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怖くて、弱い
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底に立って、ふっと上を見上げると穏やかに澄んだ空が見えている。
なんだ、光は差していたんだと気づく。
あるいは、長く続くトンネル。手探りで歩き続け、ふっと前を向くと、あと数メートルのところに出口が見えている。目いっぱいの朝の輝きが差し込んでいて、わたしの影が後ろに長く引きずられていた。
そんな夢を見る。
明るい光、温かな世界がそこにあることに気づき、わくわくと期待に満ちて、身体も軽くなる。
だけど同時に、泣きたくなる程の切なさに囚われる。
後ろを振り向くと、冷たく暗く希望のない過去が残っている。ついにそこから脱出できる瞬間が近づいているというのに、わたしはなんと、通り過ぎた途方もなく辛い時代が名残惜しくなっているのだった。
それは春の訪れに似ている。
雪が降って寒くて不便な冬は嫌いだ、と思いながら日々を過ごすけれど、本当に冬は酷いことしかない時期だったのだろうか。春の息吹が聞こえた時に、不意に冬が懐かしくなる。冬には冬の温もりがある。それは冬ではないと、手に入らなかったもの。
季節はまだ冬で、窓の外は冷たい空気に満ちている。午前五時。まだ光はささず、外に出たら星が見えるはずだ。
パジャマのままで起きたら余りにも寒いので、布団の中で服を着てしまう。体温で温まる前の冷たさに気が引き締まる。一日が始まる。こうしてはいられない。
わたしは誕生日を迎えようとしていた。
**
今夜は鉄板焼きをしよう、とわたしが言い出すと、最近やっと笑顔が本物になってきた優菜が、えっと聞き返した。
派遣社員として好きな英語を使う仕事に就けて楽しそうだけど、なにしろ正職員ではないので、春が近づくとハラハラするらしい。二月も後半、優菜は時折、厳しい顔をしてスマホでなにかを検索している。ちらっと覗いたら、「英語を使うお仕事」というのを探していた。
「本格的な通訳ができるわけじゃないけれど、まあ日常会話くらいなら普通にできるから、わたし程度の英語力でも役に立てる仕事」を、優菜は探している。
今の派遣先は、優菜的にはまあまあ、やれる仕事だったようだ。けれど、その職場で絶対的な地位を気づくほどの力はないとかで、優菜は毎年常に、契約切れに怯えている。
「やっぱりさー、そういう勉強を専門的にしてきた人は強いよー」
優菜は全く別のジャンルの専門学校を卒業している。英語は得意科目だったらしいが、決して語学を中心に勉強してきたわけではない。社会人になってから、やっぱり英語をやりたいと頑張り始めた。
優菜は、英会話スクールで有名コンテストに出てハクが付けば、履歴書にも書けるし目をつけてくれる企業も増えるに違いない、と思っていたらしいが、最近その目論見は大いなる痛手を伴ってぶち壊れた。
「自分の身の丈に合う仕事を楽しくやれればいいなー」
と、最近、優菜はそんなお気軽なことを呟いている。仕事は遊びじゃないんだよー、そんなんなら趣味で英語やればいいじゃん、と言い返してやったら、そういうのは違う、と、やけにきっぱりと突き返されてしまった。
優菜の希望は贅沢なものかもしれない。
英語を使うお仕事は、年々増えてきていると思う。けれど、ここは大都会でもなんでもない。片田舎の町の中で、英語を使うお仕事を探すのは、かなり大変なのだ。
きっと今も、朝ごはんを食べながらお仕事検索をしていたのだろう。スマホを片手に、優菜はわたしを見上げた。
ことんと目玉焼きを置いてやりながら、だって誕生日だもんと言ってやった。ほええええ、と、優菜が素っ頓狂な声を上げた。
ごめんごめんたるちゃん、忘れてた、そっかそっか、そっかー。
一方、もうご飯を食べてしまって、ランドセルも用意してしまった沙織は、歯磨きをしに洗面まで行っていた。とことこと廊下を走って台所まで戻ってくると、玉暖簾をじゃらじゃら通過しながら、ぴかぴかの笑顔で、たるちゃんハイコレと折り紙の紙包みでパッケージされた、可愛いプレゼントを掲げていた。
「おたんじょうびおめでとう」
と、沙織は言った。
「わー、なんだろ」
わたしはプレゼントを受け取った。赤い毛糸でリボンを結ばれた可愛いラッピングだ。沙織の心づくしなのだろう。
早速リボンをほどこうとしたら、待ったがかかった。優菜だった。
「いやそれ、夕ご飯の時まで取っておいて。わたしも準備するから。そのほうが絶対楽しいから」
わたしと沙織は顔を見合わせた。
今すぐにでもプレゼントを見て欲しかったらしい沙織は、ちょっとふくれた。この頃、沙織は表情のバリエーションが増えた。多少のわがままも言うようになった。これまで礼儀正しくて、子役が演じる優等生みたいだった沙織の事を思い出せば、ああ、これが小学一年生の姿なんだわ正常なんだわと安心できる。
これまで沙織は、台所の床に寝そべって遊んだりしなかったけれど、今では邪魔くさい場所に堂々と寝転んで、魔法少女の塗り絵をしていたりする。邪魔だよ、と言ったら、べー、ここ沙織が先に取ったんだもんね沙織の場所―、と言い返されることもある。
もちろん、基本はすごく良い子なのだけど。
