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知らせ
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今年の冬は寒い。しんしんと床から冷気が立ち上るようだ。朝は梟荘の前の細い道が薄氷で覆われている。
はす向かいのうちの石塀からにゅっと突き出した黒い枝は、冷たいつららをたくさんぶら下げていた。
しかし晴れた日の朝焼けは寒いほど素晴らしく、ゴミ捨ての道すがら、何度も滑りながら、わたしは空に見惚れていた。
ふうっと寒風が過ぎてゆく。ふわっと、前方の道で、砂嵐のように白い乾いた雪が、巻き上がった。
**
1月はあっという間に過ぎ、その僅かな間に大きな変化があった。
優菜は今まで心と財力を削りながら通い詰めていた英会話スクールを辞めた。同時に、執着していたわけのわからない恋のようなものも、ざっくりとえぐられるように終わった。
夜勤前に、あの紙切れを優菜に渡し、話をしたとき、意外なことに優菜は落ち着いていた。笑顔すら見えていた。
わかった、たるちゃん迷惑かけたね、本当にごめんなさい。
ああそうか、それとね、もうわたし大丈夫だから、たるちゃんホントに夜勤普通に入れていいよ。
週四回でも。五回でも。
痛ましい笑顔を残して、じゃあたるちゃん行ってらっしゃいと立ち上がった優菜の白い横顔は、綺麗で切なくて愛おしかった。
これから夜通し、優菜は泣くんだろうと判っていた。今すぐ電話をかけたい、メールをしてこの事態を問い詰めたい、そしてできるなら何とかしてまだ希望を繋ぎたいという思いが嵐のように優菜の中で荒れ狂っているはずだった。優菜は、スマホを握りしめながら、のたうち回るのだろう。もしかしたら、号泣するかもしれなかった。
本当は、一晩ついていてやりたかった。
何より心配なのは、優菜が自棄をおこして、スマホであの講師氏に連絡を取ってしまい、ついに事態が公になってしまうことだった。今度連絡が来たら、校長に言う、警察沙汰にするかもしれないとまで、彼は言ったではないか。自分に全く非がないことを証明し、社会的な地位を護るためなら、あのひとはなんでもするのに違いなかった。
優菜は、耐えた。
最も最悪で最も孤独で最も暗い夜を、ぐちゃぐちゃになって、多分誰にも見せたくない位にぼろぼろになって、それでも何とか夜明けを迎えることができた。
六時でバイトを終え、沙織の登校に間に合うように梟荘に帰った時、おかえりという優菜の声を聞いて、彼女が何とか乗り切ったことを感じた。玉暖簾から覗いた優菜の顔は、まぶたがはれ上がって、全体的に青ざめて凄いことになっていたけれど、それは一晩かけて自分自身と戦ったことの証である。
優菜は勝った。まだ自分との戦いはもう少しの間続くだろうけれど、とりあえず、最も辛くて、最も酷い一夜を乗り越えることができたのだった。
「優菜ねーちゃん、今日おやすみした方がよくない」
と、ランドセルを担いで今にも玄関を出ようとしながら、沙織が心配そうに言った。
優菜は腫れぼったい酷い顔をくしゃくしゃにして笑った。大丈夫だよ、ちゃんと仕事に行くから沙織も頑張ってきて。
ふぁっと真冬の空気が玄関から破裂するように飛び込んできて、梟荘の廊下を一気に冷やした。さーおりちゃーん、と、呼ばれ、大急ぎで駆けてゆく沙織。かたかたとランドセルが力強くて楽しい音を立てた。沙織の新しいショートブーツ、オレンジ色の可愛らしいやつ。正月に優菜が見繕ってやったものだ。
優菜が悪夢のような一晩を乗り切った、あの朝の美しさを、わたしは一生、忘れない。
**
井上さんに話して夜勤の回数を増やしてもらった。
週に二度から、週に四度になり、収入が増え、忙しくなった。
人はやっぱり、ある程度忙しくしていた方が良いのだと思う。
