんのお仕事を手伝うとなると、わたしの生活はずいぶん変わってくる。いくら居心地が良くても、仕事にほぼ一日囚われるのは、恐ろしい気がした。
なによりわたしは、まだもう少し、自由な時間が欲しかった。
忙しく充実した飛躍の日々は眩しいし、素晴らしいものだろう。わたしはずっとそういうものに憧れて来た。
あの、もう辞めてしまった編集プロの仕事だって、活躍したい、頑張りたいと思っていたのにそれが叶わずに終わってしまったのだ。本来、わたしは仕事が好きなはずだった。没頭して熱心に活動して、認められてみたかった。
その夢が、井上さんという人と繋がったことで、すぐそこまで来ている。
(きっとわたしは、すごく充実した、忙しくて楽しい日々を送ることになる)
ブログを更新したり、宣伝のキャッチコピーを考えたりする仕事は、自分に向いていると思う。きっと上手にできると判っていた。
それでもわたしは、井上さんの申し出に即答しかねている。まだだ。もう少しだけ。
もうじき過ぎ去ろうとしている、この暗い闇のトンネルを、名残惜しんでいたかった。
沙織や優菜とだらだら過ごした、なにも良いことなんかないけれど、暇で先行きが見えなくて、不安に満ちているくせに、どこか温かな時間を、最後まで堪能したいと思う。
**
どんなに暗くて辛い時期でも、必ず光る何かがある。
もうすぐ、低迷していたわけのわからない時期を抜け出そうとしているわたしには、それがよく判る。
どろどろで、いっぱい苦しんでいても、絶対に温もりや愛らしい幸せはちりばめられていて、その一つ一つのありがたみが、その時は分からない。
過ぎ去ってしまい、もうそれに触れることが叶わなくなった頃、ああ、あんなことがあった、と懐かしく愛おしく思い出すのだ。
二月が終わろうとしている。まだ季節は冬だけど、暦は春だ。
相変わらず寒い日が続いているし、まだ雪がちらつくことがある。寒くて冷たくて滑りやすくて、外に出るのは億劫だ。
けれど、日差しが柔らかく丸みを帯びてきていることに気づいている。
すうっと流れる凍てつく風の中に、ぬるいお湯が混じるように春のにおいが感じられる。
すぐそこに、芽吹きが来ていた。
あの、早川芽衣侵入事件以来、わたしは神経質な程に戸締りを確認するようになった。
玄関掃除をした後、鍵をしめ、しかも何度もちゃんと鍵がかかっているか確認してから中に入った。
温かな台所のテーブルに座り、ふっと思い出して戸棚の引き出しを開いた。そこには、あの素晴らしい誕生日パーティの夜の思い出が潜んでいる。
優菜からのプレゼントは、ガラスの林檎のペーパーウェイトだ。掌に転がるほどの大きさで、未だに箱から取り出さずにしまわれている。優菜は、使ってよ、と、念押しするように言っていたが、もったいなくて使えないのだ。
その林檎は暗いところでは、夜光虫のように光る。わたしはこっそり、朝早い暗がりの中でそれを出して、楽しんだ。
沙織からのプレゼントは。
大事にそれを摘まみ上げて目の前で揺らしていたら、自然と笑顔がこぼれた。
一生懸命に作ったんだろう。あの小さい丸い指で、ビーズの一粒一粒を選んで、糸に通す。さぞ疲れたろう、時間がかかったろう。
ジリリリ。電話が鳴った。
わたしは沙織からの贈り物を手に握りしめたまま、梟荘の廊下に走り出た。黒電話が鳴り続けている。冷たい廊下をぺたぺたと走って、大急ぎで受話器を取った。