すぐに沙織は機嫌を直した。
優菜ねーちゃんのプレゼント楽しみ、とはしゃいだ。
「なに買うのー、しゃねるのコウスイ、ぐっちのかばん、ふぇらがものくつ」と言いだすので、優菜は爆笑した。ハードル上げないでよ。そう言いながら目玉焼きを平らげた。
自分の誕生日のために奮発して鉄板焼きするなんて贅沢だなと思ったけれど、これもイベントだと割り切ることにした。
夜勤バイトの回数を増やしたので、お金には少し余裕ができていた。
「たるちゃんケーキ食べたいケーキ」
「わかったわかった」
沙織は元気よく学校に行った。
最近、沙織は胸を張っている。意地悪を言う子がいなくなったわけではないと思うけれど、沙織なりに学校を楽しんでいるようだ。二月になって一度、お友達の女の子がお人形と子供用雑誌を持って梟荘まで遊びに来てくれたことがある。夕方、ママが迎えに来てくれて、名残惜しそうに手を振って帰っていった。
小学一年生の女の子、二人きりで何をお喋りしたんだろう。
「ここの子になってきたなー」
優菜はほっぺたにトーストのジャムをくっつけながら言った。
「そうだねー」
わたしは相槌を打った。
台所はほかほかと温かで、流しの前の窓からは、ぽたぽた軒から水が滴っていた。まだ真冬だし、外は尋常ではないほど冷えているけれど、優しい日差しだ。きっと今日は一日お天気で、雪や氷も溶けるだろう。
「また次の日に、裏切ったみたいに寒くなったり雪が降ったりすることを思ったら、嫌になっちゃうよね」
ぼそっとわたしが言った。思わず口から零れてしまった。
そうだ。いくら良い瞬間が巡って来たからと言って、手放しで喜べない。すぐ前に落とし穴がまた待ち受けている。これまでさんざん辛い思いをしてきた。わたしは落とし穴の恐ろしさを知っている。
生きるというのは恐ろしい事、気が抜けない事、いくら嬉しかったとしても、そんなものに浮かれてはしゃいでいたら、次にくる落とし穴で絶望のありったけを味わわなくてはならなくなる。
朝のラジオを背景に、さくさくと優菜はトーストを齧った。
もごもごと頬張りながら、まあそうだけれども、と、言った。
「嫌なこともいいことも、巡ってくるんだからさー、目の前に来たもんを、ありがたく受け止めるしかないんじゃないの」
嫌なこと、いいことは人それぞれ違っていて、やけに嫌なことの盛りが多いな、と思っても、それが自分の身の丈に合うサイズの盛りなんだよー、きっと。
「もりもり食べて大きくならんと」
と、優菜がお茶を飲みながら言った。
「大きくなってなんかいいことあるのかしら」
現実ではもう、三十路を越えてこれ以上大きくなる必要もないわたしが、まぜっかえすように言った。
辛いことに耐えて成長してゆくのが人間。でも成長してもまた次の、もっとハードルが高くなった辛いことが現れるなら、最初のハードルで立ち止まってハナクソほじってたほうが、総じて楽なんじゃないの。
「そういうのもアリなんだろうけれど、わたしは嫌よ」
優菜はけらけら笑った。光る笑顔だった。
きっと優菜はまだ立ち直り切れていない。優菜は英語が好きだと言っているけれど、これ以上、スキル向上のためにどこかのスクールに通ったり、交流会に出席するようなことはない。掲示板にまで晒されていた優菜は、自分を知っている誰かに会うのを恐れている。
いってきまーす、今夜は楽しいぞー、楽しみー。
コートを着込んで元気よく出勤して行く優菜を見送って、わたしは白い息を上げた。
甘く晴れた冬の空に、真っ白い雲が浮かんでいる。足元は濡れてぬかるんでおり、冷たくて黒い土の下には草の種たちが春を目指して眠り続けているのだ。
**
買い物を済ませてから、お座敷の掃除をした。
晴れた日の座敷は気持ちが良い。障子を開けはなし、ついでに縁も開いて庭からの空気を通した。冷たいけれど気持ちが良い。
座布団を縁に並べて干した。
畳の上に小さい電気カーペットを出してスイッチを入れると、ほかほかと温まる。ついでに毛布でくるまってしまったら、もうだめだった。
気が付いたらわたしは、昼寝をしてしまっていた。
小春日和の日差しを瞼に感じながら、時折小鳥の声も聞こえて、幸せな眠りである。浅い夢の中でふわふわと漂う感じを楽しんだ。
(あー、いいなー、こんな気持ちよいの久々だなあ)
猫みたいな気分で呑気に寝そべっていたのである。
不用心なことに、戸締りも忘れて。
物音に気付いて目を開いた。あれっと思った。
そんなに寝てしまっただろうか、沙織が帰ってくるような時間ではないはずだ。気のせいかなと思ってもう一度寝ようとしたけれど、頭のどこかで警鐘が鳴っていた。
なんら根拠のない怯えが心臓に走り、なにかただ事ではないことが起きようとしている、と、わたしに告げていた。
物音は続いている。足音だ。あちこちのドアを開いて、ゆっくりとこっちに近づいている。
(けやきさんかもしれない)
良い風に考えようとした。大急ぎで毛布を畳み、髪の毛の乱れをてぐしで適当に整えた。
「だれー」
と、開け放した襖の向こう側にむけて、わたしは叫んだ。
「そこにいるのね」
けれど、返ってきた声は沙織でもけやきさんでも優菜でもなかった。わたしは腰を抜かしかけた。
ぎょっとするほど近いところからその声は聞こえ、やがてひょっと襖から姿を現したのは、早川芽衣さんだった。
