ひとりたりない

井川林檎

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 みいなは、夏休みの自由研究テーマを「上梨の怖い伝説」にしてから、元気になってきたようだ。それでも自分一人で自転車をこいで町立図書館まで行く勇気はまだないらしい。みいなの言うところによれば、上梨小の「裏サイト」で、名指しで悪口をかきこまれていて、そのせいで外に出て同級生に会うのが嫌なのだろうだ。
 (いじめのやり方も、時代を感じるなあ)
 怜は、このところ三日置きくらいに大山家を訪れている。平日は家の中にみいな一人きりになることが多いので、奈津から「見てやって」と頼まれているせいもあった。だが、本当のところ、怜が大山家に通うのは、みいなを図書館まで車に乗せて連れてゆくためだった。姪っ子の顔色が日に日によくなり、生き生きとしてゆくのを見るのは、怜にとっても心楽しいことだった。

 しかし、怜はもっと別のことを気がかりに思っている。
 
 「今日もいるかなー」
 車の中でみいなは、どこか浮かれているようだった。怜は、みいなが楽し気にしているのは、自由研究に没頭しているのと、もう一つ大きな理由があるように思えてならなかった。それは、認めたくもないことだった。
 「いるよね、だっていつも、うちらより先に来て何か読んでるもん」
 バッグを胸に引き寄せ、心なしかみいなの顔は紅潮しているように見えた。怜は無言でハンドルを操作した。みいなは思春期らしく、初恋めいた思いをいだき始めている。まあ、誰にでもあることだ。女の子は早熟なものだし、初恋の相手が同級生ではなく、ずっと年上の男性であることは珍しくない。
 問題は、相手が大友優であることだった。せめて、優でなければ良かったと、怜は何度も考えた。みいなと優を引き合わせてしまったのは自分であり、責任を感じていた。
 
 「何してるんだろ、平日の午前中から図書館に入り浸ってさ」
 ぼそっと、怜は言った。あまり言いたくはないけれど、これは悪口である。目的としては、大友優の異様さを、のぼせているらしいみいなに、なんとか気づいてもらう狙いがある。
 「勉強してるんだよ。知識を深めたり、追及したりしてるんだと思う。学者肌ってやつ」
 しかし、みいなは逆に、もっと熱くなってしまう。顔を合わせれば合わせるほど、みいなは大友優を知的で謎めいた大人の男性として憧れの思いを強めているようだった。

 あばたもえくぼとは、よく言ったものだ。怜はため息をついた。愚かな初恋フィルタがかかっていない正常な目から見た大友優は、顔色が悪く、目の輝きが強く、髪の毛は伸びっぱなしで、黒いぶかぶかした部屋着をまとっていて、仕事もせず図書館にいりびたっていて、どこからどう見ても変な人なのだった。小学校時代の彼を知る怜は、もともと優に対し、嫌悪感に近い思いを持っている。怜に言わせれば、みいなを連れて図書館にいったら、まるで自分たちを待ち構えているかのように郷土資料館に巣食っている大友優は、変質者のようなものだった。

 「奥さんいないみたいだけど、彼女とか、いるのかなー」
 ついにみいなは、そんなことまで口走り始めていた。
 絶対に一人で図書館に行かせてはならないな、と、怜は思う。

 図書館の駐車場に到着する。あいかわらずガラガラに空いていて、車は図書館のスタッフのものばかりだった。優のものらしい自転車が今日もとまっていた。やっぱりいた、と、怜は眉をひそめた。

 「仕事もせずに図書館にいりびたる人に、恋人ができるわけないよ」
 と怜は車から降りながら言った。自分でも嫌な言い方だと思った。みいなには、なおさら強く聞こえたらしい。意味深な沈黙が落ちたので振り向くと、みいなは顔を真っ赤にし、目に涙を浮かべて怜を睨んでいた。まずかった、と思った時は手遅れだった。怜はバタンと助手席の扉を閉めて車から離れ、「一人でいくからいい」と小さく言って、図書館の玄関に向かって走っていったのである。