「はい、山崎……」
指先でビーズの珠を弄びながら。
わたしは受話器を取り、笑顔で挨拶を交わし、そして、思わず黙りこくって目を見開いた。
電話は、……県で出稼ぎをしている沙織の母親からである。穏やかで優し気な話し方は受話器越しに聞いていても心地が良かった。
「……商会が、大きな会社に合併されたので、色々なことが変わりました」
沙織ママは、自分が勤めている職場が変化したことを告げた。それは、沙織ママにとっても、沙織にとっても、とても良い変化であるはずだった。
**
ばさ。
廊下の窓ごしに、雪が落ちる音が聞こえた。少し残っていた屋根雪が溶けたのか。
わたしは目を見開いた。梟荘の廊下の、白い壁紙を見つめていた。
沙織と一緒に、暮らすことができるようになりました。
沙織ママは、そう言った。
仕事場が変わり、さらに遠い場所に引っ越すという。その地では定住できるので、もう転勤することはなくなるだろう。会社から住宅も支給される。
それは、とても遠い場所だった。
わたしはその遙か北の地方の、聞いたこともない名前の土地で、温かな冬を過ごす沙織ママと沙織の姿を想像しようとした。
しんしんと足元が冷え込む梟荘の廊下。だけど春は、すぐそこに来ていた。
沙織の作ったビーズブレスレッドが、受話器を握るわたしの手首でくるくると揺れた。
なんといっても今夜は鉄板焼きパーティであり、最高に楽しい晩になるはずなのだ。沙織を迎えに行った時、晴れていた空が鮮やかな夕焼けに染まった。蛍光色のような鮮やかさは、凍り付くような冬だからこそ見られる色だと思う。
ふっと吐き上げる息がオレンジピンクと群青色の空に溶け、黒い影になった鳥たちが慌ただしく頭上を越えてゆく。ダッフルコートの前を掻き合わせて、冷気が首元に入らないようにした。
昼間は小春日和だったが、夕暮れ時から急激に寒くなる。
冬は、全ての色が主張する。
薄く暗くなってゆく道、ぽつぽつ明かりが着く通りの店達。
グラウンドは小島のように雪が残り、いったん溶けかけたそれらは夜になるとまた、固く凍り付く。てらてらと明かりを受けて光る土は、夏は野球少年たちに踏まれていた。今、真冬のグラウンドで遊ぶ子供は誰もいない。
緑のフェンス越しに歩いていたら、ちょうど校門から子供たちが出てくるのと出くわした。先生さよならー。気を付けて帰りなさい。わあきゃあ。寒いね、寒い。楽し気な少女たちの一団から離れたところで、赤いランドセルの沙織がいた。
下校班の子たちとは相性が悪い。最初は耐えながら集団下校していた沙織だけど、この頃は「嫌なものに無理やり付き合う義理はない」ということを悟ったようで、少しずつ少しずつ、キライな子たちの集団と距離を取りながらのろのろ歩いている。
良い、根性だ。
わたしの姿を見たら、つまらなさそうに口をとがらせていた沙織が、ぱっと明るい笑顔になった。
生意気そうに笑っている少女たちを抜かして走ってきて、たるちゃんケーキ買いに行こうケーキ、と、飛びついて来た。
ケーキ。これからわたし、ケーキ買いに行くんだもんね!
沙織は多分、これを後ろから歩いてくる嫌いな子たちに聞かせたかったのだろう。いいでしょう、ケーキだよ、わたし今日これからケーキ食べるんだから!