純白のふわふわコートに身を包み、ゴージャスな巻き髪と愛らしい甘いメイクで身を包んだ芽衣さんは、校正アルバイトの時よりも派手になっていた。
不法侵入、警察を呼びますよと口から出かかったけれど、それより早く、芽衣さんは甘い笑顔で言った。
「チャイム鳴らしたんだけど出てもらえなくて。でも玄関空いてるし、人がいるみたいだから、入っちゃった」
芽衣さんは美しい顔をしている。にこにこと笑うベビーフェイス。年よりも幼く見えるメイクと服装。
この人が三十路前後だなんて、よく見なくては分からないだろう。まるで、アイドルみたいな姿だった。
まるでそうすることが自然で当然であることのように、芽衣さんは、玄関が開いていたから入った、と、言った。両手で、クラッチバッグを弄んでいる。
「なんの用」
と、わたしは言った。情けないことに声がかすれていた。
芽衣さんの目が不穏になった。笑顔を作っていた顔が、にょにょにょと変わって、目を剥きだし、鼻を怒らせた形相になった。悪鬼だった。
わたしは悲鳴を上げて柱にしがみ付き、いつでも庭に飛び降りることができるよう、自分の背後に気を配った。
そうだ、その顔だった。校正のアルバイトの時、すれ違いざま、なんどか見たことがある恐ろしい表情。この人はわたしを憎んでいる、恨んでいる、理由はわからないけれど――否、今ではなんとなくその理由が分かっている――腹の底からの怨恨を顔に浮き上がらせるようにして、芽衣さんはわたしを睨みつけていた。
「沙織はどこなのよ」
いつもの甘い声ではなかった。乾いた、低い声だ。
はあ、と、わたしは絞り出すようにして言った。芽衣さんはクラッチバッグを構えながらにじり寄った。
「沙織返しなさいよ。母親でもないアンタがなんで沙織独占してんのよ」
ひぃ、と、笛みたいな声が喉から出た。庭に飛び降りて逃げようとしたけれど、芽衣さんは恐ろしいほど早く動いてわたしの手を掴んでいた。至近距離に、鬼のようにぎょろつかせた目玉があった。
「知らないでしょうから教えてあげるけれどね、沙織のほんとの母親はわたしなの。だから、沙織はわたしのモンなのよ」
ほんとの母親。沙織は自分のもの。
その言葉を聞いて、わたしは我に返った。腰抜けの根性に鞭が打たれた。かっと炎が燃え上がって、わたしは早川芽衣を睨み返した。
「赤ちゃんの時に沙織を捨てておいて、何が母親だよ」
警察呼ぶよ、いいかげんに出ていって。
パチン、と、早川芽衣の手を払いのけて、わたしは怒鳴った。
「あの変な赤い文字のハガキもアンタでしょ。きもっちわるー、頭悪いのモロバレの誤字脱字だし。いい加減にしときなよ、イイトコのお嬢さんなら、変なことしてるの、世間様にバレたらまずいでしょ」
吐き捨ててやった。
早川芽衣は、呆然として振り払われた手をかばっていた。
悪鬼のような表情はふいに消え、代わりに、撥ねつけられた痛みと自分の思い通りにならないことへの苛立ちの涙が目に膨れ上がった。
まるで、三歳の子供だと、その様子を見てわたしは思った。
「きー」と、金切り声をあげ、地団駄を踏みながら、早川芽衣はわたしに向き直った。ぐちゃぐちゃの表情は最早、なんと形容したらよいか分からない。
「みんなあんたのこと嫌ってる」
「社会的に抹殺されて当然」
「あんた惨めに死ねばいいのに」
きー、きー、と、ノイズのような金切り声の合間に、そんなことを早川芽衣は口走り、わたしに襲い掛かって来た。
めちゃくちゃにクラッチバッグが空を切り、ばしんばしんと顔面や肩や腕を叩かれた。
怒りで立ち直った根性は、立て続けの容赦ない暴力に簡単にくじけた。ひぃ、とわたしは叫び、攻撃から自分を守るために両腕をクロスさせてしゃがみ込んだ。
セーターの襟を掴まれて頬をはたかれた時、口の両端を吊り上げて目を剥きだした芽衣さんの顔を正視した。おかしい。狂っている。正常ではない。
ついにわたしは「ぎゃー」と悲鳴を上げた。道にまで響けと言わんばかりに。
がらっ、と玄関が開いて、どかどかと人があがりこむ気配がした。
「虫けら」とか「許せない」とか叫びながらクラッチバッグを武器にして振り回す芽衣さんが、いきなりわたしから引き離された。
はあはあと息を切らしながら柱にしがみつき、立ち上がると、一体何が起きているのか恐る恐る確認する。きいきい金切り声を上げて泣く早川芽衣は、スーツの男性に羽交い絞めにされていた。
スーツ男性は二人いる。もう一人の男が、鋭い目線でわたしを捉え、だけど口調だけは物柔らかに、大変失礼しました、お怪我はありませんかと聞いて来た。
「お嬢様が、大変申し訳ないことをいたしました。お怪我等ありましたら、治療費はこちらが負担しますので、ご連絡ください」
すっと名刺が差し出される。わたしは受け取らなかった。男は、わたしの足元のたたみに名刺を置いた。ジーパンをはいた足ががくがくした。
物腰柔らかで丁寧な男性が、きっと強い眼光を放った。ものすごい圧だった。
「お嬢様はご病気なのです。このことはどうか、どうかご内密に。お詫びはさせていただきますので、どうかご容赦ください」
きいきい喚いていた芽衣さんは、今はもう号泣している。
まるで悲劇の女王みたいな嘆き方で、聞いているとどんな不幸があったのかと思うような泣き方をしていた。