本当は週に五度にして、社員登用してもらいたかったが、まだもう少し、梟荘の様子を見守りたかった。
風呂の中で泣くことはなくなってきたが、優菜はやっぱりまだ不安定だし、沙織を優菜に任せきりにもできない。
何ら問題がない、優菜はちゃんと定時に仕事を終えてうちに戻ってくるし、コンビニの仕事に没頭することは可能である。しかしどこか、わたしは不安を覚えていた。虫の知らせというやつが動いていた。
日常の中、ふっと訪れるごく一瞬の不協和音。
黒い影。なにか、これはおかしいと告げる鋭い声。
大体の場合、そんなものはすぐに忘れてしまうものだ。多分、わたしが思っているよりももっと頻回に、その警告は降りてきていたのに違いない。
門のところの郵便受けの蓋が、軽く開いていたりとか。
夜更けや朝方、梟荘の側を、あまりこのあたりでは見ない車がすうっと静かに過ってゆくこととか。
気のせいだ、と、思おうとした。ちょっと神経が張り詰めているんだろう、仕事が忙しくなったから。無理やりわたしは自分の不安に蓋をした。
優菜はよく笑うようになった。屈託なく、明るい笑顔が見られるようになった。
沙織は色々あるだろうけれど、今の所インフルエンザにもならずに頑張って毎日学校に通っている。平穏無事な日々だった。コンビニ店長の井上さんはいい人だったし、他のバイトさんも、のんびりしていた。
これまでの人生の中で、こんなに物事がうまく運んでいることはないとまで、わたしは思っていた。
「……あらっ」
ある日、梟荘の様子を見に来て下さったけやきさんが、玄関に入ったとたんに、いぶかしげな表情をした。
手には、おすそわけ用のおかずが入ったタッパーと、沙織のための児童書が何冊か入った紙袋が下げられている。
まるで、不快な虫を目で追うように、顔をしかめてけやきさんは玄関の軒下やら、足下やらを見回した。首を傾げて何度も眺めている。
どうしましたか、と、出迎えながら聞いてみたら、けやきさんはちょっと困ったような顔をして微笑んだ。ごめんなさいね、と言った。
「何でもないのよ。ちょっと、前に来た時と何かが違う気がしたのよ。でも気のせいだったみたい……」
けやきさんに温かな台所に上がってもらった。台所はストーブが効いて気持ちよく温もっており、今晩のおかずの肉じゃがの匂いで満ちていた。
ラジオは楽し気なポップスを流していたし、流しの前のガラス戸からは日差しが入り込んでいた。
なんらおかしなところのない、気持ちの良い梟荘の台所。けやきさんに問われるままに、近況報告をしつつ、時々、世間話を交えた。
「そういえば、……商会さん、株式会社××に合併されることになったんだってね」
けやきさんがお茶を啜りながら言い、ええ、そうなんですかとわたしは返す。けやきさんの向かいに座り、自分もお茶を飲んだ。温かかった。
……商会とは、沙織の母親が務めている会社の事か。その会社の仕事のために長い単身赴任を強いられているのだが、他の会社に合併されるなら、なにか状況が変わるのだろうか。
合併するというその会社は、日本人なら誰もが名前を知る大企業だ。
「急に決まったみたいよー。下々の社員さん達はみんな、びっくりしてるんだって」
「へええ」
けやきさんはにっこりと笑った。
安心できる笑顔、安定した和やかさ。物事は全部うまくいくと、見る人に思わせる無敵の癒しだった。
そのうち、沙織ちゃんにとっては良い知らせがあるんじゃないの。
けやきさんは言い、よいしょと腰を上げた。茶色いマフラーをまき直し、手提げかばんを下げて、けやきさんは外に出てゆく。
「お茶ごちそうさま」
「いえいえ、こちらこそいつもすいません」
ふわっと外の寒気が流れ込む。けやきさんの優しい香りが梟荘の中に漂った。
サンダルをつっかけて表まで見送りに出ると、けやきさんはふっと足を止め、また梟荘を振り返った。薄く描いた眉をひそめ、どうにも気になるというふうに。