なんとなく沙織の背後を見たら、ディ〇ニーランドやら、アニメのキャラクターやらの話で得意そうに盛り上がっていた下校班の子たちが唖然としていた。沙織はにやにやしているし、わたしも可笑しくなった。
「シャンティに行こう、あのお洒落な店」
と、わたしが、前から沙織が行きたいと言っていた新しいケーキ屋さんの名前を出すと、犬みたいにぴょんぴょん飛び跳ねられた。
手を繋いで道を渡って、そのケーキ屋に寄るために大回りして梟荘への帰路についた。夕暮れはますます進み、蛍光色の赤を残しつつ、空はもっと濃くて暗い赤に馴染んだ。群青色の夜が混じり始めており、向こう側には一番星が見えている。
車道はうちに帰る車たちが忙しく走っており、通りの家々からは香ばしい夕食のにおいが漂い始めていた。
ケーキ屋さんに着くと、沙織は目を輝かせてケーキをウィンドウ越しに眺め、あれもこれもと選び始めた。わたしの誕生日だよ、と言ってやったら、うんわかってる、だから一番たるちゃんに似合いそうなの選ぶの、と返って来た。
「これはたるちゃんの、これは優菜ねえちゃんの、これは沙織の」
一つずつセレクトしている。
沙織に選ばせて代金を払い、ケーキの箱を大事に持って帰った。
楽しそうなイラストが描かれた綺麗なケーキの箱。幸せの箱。
箱からは甘い匂いが漂った。
梟荘に到着して、玄関に入った時、沙織がなにか気になる風にわたしを見上げた。
「たるちゃん、なんか怖いことあった」
そう聞かれて、わたしはどきりとした。沙織は敏感に感じ取っている。昼間ここで起きた、あの恐ろしい出来事を。
「ないよ、なにもない」
わたしは答えた。うまく演じることができたと思う。
沙織はすぐに納得すると、玄関から中に入り込み、自室にランドセルとアノラックを置きに駆けていった。
**
じゅうじゅう焼ける肉と野菜。
大人はビールを飲んで、沙織は炭酸ジュースを飲んだ。
いつもと同じようにラジオが流れていた。
台所は温かで和やかで、世界のどこよりも安全に守られていた。
優菜が帰ってきてから宴が開かれ、わたしたちは最高にはしゃいだと思う。
沙織はとびきりの笑顔でクラッカーを騒々しく鳴らし、カラフルな紙屑が散らばったテーブルに、優菜が楽しそうな悲鳴を上げた。
「おいしい」
「おいしいねー」
安い肉を山ほど買っておいて良かった。女子三人が全力で食べ始めたら、こんなに食べきれないと思っていた肉がどんどんどんどん減っていった。
じゅーじゅわー。焦げた玉ねぎのほろ苦い旨み。たるちゃん野菜ばっかり食べてる、はいお肉。沙織がこまっちゃくれた口調で、自分の箸で焼けた肉を取ってわたしの皿に乗せた。
「うっま」
優菜はがばがばと食べた。化粧が落ちかけた頬が、脂でてらてら輝いている。
二人が何も気にしないで、にこにこしながら物を食べているのを見ていると、わたしは自然に幸せになる。
優菜も沙織も、気になることだらけ、嫌なことだらけの日々を送っているはずだけど、ちゃんと笑えている。きっと人はみんな、全部忘れてとびきりの楽しさの中に浸ることを、許されているのだと思う。
良かった。みんなもりもり食べている、はちきれそうに笑っている。ちゃんと幸せなんだ。
オレンジ色の温かな輝きの中に閉じ込められた、こんなふうに優しくて強い風景を、わたしは生涯、忘れない。
優菜も沙織も大事な家族なんだ、二人は必ず幸せになって欲しい、絶対に泣いてばかりだったり、強くて卑劣な人に踏みにじられて不幸になったりしてほしくはない。ちゃんと認められて、愛される人でいて欲しい。
(カミサマ、こいつらを護って、幸せにして、せめて人並みに)
「おいしいなー」
沙織が取ってくれた肉を口に入れて、わたしはしみじみと呟いた。
**
バレンタインはとうの昔に終わっており、コンビニの中はホワイトデーになっている。
夜勤の度に適当なホワイトデー用ポスターを作り、店の中のあちこちに貼りつけていたら、井上さんから「もうちょっと何とかしてよ」と、苦笑いされた。
わたしのセンスで作るポップは、ちっともロマンチックではないイラストばかり使っている。謹賀新年のシュールなポップは井上さん的にはオッケーだったようだけど、バレンタインやホワイトデーにはシュールさは求めていないと言われた。
「面白いんだけどねー」
売り場に貼られたイラストの一つを指さして、井上さんは微妙な顔をしている。
目を血走らせた牛が闘牛士の持っているハート型のお菓子に突っ込んで行くイラストに「ホワイトデー」と、飾り文字が乗せられている。
「この闘牛士、次の瞬間にはヤラレてるなー」
わかりました、ちょっと可愛いものに変えますね。