「うううー、うううー」
嘆きのプリンセスは、二人の屈強の男性に抱え、護られながら梟荘を出ていった。
ふわふわの白いコートから飛び散った毛やら、香水の残り香やらが座敷に残っている。
足元の名刺を取り上げると、目を疑いたくなるような超有名大会社の企業名が見えた。なるほど、この大会社のご令嬢なら財力もおありだろう。そして、ヘンテコな噂が立っても困るに違いない。
沙織の母親からだいたいの事情は聴いていたけれど、芽衣さんが具体的にどこの会社のご令嬢なのかまでは聞かされていなかった。話の中で企業名はちらっと出たかもしれないが、「……会社の御関係のお家で」位の言い回しだったので、わたしは、どうせ分社か下請けだろうくらいに思っていたのだ。
なにかをはばかるような、最後まで全部打ち明けることがためらわれる様な雰囲気で、沙織ママは語っていた。確かにこの大企業のご令嬢が相手なら、慎重になるかもしれない。
まさか、大企業の本社のご令嬢とは。
間違いなく早川芽衣は社会的強者であり、触らぬ神にたたりなしと言いたくなるような相手なのだった。
ふらふらと座敷を出て、開け放された玄関に向かった。
玄関には優菜のサンダルとわたしのスニーカーが並んでいたはずだけど、くちゃくちゃに飛び散って乱れていた。それを揃えようとして、手が震えた。
よろよろ表に出てみたら、ちょうど芽衣さんが黒いクラウンに押し込められて、バタンと扉が閉じられたところだった。ブブウと車は発進したが、一瞬、車窓にはりつくようにしてこちらを恐ろしい形相で睨む芽衣さんと目があってしまった。
「ぐう」と、吐き気が込み上げて、わたしは口を抑えて玄関の戸にしがみ付いた。
蓮向かいのうちの御隠居さんと、三軒隣のうちの奥さんが覗きに来ていた。
梟荘の門からこちらを覗き見して、青ざめたわたしが玄関の扉にひっついているのに気づいて、愛想笑いした。
「なんでもないんですー」と、わたしは言い、ご近所さんたちは腹の中で、なんでもないわけあるか、とツッコミを入れたのに違いなかった。
「大丈夫かね」
と、御隠居さんが心配そうに言ってくれた。
「出てますよ」
鼻を指さしながら、奥さんが言った。
はっとして手の甲で鼻をこすったら、べっとりと赤い血が付いた。クラッチバッグで殴られた時に鼻血が出たのだろう。ひりひりするので頬も触ってみたら、びっくりするほど熱感を持っている。腫れている。
「呼びましょうか、警察」
と、奥さんが眉をひそめて言ってくれた。
わたしはどうしてその時、お願いしますと言えなかったのだろう。
警察呼んで下さい。怖かった。酷い目にあった。お願いします。
その場でしゃがみこんで、怯えのあまり泣き出してしまえていたら。
だけどわたしは、そうしなかった。
へへへと笑って見せて、大丈夫です、ほんとに何でもないんです、と言った。
ご隠居と奥さんは顔を見合わせたが、わたしが大丈夫と言っている限り、それ以上介入はできなかった。
物見高いけれど親切なお二人に頭を下げてから、わたしは玄関を閉めた。まだ胸がどきどきと高鳴っている。手の中にはまがまがしい名刺が握られていた。
**
台所でお茶を飲みながら、わたしは少しずつ落ち着いた。
早川芽衣は愚かである。好き勝手に自分の欲求のままに動く。それが叶わなければ、恐ろしいヒスを起こす。
恐らく今まで何度もそういう場面があったのだろう。さっきの男性たちは芽衣さんの扱いに慣れていた。
有名な大企業のご令嬢が、精神病院に入院するのは世間体が悪すぎる。だから、普通に社会生活を送らせている。その代わりに、いつなんどき、奇行に走っても対応できるよう、見張りの男性を着けている、と、いったところか。
わたしはさっきの芽衣さんを思い出した。
悪鬼のような表情は恐ろしかったが、子供のように泣き崩れる様子は、こんなにひどい目にあわされたわたしから見ても、なにか気の毒に思える。
迷子の可哀そうな子供のようだ、芽衣さんは。
多分本当にそうなのだろう。病んでいるというより、幼いまま心の成長が止まっている。世間から隔絶され、狭い世界で我儘放題に生きて来た、壊れ物なのだ。
うまいこと人に可愛がられて、要領も良くて、一見世渡り上手だけど、その実、足元はゆらゆらしていて、危うくてしかたがない。仮面の下の顔は病んでいる。
病気なのだ、あの人は。
そう思ったから、わたしはすぐに警察に届け出なかったのだと思う。
多分もう、芽衣さんがここに来て、これ以上のことはしてゆくまい。変な赤いハガキも来ないだろう。そうっとしておくほうが良い。そんなふうに考えてしまったのだった。
地位に護られて庇われている、責任能力のない可哀そうなひと。
どうして今になって沙織が欲しいと思い始めたのか分からないけれど、きっと彼女は寂しいんだ。
それになにより、これ以上芽衣さんの感情を逆なでしたら、沙織や沙織の母親にまで被害が及びそうな気がした。
**
「気を着けなさい。情けは無用よ」
あの日、遠い電話で母が言った言葉を、忘れたわけではなかったのに。
いつものようにラジオを流し、ストーブで足元を温める。台所はやはり、この世で一番安全で楽しい場所だった。
午後のお湯を沸かさねばならない。そして、物置から鉄板焼き用のプレートを引っ張り出してこなくては。