すうっと、冷たい風が流れる。空は甘く晴れていたのだが。
「たるちゃん、戸締り気を付けて」
「あっ、はい」
世間話の続きのような自然さで一言残して、けやきさんはとことこと歩いた。梟荘の門の前に、けやきさんの軽四が留められている。バタンと乗り込み、笑顔で手を振ってから、ブブウと発進した。
残念なことに梟荘には駐車場がない。路駐して頂くほかない。車のお客さんは、あまり長居できないのだ。なにしろ、梟荘の前の道は狭いから。
思えば、けやきさんは敏感に、その警告に気づいたのだ。
梟荘自身が叫んでいたのかもしれない。気を着けろ、と。
力強く、温かに、住む人たちを護ってくれる梟荘の家屋は、日夜、住人たちが見落としているようなことでも余すところなく見つめ続けている。
ひとは、気が付いていなくても痕跡を残す。綺麗に後を濁さないように気を付けていても、絶対に必ず、なにかを残す。
必ずしもそれは、目に見えるものではない。微かな香水の残り香、豪華なコートから飛んでどこかにへばりついてしまった毛の屑。
吐いた息や視線の流れまで、残留してしまうものなのかもしれない。
五感で微かな変化を感じ取っても、目や耳で確かめきれないものについて、人は「気のせい」と思う。
確実に、なにかがそこまで近づいているというのに。
梟荘の黒電話が鳴る。
慌ててわたしは玄関から中に飛び込んだ。
息を切らしながら受話器を取り、「はい、山崎です」と、なんとか言った。
そうしたら、ものすごく懐かしい深い声が耳元で、「出るの遅いよー」と、文句を言った。
たまげすぎて、すぐに反応できなかった。
それは、マイ・マザーからの電話だったのだ。
盆暮れ正月、年中、連絡一つ寄越さなかった母が。
とっさにわたしは、あけましておめでとうと言った。受話器の向こう側で、母が、ばっかじゃないの、今二月だよ、と笑いだしている。
「そのうちさー、帰るから。あんた仕事してんでしょうねー」
魔女修行に出るとか言って出奔した人とは思えないほど、呑気で力強くて、母は相変わらず、不動の存在感を醸し出している。
いろいろ言いたいことは山ほどあったけれど、とりあえずわたしは、こう言った。
「仕事してます。帰るっていつ。魔女になれたの」
急に、電話の向こうでざわつきが大きくなった。
がやがやと人が大勢通り過ぎるような不安定な感じが聞き取れる。母の声もいきなり遠くなり、とても聞き取りにくくなった。
「……めん、とりこみ中、今度また……」
途切れ途切れに母の声を聞き取って、は、とか、なにしてんの、とか、わたしは問いかける。
けれど電話はますますノイズで乱れた。
もしかしたら日本ではないどこかから掛けているのかもしれないと、わたしは気付いた。背後のノイズ音が、どうも異国情緒に満ち過ぎている。
(一体なにしてんだ、この人は)
「気を着けなさい。たる子。用心しなさい。情けは無用よ」
そこだけ、はっきりと聞き取れた。
電話は切れた。
茫然と、わたしは立ち尽くした。梟荘の、廊下で。
ひゅうっ。
開けっ放しの玄関から、寒い風が飛び込んできた。
慌てて玄関を閉めて玉暖簾を潜ったら。ラジオは相変わらず楽しそうに音楽を奏でている。
台所は、やっぱり世界で一番安全で安心できる場所だった。
湯呑を流しで洗ってしまい、さあ、今夜も夜勤だぞと気を取り直す。
けやきさんが持って来てくれた、おすそわけのひじき煮もある。
台所の隅で、口を開いた段ボールの中には、鮮やかなミカンがごろごろと入っていた。
忘れそうになった時、鋭く差し込むように、母の声が届いた。
気を着けなさい。情けは無用よ。
エプロンを外しながら、わたしは振り向いた。
もちろん、台所には誰もいない。幻聴である。まぼろしだ。気のせいだ。
でも母からの警告は、他のどんな事象よりも強烈に、わたしの胸に残った。
こうやって、なにかが起きようとしているらしいことを、あらかじめわたしは知らされていたわけである。