わたしは淡々と答えて、パソコンの前に座る。適当な素材を探して作り直すのくらい、どうってことはなかった。
単に、井上さんはシュールナンセンスが好きなのかなと思ったので、そういう飾りつけを試みただけである。特にこだわりはなかった。
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すぐ横に井上さんの尖った鼻先があり、眼鏡の奥の細い目がちらっとわたしを射た。優しい目だけど、一瞬、なにか考えているような鋭さが走ることがある。
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山崎さんのセンスは凄く良いと思う。コピーライトの才能もあると思う。店の仕事の片手間に、そっちの仕事もしてもらえたら助かる。ちょっと考えてみて。
気軽そうにそう言うと、井上さんは分厚いコートを上に着て、店の外に出ていった。
凍てつく夜、僅かな仮眠の為に自宅に戻る彼。
店は少しの間、わたし一人の空間となる。昔懐かしいポップスが楽し気に流れ、商品棚は明るい照明の下で人待ち顔だった。
もうあと四時間ほどで商品を届けてくれるトラックが来る。その頃には井上さんも戻ってくる。それまでわたしは言われた仕事をこなし、店の中を綺麗に掃除するのだ。
棚をひとつひとつ丁寧に見て行き、昼間、お客さんが手に取って違う所に入れた品物を戻す。
その間に、おでんはぐつぐつと気持ちよく煮え始めるし、ホットフードのガラスケースの中はほどよく温まる。
お客のいない時間は、垂れ幕の内側で次の舞台に取り掛かる地道なあわただしさ。あれもこれもと欲張って動きたくなるのをぐっと堪え、まずはこれ、そしてこれと、順序良く片づけてゆく。
やがて朝が来る頃、お店は通勤途中のサラリーマンや朝ごはんを抜いた学生さんが駆け込んできて良いように、お品もそろい、床もトイレもピカピカになっているのだ。
電子レンジの中を掃除したり、イートインコーナーのテーブルを拭いたりしながら、わたしは井上さんの言葉を噛みしめる。
この店だけではなくて、別の仕事も手伝ってほしいと井上さんは言ってくれた。こんな寂れたお店一軒で、安定した生活ができるわけがないとは薄々思っていたけれど、やっぱり井上さん、二足の草鞋を履いていたようだ。
わたしはこの店が好きだけど、それ以上に、井上さんが創り上げた、この居心地の良い場所が好きだった。ということは、別の言葉で言えば、井上さんの下で働くのが好きと言う事だ。
(雇ってくれて、評価してくれた御恩は深い)
夜勤のアルバイトに来ると、昼勤の子たちと僅かな時間、シフトが重なる。ほんの少しの時間だけど、他のバイトさんたちと触れ合うことがある。
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夜だけではなく昼も井上さんのお仕事を手伝うとなると、わたしの生活はずいぶん変わってくる。いくら居心地が良くても、仕事にほぼ一日囚われるのは、恐ろしい気がした。
なによりわたしは、まだもう少し、自由な時間が欲しかった。
忙しく充実した飛躍の日々は眩しいし、素晴らしいものだろう。わたしはずっとそういうものに憧れて来た。
あの、もう辞めてしまった編集プロの仕事だって、活躍したい、頑張りたいと思っていたのにそれが叶わずに終わってしまったのだ。本来、わたしは仕事が好きなはずだった。没頭して熱心に活動して、認められてみたかった。
その夢が、井上さんという人と繋がったことで、すぐそこまで来ている。
(きっとわたしは、すごく充実した、忙しくて楽しい日々を送ることになる)
ブログを更新したり、宣伝のキャッチコピーを考えたりする仕事は、自分に向いていると思う。きっと上手にできると判っていた。
それでもわたしは、井上さんの申し出に即答しかねている。まだだ。もう少しだけ。
もうじき過ぎ去ろうとしている、この暗い闇のトンネルを、名残惜しんでいたかった。
沙織や優菜とだらだら過ごした、なにも良いことなんかないけれど、暇で先行きが見えなくて、不安に満ちているくせに、どこか温かな時間を、最後まで堪能したいと思う。
**
どんなに暗くて辛い時期でも、必ず光る何かがある。
もうすぐ、低迷していたわけのわからない時期を抜け出そうとしているわたしには、それがよく判る。
どろどろで、いっぱい苦しんでいても、絶対に温もりや愛らしい幸せはちりばめられていて、その一つ一つのありがたみが、その時は分からない。
過ぎ去ってしまい、もうそれに触れることが叶わなくなった頃、ああ、あんなことがあった、と懐かしく愛おしく思い出すのだ。