そうだ、ケーキを買ってこなくては。
沙織を迎えにいきがてら、近所の洋菓子店に行こうと、わたしはジャンパーを羽織った。
なんだ、光は差していたんだと気づく。
あるいは、長く続くトンネル。手探りで歩き続け、ふっと前を向くと、あと数メートルのところに出口が見えている。目いっぱいの朝の輝きが差し込んでいて、わたしの影が後ろに長く引きずられていた。
そんな夢を見る。
明るい光、温かな世界がそこにあることに気づき、わくわくと期待に満ちて、身体も軽くなる。
だけど同時に、泣きたくなる程の切なさに囚われる。
後ろを振り向くと、冷たく暗く希望のない過去が残っている。ついにそこから脱出できる瞬間が近づいているというのに、わたしはなんと、通り過ぎた途方もなく辛い時代が名残惜しくなっているのだった。
それは春の訪れに似ている。
雪が降って寒くて不便な冬は嫌いだ、と思いながら日々を過ごすけれど、本当に冬は酷いことしかない時期だったのだろうか。春の息吹が聞こえた時に、不意に冬が懐かしくなる。冬には冬の温もりがある。それは冬ではないと、手に入らなかったもの。
季節はまだ冬で、窓の外は冷たい空気に満ちている。午前五時。まだ光はささず、外に出たら星が見えるはずだ。
パジャマのままで起きたら余りにも寒いので、布団の中で服を着てしまう。体温で温まる前の冷たさに気が引き締まる。一日が始まる。こうしてはいられない。
わたしは誕生日を迎えようとしていた。
**
今夜は鉄板焼きをしよう、とわたしが言い出すと、最近やっと笑顔が本物になってきた優菜が、えっと聞き返した。
派遣社員として好きな英語を使う仕事に就けて楽しそうだけど、なにしろ正職員ではないので、春が近づくとハラハラするらしい。二月も後半、優菜は時折、厳しい顔をしてスマホでなにかを検索している。ちらっと覗いたら、「英語を使うお仕事」というのを探していた。
「本格的な通訳ができるわけじゃないけれど、まあ日常会話くらいなら普通にできるから、わたし程度の英語力でも役に立てる仕事」を、優菜は探している。
今の派遣先は、優菜的にはまあまあ、やれる仕事だったようだ。けれど、その職場で絶対的な地位を気づくほどの力はないとかで、優菜は毎年常に、契約切れに怯えている。
「やっぱりさー、そういう勉強を専門的にしてきた人は強いよー」
優菜は全く別のジャンルの専門学校を卒業している。英語は得意科目だったらしいが、決して語学を中心に勉強してきたわけではない。社会人になってから、やっぱり英語をやりたいと頑張り始めた。
優菜は、英会話スクールで有名コンテストに出てハクが付けば、履歴書にも書けるし目をつけてくれる企業も増えるに違いない、と思っていたらしいが、最近その目論見は大いなる痛手を伴ってぶち壊れた。
「自分の身の丈に合う仕事を楽しくやれればいいなー」
と、最近、優菜はそんなお気軽なことを呟いている。仕事は遊びじゃないんだよー、そんなんなら趣味で英語やればいいじゃん、と言い返してやったら、そういうのは違う、と、やけにきっぱりと突き返されてしまった。
優菜の希望は贅沢なものかもしれない。
英語を使うお仕事は、年々増えてきていると思う。けれど、ここは大都会でもなんでもない。片田舎の町の中で、英語を使うお仕事を探すのは、かなり大変なのだ。
きっと今も、朝ごはんを食べながらお仕事検索をしていたのだろう。スマホを片手に、優菜はわたしを見上げた。
ことんと目玉焼きを置いてやりながら、だって誕生日だもんと言ってやった。ほええええ、と、優菜が素っ頓狂な声を上げた。
ごめんごめんたるちゃん、忘れてた、そっかそっか、そっかー。
一方、もうご飯を食べてしまって、ランドセルも用意してしまった沙織は、歯磨きをしに洗面まで行っていた。とことこと廊下を走って台所まで戻ってくると、玉暖簾をじゃらじゃら通過しながら、ぴかぴかの笑顔で、たるちゃんハイコレと折り紙の紙包みでパッケージされた、可愛いプレゼントを掲げていた。
「おたんじょうびおめでとう」
と、沙織は言った。
「わー、なんだろ」
わたしはプレゼントを受け取った。赤い毛糸でリボンを結ばれた可愛いラッピングだ。沙織の心づくしなのだろう。
早速リボンをほどこうとしたら、待ったがかかった。優菜だった。
「いやそれ、夕ご飯の時まで取っておいて。わたしも準備するから。そのほうが絶対楽しいから」
わたしと沙織は顔を見合わせた。
今すぐにでもプレゼントを見て欲しかったらしい沙織は、ちょっとふくれた。この頃、沙織は表情のバリエーションが増えた。多少のわがままも言うようになった。これまで礼儀正しくて、子役が演じる優等生みたいだった沙織の事を思い出せば、ああ、これが小学一年生の姿なんだわ正常なんだわと安心できる。
これまで沙織は、台所の床に寝そべって遊んだりしなかったけれど、今では邪魔くさい場所に堂々と寝転んで、魔法少女の塗り絵をしていたりする。邪魔だよ、と言ったら、べー、ここ沙織が先に取ったんだもんね沙織の場所―、と言い返されることもある。
もちろん、基本はすごく良い子なのだけど。
すぐに沙織は機嫌を直した。
優菜ねーちゃんのプレゼント楽しみ、とはしゃいだ。