それで、どうなるというわけでもなかったけれども。
はす向かいのうちの石塀からにゅっと突き出した黒い枝は、冷たいつららをたくさんぶら下げていた。
しかし晴れた日の朝焼けは寒いほど素晴らしく、ゴミ捨ての道すがら、何度も滑りながら、わたしは空に見惚れていた。
ふうっと寒風が過ぎてゆく。ふわっと、前方の道で、砂嵐のように白い乾いた雪が、巻き上がった。
**
1月はあっという間に過ぎ、その僅かな間に大きな変化があった。
優菜は今まで心と財力を削りながら通い詰めていた英会話スクールを辞めた。同時に、執着していたわけのわからない恋のようなものも、ざっくりとえぐられるように終わった。
夜勤前に、あの紙切れを優菜に渡し、話をしたとき、意外なことに優菜は落ち着いていた。笑顔すら見えていた。
わかった、たるちゃん迷惑かけたね、本当にごめんなさい。
ああそうか、それとね、もうわたし大丈夫だから、たるちゃんホントに夜勤普通に入れていいよ。
週四回でも。五回でも。
痛ましい笑顔を残して、じゃあたるちゃん行ってらっしゃいと立ち上がった優菜の白い横顔は、綺麗で切なくて愛おしかった。
これから夜通し、優菜は泣くんだろうと判っていた。今すぐ電話をかけたい、メールをしてこの事態を問い詰めたい、そしてできるなら何とかしてまだ希望を繋ぎたいという思いが嵐のように優菜の中で荒れ狂っているはずだった。優菜は、スマホを握りしめながら、のたうち回るのだろう。もしかしたら、号泣するかもしれなかった。
本当は、一晩ついていてやりたかった。
何より心配なのは、優菜が自棄をおこして、スマホであの講師氏に連絡を取ってしまい、ついに事態が公になってしまうことだった。今度連絡が来たら、校長に言う、警察沙汰にするかもしれないとまで、彼は言ったではないか。自分に全く非がないことを証明し、社会的な地位を護るためなら、あのひとはなんでもするのに違いなかった。
優菜は、耐えた。
最も最悪で最も孤独で最も暗い夜を、ぐちゃぐちゃになって、多分誰にも見せたくない位にぼろぼろになって、それでも何とか夜明けを迎えることができた。
六時でバイトを終え、沙織の登校に間に合うように梟荘に帰った時、おかえりという優菜の声を聞いて、彼女が何とか乗り切ったことを感じた。玉暖簾から覗いた優菜の顔は、まぶたがはれ上がって、全体的に青ざめて凄いことになっていたけれど、それは一晩かけて自分自身と戦ったことの証である。
優菜は勝った。まだ自分との戦いはもう少しの間続くだろうけれど、とりあえず、最も辛くて、最も酷い一夜を乗り越えることができたのだった。
「優菜ねーちゃん、今日おやすみした方がよくない」
と、ランドセルを担いで今にも玄関を出ようとしながら、沙織が心配そうに言った。
優菜は腫れぼったい酷い顔をくしゃくしゃにして笑った。大丈夫だよ、ちゃんと仕事に行くから沙織も頑張ってきて。
ふぁっと真冬の空気が玄関から破裂するように飛び込んできて、梟荘の廊下を一気に冷やした。さーおりちゃーん、と、呼ばれ、大急ぎで駆けてゆく沙織。かたかたとランドセルが力強くて楽しい音を立てた。沙織の新しいショートブーツ、オレンジ色の可愛らしいやつ。正月に優菜が見繕ってやったものだ。
優菜が悪夢のような一晩を乗り切った、あの朝の美しさを、わたしは一生、忘れない。
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井上さんに話して夜勤の回数を増やしてもらった。
週に二度から、週に四度になり、収入が増え、忙しくなった。
人はやっぱり、ある程度忙しくしていた方が良いのだと思う。
本当は週に五度にして、社員登用してもらいたかったが、まだもう少し、梟荘の様子を見守りたかった。
風呂の中で泣くことはなくなってきたが、優菜はやっぱりまだ不安定だし、沙織を優菜に任せきりにもできない。