二月が終わろうとしている。まだ季節は冬だけど、暦は春だ。
相変わらず寒い日が続いているし、まだ雪がちらつくことがある。寒くて冷たくて滑りやすくて、外に出るのは億劫だ。
けれど、日差しが柔らかく丸みを帯びてきていることに気づいている。
すうっと流れる凍てつく風の中に、ぬるいお湯が混じるように春のにおいが感じられる。
すぐそこに、芽吹きが来ていた。
あの、早川芽衣侵入事件以来、わたしは神経質な程に戸締りを確認するようになった。
玄関掃除をした後、鍵をしめ、しかも何度もちゃんと鍵がかかっているか確認してから中に入った。
温かな台所のテーブルに座り、ふっと思い出して戸棚の引き出しを開いた。そこには、あの素晴らしい誕生日パーティの夜の思い出が潜んでいる。
優菜からのプレゼントは、ガラスの林檎のペーパーウェイトだ。掌に転がるほどの大きさで、未だに箱から取り出さずにしまわれている。優菜は、使ってよ、と、念押しするように言っていたが、もったいなくて使えないのだ。
その林檎は暗いところでは、夜光虫のように光る。わたしはこっそり、朝早い暗がりの中でそれを出して、楽しんだ。
沙織からのプレゼントは。
大事にそれを摘まみ上げて目の前で揺らしていたら、自然と笑顔がこぼれた。
一生懸命に作ったんだろう。あの小さい丸い指で、ビーズの一粒一粒を選んで、糸に通す。さぞ疲れたろう、時間がかかったろう。
ジリリリ。電話が鳴った。
わたしは沙織からの贈り物を手に握りしめたまま、梟荘の廊下に走り出た。黒電話が鳴り続けている。冷たい廊下をぺたぺたと走って、大急ぎで受話器を取った。
「はい、山崎……」
指先でビーズの珠を弄びながら。
わたしは受話器を取り、笑顔で挨拶を交わし、そして、思わず黙りこくって目を見開いた。
電話は、……県で出稼ぎをしている沙織の母親からである。穏やかで優し気な話し方は受話器越しに聞いていても心地が良かった。
「……商会が、大きな会社に合併されたので、色々なことが変わりました」
沙織ママは、自分が勤めている職場が変化したことを告げた。それは、沙織ママにとっても、沙織にとっても、とても良い変化であるはずだった。
**
ばさ。
廊下の窓ごしに、雪が落ちる音が聞こえた。少し残っていた屋根雪が溶けたのか。
わたしは目を見開いた。梟荘の廊下の、白い壁紙を見つめていた。
沙織と一緒に、暮らすことができるようになりました。
沙織ママは、そう言った。
仕事場が変わり、さらに遠い場所に引っ越すという。その地では定住できるので、もう転勤することはなくなるだろう。会社から住宅も支給される。
それは、とても遠い場所だった。
わたしはその遙か北の地方の、聞いたこともない名前の土地で、温かな冬を過ごす沙織ママと沙織の姿を想像しようとした。
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※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
ネグレクトされていた四歳の末娘は、前世の経理知識で実家の横領を見抜き追放されました。これからはもふもふ聖獣と美食巡りの旅に出ます。
旅する書斎(☆ほしい)
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アークライト子爵家の四歳の末娘リリアは、家族から存在しないものとして扱われていた。食事は厨房の残飯、衣服は兄姉のお下がりを更に継ぎ接ぎしたもの。冷たい床で眠る日々の中、彼女は高熱を出したことをきっかけに前世の記憶を取り戻す。
前世の彼女は、ブラック企業で過労死した経理担当のOLだった。
ある日、父の書斎に忍び込んだリリアは、ずさんな管理の家計簿を発見する。前世の知識でそれを読み解くと、父による悪質な横領と、家の財産がすでに破綻寸前であることが判明した。
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家族会議の場で、リリアはたった四歳とは思えぬ明瞭な口調で破産の事実を突きつける。激昂した父に「疫病神め!」と罵られ家を追い出されたリリアだったが、それは彼女の望むところだった。
手切れ金代わりの銅貨数枚を握りしめ、自由を手に入れたリリア。これからは誰にも縛られず、前世で夢見た美味しいものをたくさん食べる生活を目指す。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
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