「なに買うのー、しゃねるのコウスイ、ぐっちのかばん、ふぇらがものくつ」と言いだすので、優菜は爆笑した。ハードル上げないでよ。そう言いながら目玉焼きを平らげた。
自分の誕生日のために奮発して鉄板焼きするなんて贅沢だなと思ったけれど、これもイベントだと割り切ることにした。
夜勤バイトの回数を増やしたので、お金には少し余裕ができていた。
「たるちゃんケーキ食べたいケーキ」
「わかったわかった」
沙織は元気よく学校に行った。
最近、沙織は胸を張っている。意地悪を言う子がいなくなったわけではないと思うけれど、沙織なりに学校を楽しんでいるようだ。二月になって一度、お友達の女の子がお人形と子供用雑誌を持って梟荘まで遊びに来てくれたことがある。夕方、ママが迎えに来てくれて、名残惜しそうに手を振って帰っていった。
小学一年生の女の子、二人きりで何をお喋りしたんだろう。
「ここの子になってきたなー」
優菜はほっぺたにトーストのジャムをくっつけながら言った。
「そうだねー」
わたしは相槌を打った。
台所はほかほかと温かで、流しの前の窓からは、ぽたぽた軒から水が滴っていた。まだ真冬だし、外は尋常ではないほど冷えているけれど、優しい日差しだ。きっと今日は一日お天気で、雪や氷も溶けるだろう。
「また次の日に、裏切ったみたいに寒くなったり雪が降ったりすることを思ったら、嫌になっちゃうよね」
ぼそっとわたしが言った。思わず口から零れてしまった。
そうだ。いくら良い瞬間が巡って来たからと言って、手放しで喜べない。すぐ前に落とし穴がまた待ち受けている。これまでさんざん辛い思いをしてきた。わたしは落とし穴の恐ろしさを知っている。
生きるというのは恐ろしい事、気が抜けない事、いくら嬉しかったとしても、そんなものに浮かれてはしゃいでいたら、次にくる落とし穴で絶望のありったけを味わわなくてはならなくなる。
朝のラジオを背景に、さくさくと優菜はトーストを齧った。
もごもごと頬張りながら、まあそうだけれども、と、言った。
「嫌なこともいいことも、巡ってくるんだからさー、目の前に来たもんを、ありがたく受け止めるしかないんじゃないの」
嫌なこと、いいことは人それぞれ違っていて、やけに嫌なことの盛りが多いな、と思っても、それが自分の身の丈に合うサイズの盛りなんだよー、きっと。
「もりもり食べて大きくならんと」
と、優菜がお茶を飲みながら言った。
「大きくなってなんかいいことあるのかしら」
現実ではもう、三十路を越えてこれ以上大きくなる必要もないわたしが、まぜっかえすように言った。
辛いことに耐えて成長してゆくのが人間。でも成長してもまた次の、もっとハードルが高くなった辛いことが現れるなら、最初のハードルで立ち止まってハナクソほじってたほうが、総じて楽なんじゃないの。
「そういうのもアリなんだろうけれど、わたしは嫌よ」
優菜はけらけら笑った。光る笑顔だった。
きっと優菜はまだ立ち直り切れていない。優菜は英語が好きだと言っているけれど、これ以上、スキル向上のためにどこかのスクールに通ったり、交流会に出席するようなことはない。掲示板にまで晒されていた優菜は、自分を知っている誰かに会うのを恐れている。
いってきまーす、今夜は楽しいぞー、楽しみー。
コートを着込んで元気よく出勤して行く優菜を見送って、わたしは白い息を上げた。
甘く晴れた冬の空に、真っ白い雲が浮かんでいる。足元は濡れてぬかるんでおり、冷たくて黒い土の下には草の種たちが春を目指して眠り続けているのだ。
**
買い物を済ませてから、お座敷の掃除をした。
晴れた日の座敷は気持ちが良い。障子を開けはなし、ついでに縁も開いて庭からの空気を通した。冷たいけれど気持ちが良い。
座布団を縁に並べて干した。
畳の上に小さい電気カーペットを出してスイッチを入れると、ほかほかと温まる。ついでに毛布でくるまってしまったら、もうだめだった。
気が付いたらわたしは、昼寝をしてしまっていた。
小春日和の日差しを瞼に感じながら、時折小鳥の声も聞こえて、幸せな眠りである。浅い夢の中でふわふわと漂う感じを楽しんだ。
(あー、いいなー、こんな気持ちよいの久々だなあ)
猫みたいな気分で呑気に寝そべっていたのである。
不用心なことに、戸締りも忘れて。
物音に気付いて目を開いた。あれっと思った。
そんなに寝てしまっただろうか、沙織が帰ってくるような時間ではないはずだ。気のせいかなと思ってもう一度寝ようとしたけれど、頭のどこかで警鐘が鳴っていた。
なんら根拠のない怯えが心臓に走り、なにかただ事ではないことが起きようとしている、と、わたしに告げていた。
物音は続いている。足音だ。あちこちのドアを開いて、ゆっくりとこっちに近づいている。
(けやきさんかもしれない)
良い風に考えようとした。大急ぎで毛布を畳み、髪の毛の乱れをてぐしで適当に整えた。
「だれー」
と、開け放した襖の向こう側にむけて、わたしは叫んだ。
「そこにいるのね」
けれど、返ってきた声は沙織でもけやきさんでも優菜でもなかった。わたしは腰を抜かしかけた。
ぎょっとするほど近いところからその声は聞こえ、やがてひょっと襖から姿を現したのは、早川芽衣さんだった。
純白のふわふわコートに身を包み、ゴージャスな巻き髪と愛らしい甘いメイクで身を包んだ芽衣さんは、校正アルバイトの時よりも派手になっていた。