何ら問題がない、優菜はちゃんと定時に仕事を終えてうちに戻ってくるし、コンビニの仕事に没頭することは可能である。しかしどこか、わたしは不安を覚えていた。虫の知らせというやつが動いていた。
日常の中、ふっと訪れるごく一瞬の不協和音。
黒い影。なにか、これはおかしいと告げる鋭い声。
大体の場合、そんなものはすぐに忘れてしまうものだ。多分、わたしが思っているよりももっと頻回に、その警告は降りてきていたのに違いない。
門のところの郵便受けの蓋が、軽く開いていたりとか。
夜更けや朝方、梟荘の側を、あまりこのあたりでは見ない車がすうっと静かに過ってゆくこととか。
気のせいだ、と、思おうとした。ちょっと神経が張り詰めているんだろう、仕事が忙しくなったから。無理やりわたしは自分の不安に蓋をした。
優菜はよく笑うようになった。屈託なく、明るい笑顔が見られるようになった。
沙織は色々あるだろうけれど、今の所インフルエンザにもならずに頑張って毎日学校に通っている。平穏無事な日々だった。コンビニ店長の井上さんはいい人だったし、他のバイトさんも、のんびりしていた。
これまでの人生の中で、こんなに物事がうまく運んでいることはないとまで、わたしは思っていた。
「……あらっ」
ある日、梟荘の様子を見に来て下さったけやきさんが、玄関に入ったとたんに、いぶかしげな表情をした。
手には、おすそわけ用のおかずが入ったタッパーと、沙織のための児童書が何冊か入った紙袋が下げられている。
まるで、不快な虫を目で追うように、顔をしかめてけやきさんは玄関の軒下やら、足下やらを見回した。首を傾げて何度も眺めている。
どうしましたか、と、出迎えながら聞いてみたら、けやきさんはちょっと困ったような顔をして微笑んだ。ごめんなさいね、と言った。
「何でもないのよ。ちょっと、前に来た時と何かが違う気がしたのよ。でも気のせいだったみたい……」
けやきさんに温かな台所に上がってもらった。台所はストーブが効いて気持ちよく温もっており、今晩のおかずの肉じゃがの匂いで満ちていた。
ラジオは楽し気なポップスを流していたし、流しの前のガラス戸からは日差しが入り込んでいた。
なんらおかしなところのない、気持ちの良い梟荘の台所。けやきさんに問われるままに、近況報告をしつつ、時々、世間話を交えた。
「そういえば、……商会さん、株式会社××に合併されることになったんだってね」
けやきさんがお茶を啜りながら言い、ええ、そうなんですかとわたしは返す。けやきさんの向かいに座り、自分もお茶を飲んだ。温かかった。
……商会とは、沙織の母親が務めている会社の事か。その会社の仕事のために長い単身赴任を強いられているのだが、他の会社に合併されるなら、なにか状況が変わるのだろうか。
合併するというその会社は、日本人なら誰もが名前を知る大企業だ。
「急に決まったみたいよー。下々の社員さん達はみんな、びっくりしてるんだって」
「へええ」
けやきさんはにっこりと笑った。
安心できる笑顔、安定した和やかさ。物事は全部うまくいくと、見る人に思わせる無敵の癒しだった。
そのうち、沙織ちゃんにとっては良い知らせがあるんじゃないの。
けやきさんは言い、よいしょと腰を上げた。茶色いマフラーをまき直し、手提げかばんを下げて、けやきさんは外に出てゆく。
「お茶ごちそうさま」
「いえいえ、こちらこそいつもすいません」
ふわっと外の寒気が流れ込む。けやきさんの優しい香りが梟荘の中に漂った。
サンダルをつっかけて表まで見送りに出ると、けやきさんはふっと足を止め、また梟荘を振り返った。薄く描いた眉をひそめ、どうにも気になるというふうに。
すうっと、冷たい風が流れる。空は甘く晴れていたのだが。
「たるちゃん、戸締り気を付けて」
「あっ、はい」