不法侵入、警察を呼びますよと口から出かかったけれど、それより早く、芽衣さんは甘い笑顔で言った。
「チャイム鳴らしたんだけど出てもらえなくて。でも玄関空いてるし、人がいるみたいだから、入っちゃった」
芽衣さんは美しい顔をしている。にこにこと笑うベビーフェイス。年よりも幼く見えるメイクと服装。
この人が三十路前後だなんて、よく見なくては分からないだろう。まるで、アイドルみたいな姿だった。
まるでそうすることが自然で当然であることのように、芽衣さんは、玄関が開いていたから入った、と、言った。両手で、クラッチバッグを弄んでいる。
「なんの用」
と、わたしは言った。情けないことに声がかすれていた。
芽衣さんの目が不穏になった。笑顔を作っていた顔が、にょにょにょと変わって、目を剥きだし、鼻を怒らせた形相になった。悪鬼だった。
わたしは悲鳴を上げて柱にしがみ付き、いつでも庭に飛び降りることができるよう、自分の背後に気を配った。
そうだ、その顔だった。校正のアルバイトの時、すれ違いざま、なんどか見たことがある恐ろしい表情。この人はわたしを憎んでいる、恨んでいる、理由はわからないけれど――否、今ではなんとなくその理由が分かっている――腹の底からの怨恨を顔に浮き上がらせるようにして、芽衣さんはわたしを睨みつけていた。
「沙織はどこなのよ」
いつもの甘い声ではなかった。乾いた、低い声だ。
はあ、と、わたしは絞り出すようにして言った。芽衣さんはクラッチバッグを構えながらにじり寄った。
「沙織返しなさいよ。母親でもないアンタがなんで沙織独占してんのよ」
ひぃ、と、笛みたいな声が喉から出た。庭に飛び降りて逃げようとしたけれど、芽衣さんは恐ろしいほど早く動いてわたしの手を掴んでいた。至近距離に、鬼のようにぎょろつかせた目玉があった。
「知らないでしょうから教えてあげるけれどね、沙織のほんとの母親はわたしなの。だから、沙織はわたしのモンなのよ」
ほんとの母親。沙織は自分のもの。
その言葉を聞いて、わたしは我に返った。腰抜けの根性に鞭が打たれた。かっと炎が燃え上がって、わたしは早川芽衣を睨み返した。
「赤ちゃんの時に沙織を捨てておいて、何が母親だよ」
警察呼ぶよ、いいかげんに出ていって。
パチン、と、早川芽衣の手を払いのけて、わたしは怒鳴った。
「あの変な赤い文字のハガキもアンタでしょ。きもっちわるー、頭悪いのモロバレの誤字脱字だし。いい加減にしときなよ、イイトコのお嬢さんなら、変なことしてるの、世間様にバレたらまずいでしょ」
吐き捨ててやった。
早川芽衣は、呆然として振り払われた手をかばっていた。
悪鬼のような表情はふいに消え、代わりに、撥ねつけられた痛みと自分の思い通りにならないことへの苛立ちの涙が目に膨れ上がった。
まるで、三歳の子供だと、その様子を見てわたしは思った。
「きー」と、金切り声をあげ、地団駄を踏みながら、早川芽衣はわたしに向き直った。ぐちゃぐちゃの表情は最早、なんと形容したらよいか分からない。
「みんなあんたのこと嫌ってる」
「社会的に抹殺されて当然」
「あんた惨めに死ねばいいのに」
きー、きー、と、ノイズのような金切り声の合間に、そんなことを早川芽衣は口走り、わたしに襲い掛かって来た。
めちゃくちゃにクラッチバッグが空を切り、ばしんばしんと顔面や肩や腕を叩かれた。
怒りで立ち直った根性は、立て続けの容赦ない暴力に簡単にくじけた。ひぃ、とわたしは叫び、攻撃から自分を守るために両腕をクロスさせてしゃがみ込んだ。
セーターの襟を掴まれて頬をはたかれた時、口の両端を吊り上げて目を剥きだした芽衣さんの顔を正視した。おかしい。狂っている。正常ではない。
ついにわたしは「ぎゃー」と悲鳴を上げた。道にまで響けと言わんばかりに。
がらっ、と玄関が開いて、どかどかと人があがりこむ気配がした。
「虫けら」とか「許せない」とか叫びながらクラッチバッグを武器にして振り回す芽衣さんが、いきなりわたしから引き離された。
はあはあと息を切らしながら柱にしがみつき、立ち上がると、一体何が起きているのか恐る恐る確認する。きいきい金切り声を上げて泣く早川芽衣は、スーツの男性に羽交い絞めにされていた。
スーツ男性は二人いる。もう一人の男が、鋭い目線でわたしを捉え、だけど口調だけは物柔らかに、大変失礼しました、お怪我はありませんかと聞いて来た。
「お嬢様が、大変申し訳ないことをいたしました。お怪我等ありましたら、治療費はこちらが負担しますので、ご連絡ください」
すっと名刺が差し出される。わたしは受け取らなかった。男は、わたしの足元のたたみに名刺を置いた。ジーパンをはいた足ががくがくした。
物腰柔らかで丁寧な男性が、きっと強い眼光を放った。ものすごい圧だった。
「お嬢様はご病気なのです。このことはどうか、どうかご内密に。お詫びはさせていただきますので、どうかご容赦ください」
きいきい喚いていた芽衣さんは、今はもう号泣している。
まるで悲劇の女王みたいな嘆き方で、聞いているとどんな不幸があったのかと思うような泣き方をしていた。
「うううー、うううー」
嘆きのプリンセスは、二人の屈強の男性に抱え、護られながら梟荘を出ていった。
ふわふわの白いコートから飛び散った毛やら、香水の残り香やらが座敷に残っている。
足元の名刺を取り上げると、目を疑いたくなるような超有名大会社の企業名が見えた。なるほど、この大会社のご令嬢なら財力もおありだろう。そして、ヘンテコな噂が立っても困るに違いない。
沙織の母親からだいたいの事情は聴いていたけれど、芽衣さんが具体的にどこの会社のご令嬢なのかまでは聞かされていなかった。話の中で企業名はちらっと出たかもしれないが、「……会社の御関係のお家で」位の言い回しだったので、わたしは、どうせ分社か下請けだろうくらいに思っていたのだ。
なにかをはばかるような、最後まで全部打ち明けることがためらわれる様な雰囲気で、沙織ママは語っていた。確かにこの大企業のご令嬢が相手なら、慎重になるかもしれない。
まさか、大企業の本社のご令嬢とは。
間違いなく早川芽衣は社会的強者であり、触らぬ神にたたりなしと言いたくなるような相手なのだった。
ふらふらと座敷を出て、開け放された玄関に向かった。
玄関には優菜のサンダルとわたしのスニーカーが並んでいたはずだけど、くちゃくちゃに飛び散って乱れていた。それを揃えようとして、手が震えた。
よろよろ表に出てみたら、ちょうど芽衣さんが黒いクラウンに押し込められて、バタンと扉が閉じられたところだった。ブブウと車は発進したが、一瞬、車窓にはりつくようにしてこちらを恐ろしい形相で睨む芽衣さんと目があってしまった。
「ぐう」と、吐き気が込み上げて、わたしは口を抑えて玄関の戸にしがみ付いた。
蓮向かいのうちの御隠居さんと、三軒隣のうちの奥さんが覗きに来ていた。
梟荘の門からこちらを覗き見して、青ざめたわたしが玄関の扉にひっついているのに気づいて、愛想笑いした。
「なんでもないんですー」と、わたしは言い、ご近所さんたちは腹の中で、なんでもないわけあるか、とツッコミを入れたのに違いなかった。
「大丈夫かね」
と、御隠居さんが心配そうに言ってくれた。
「出てますよ」
鼻を指さしながら、奥さんが言った。
はっとして手の甲で鼻をこすったら、べっとりと赤い血が付いた。クラッチバッグで殴られた時に鼻血が出たのだろう。ひりひりするので頬も触ってみたら、びっくりするほど熱感を持っている。腫れている。
「呼びましょうか、警察」
と、奥さんが眉をひそめて言ってくれた。
わたしはどうしてその時、お願いしますと言えなかったのだろう。
警察呼んで下さい。怖かった。酷い目にあった。お願いします。
その場でしゃがみこんで、怯えのあまり泣き出してしまえていたら。
だけどわたしは、そうしなかった。
へへへと笑って見せて、大丈夫です、ほんとに何でもないんです、と言った。
ご隠居と奥さんは顔を見合わせたが、わたしが大丈夫と言っている限り、それ以上介入はできなかった。
物見高いけれど親切なお二人に頭を下げてから、わたしは玄関を閉めた。まだ胸がどきどきと高鳴っている。手の中にはまがまがしい名刺が握られていた。
**
台所でお茶を飲みながら、わたしは少しずつ落ち着いた。
早川芽衣は愚かである。好き勝手に自分の欲求のままに動く。それが叶わなければ、恐ろしいヒスを起こす。
恐らく今まで何度もそういう場面があったのだろう。さっきの男性たちは芽衣さんの扱いに慣れていた。
有名な大企業のご令嬢が、精神病院に入院するのは世間体が悪すぎる。だから、普通に社会生活を送らせている。その代わりに、いつなんどき、奇行に走っても対応できるよう、見張りの男性を着けている、と、いったところか。
わたしはさっきの芽衣さんを思い出した。
悪鬼のような表情は恐ろしかったが、子供のように泣き崩れる様子は、こんなにひどい目にあわされたわたしから見ても、なにか気の毒に思える。
迷子の可哀そうな子供のようだ、芽衣さんは。
多分本当にそうなのだろう。病んでいるというより、幼いまま心の成長が止まっている。世間から隔絶され、狭い世界で我儘放題に生きて来た、壊れ物なのだ。
うまいこと人に可愛がられて、要領も良くて、一見世渡り上手だけど、その実、足元はゆらゆらしていて、危うくてしかたがない。仮面の下の顔は病んでいる。
病気なのだ、あの人は。
そう思ったから、わたしはすぐに警察に届け出なかったのだと思う。
多分もう、芽衣さんがここに来て、これ以上のことはしてゆくまい。変な赤いハガキも来ないだろう。そうっとしておくほうが良い。そんなふうに考えてしまったのだった。
地位に護られて庇われている、責任能力のない可哀そうなひと。
どうして今になって沙織が欲しいと思い始めたのか分からないけれど、きっと彼女は寂しいんだ。
それになにより、これ以上芽衣さんの感情を逆なでしたら、沙織や沙織の母親にまで被害が及びそうな気がした。
**
「気を着けなさい。情けは無用よ」
あの日、遠い電話で母が言った言葉を、忘れたわけではなかったのに。
いつものようにラジオを流し、ストーブで足元を温める。台所はやはり、この世で一番安全で楽しい場所だった。
午後のお湯を沸かさねばならない。そして、物置から鉄板焼き用のプレートを引っ張り出してこなくては。
そうだ、ケーキを買ってこなくては。
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