世間話の続きのような自然さで一言残して、けやきさんはとことこと歩いた。梟荘の門の前に、けやきさんの軽四が留められている。バタンと乗り込み、笑顔で手を振ってから、ブブウと発進した。
残念なことに梟荘には駐車場がない。路駐して頂くほかない。車のお客さんは、あまり長居できないのだ。なにしろ、梟荘の前の道は狭いから。
思えば、けやきさんは敏感に、その警告に気づいたのだ。
梟荘自身が叫んでいたのかもしれない。気を着けろ、と。
力強く、温かに、住む人たちを護ってくれる梟荘の家屋は、日夜、住人たちが見落としているようなことでも余すところなく見つめ続けている。
ひとは、気が付いていなくても痕跡を残す。綺麗に後を濁さないように気を付けていても、絶対に必ず、なにかを残す。
必ずしもそれは、目に見えるものではない。微かな香水の残り香、豪華なコートから飛んでどこかにへばりついてしまった毛の屑。
吐いた息や視線の流れまで、残留してしまうものなのかもしれない。
五感で微かな変化を感じ取っても、目や耳で確かめきれないものについて、人は「気のせい」と思う。
確実に、なにかがそこまで近づいているというのに。
梟荘の黒電話が鳴る。
慌ててわたしは玄関から中に飛び込んだ。
息を切らしながら受話器を取り、「はい、山崎です」と、なんとか言った。
そうしたら、ものすごく懐かしい深い声が耳元で、「出るの遅いよー」と、文句を言った。
たまげすぎて、すぐに反応できなかった。
それは、マイ・マザーからの電話だったのだ。
盆暮れ正月、年中、連絡一つ寄越さなかった母が。
とっさにわたしは、あけましておめでとうと言った。受話器の向こう側で、母が、ばっかじゃないの、今二月だよ、と笑いだしている。
「そのうちさー、帰るから。あんた仕事してんでしょうねー」
魔女修行に出るとか言って出奔した人とは思えないほど、呑気で力強くて、母は相変わらず、不動の存在感を醸し出している。
いろいろ言いたいことは山ほどあったけれど、とりあえずわたしは、こう言った。
「仕事してます。帰るっていつ。魔女になれたの」
急に、電話の向こうでざわつきが大きくなった。
がやがやと人が大勢通り過ぎるような不安定な感じが聞き取れる。母の声もいきなり遠くなり、とても聞き取りにくくなった。
「……めん、とりこみ中、今度また……」
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けれど電話はますますノイズで乱れた。
もしかしたら日本ではないどこかから掛けているのかもしれないと、わたしは気付いた。背後のノイズ音が、どうも異国情緒に満ち過ぎている。
(一体なにしてんだ、この人は)
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電話は切れた。
茫然と、わたしは立ち尽くした。梟荘の、廊下で。
ひゅうっ。
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慌てて玄関を閉めて玉暖簾を潜ったら。ラジオは相変わらず楽しそうに音楽を奏でている。
台所は、やっぱり世界で一番安全で安心できる場所だった。
湯呑を流しで洗ってしまい、さあ、今夜も夜勤だぞと気を取り直す。
けやきさんが持って来てくれた、おすそわけのひじき煮もある。
台所の隅で、口を開いた段ボールの中には、鮮やかなミカンがごろごろと入っていた。
忘れそうになった時、鋭く差し込むように、母の声が届いた。
気を着けなさい。情けは無用よ。
エプロンを外しながら、わたしは振り向いた。
もちろん、台所には誰もいない。幻聴である。まぼろしだ。気のせいだ。
でも母からの警告は、他のどんな事象よりも強烈に、わたしの胸に残った。
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