 待ちなさい、と怜は追いかけたが、みいなは振り向きもせず「調べ物が終わったらメールする」と言い捨て、図書館に飛び込んだ。キュロットスカートから覗く足は健康で、もうみいなは子供の見た目ではなかった。もちろん怜は追いかけようとしたが、その時、視界をよぎったものに気づいて思わず足を止めた。怜が立ち止まった隙に、みいなはエレベーターに飛び乗ってしまった。ちいん、と音を立ててエレベーターは閉まり、すうっと昇って行ってしまった。

 怜はごとごとと心臓が鳴るのを聞いた。
 図書館の玄関の自動ドアの向こうに、麦わら帽子をかぶり、垢ぬけた白いワンピース姿で歩道に立つ女が見えた。ずいぶん年月がたっているけれど、はっきりと彼女は面影を残している。胸をはり、顎をつきあげるような独特な姿勢は今も変わっていないーー浜洋子がいる。アスファルトは熱く焼け、かげろうがもわもわと立っていた。そんな中で、浜洋子は幻のように見えた。

 どこかに車を停めているのだろう。洋子はビニールのスーパー袋のようなものを肘から下げていた。この界隈にスーパーはないが、上梨の人なら子供時代に一度は食べたことがある、古くて小さなパン屋がある。そのパン屋は自分のところでパンを焼くのではなく、食パンを切り、客の要望に応じて、いちごジャムやら、つぶした卵やら、バターなどをベッと塗り、サンドイッチにしたものを簡単に包んで売ってくれる。上梨小の通学路にあるので、学校帰りの子供が寄って、夕飯までの空腹を紛らわすのだ。
 洋子が下げている小さなスーパー袋には既視感がある。きっと洋子もパン屋が懐かしくて、思わず寄ってしまったのだろう。あそこは駐車場がないから、どこかに車を停めて地道に歩いていったのに違いなかった。

 (今度、集まった時に、見かけたことを言おう)
 怜は微笑ましく思った。優の呼びかけで、「嫌われ組」の四人は集まることになっている。奇しくもそれは、「正義グループ」の面々が集まった中華料理屋と同じ店だったが、そんなことは誰も知る由がないのだった。

 最初、怜は洋子に近づくつもりはなかった。小学校時代の同級生が帰郷し、みんな食べたことのある、あのパン屋に寄って買い物をしたんだと、しみじみ思うだけのはずだった。
 ところが、洋子の様子が妙に気になった。どこか不安げで、立ち尽くしているように見えた。赤信号なので待っているだけなのかもしれないが、それにしては信号機を見ていない。洋子はうつむき、片手は下腹を撫でているように見えた。

 おなかを。

 怜は予感を覚えた。すうっと昇ってゆくエレベーターも無視できなかったが、洋子を放っておくこともできなかった。
 浜洋子。浜姓のままなのだから、結婚はしていないはずだ。洋子は途方に暮れているようにも見えた。おまけに、赤信号なのに横断歩道に足を踏み出そうとしているようだった。

 「浜さあん」
 怜は図書館を飛び出して、叫んだ。
 浜さあんーー叫んでから、こんなことが遠い昔にもあったような気が、怜はした。どこだったろう、図書館の前とかじゃなかった。そうだ、あれは学校だった。
 
 学校の、理科準備室。
 口をぬぐうような表情で「正義組」の男子二人がーー真鍋健太と瀬川大翔がーー部屋から出てきた。そして、怜を見て、一瞬ぎょっとしたようだった。
 なにかある、と、怜は思った。理科準備室はしいんとしていて、いつもの気味悪さに満ちている。だけど何かある。真鍋と瀬川がなにかをしていたのだ。怜の予感はあたった。

 「浜さん・・・・・・」

 洋子は、胸元を両手で覆い、乱れたスカートを床に広げてしゃがみこんでいた。それどころか、しゃがんだ足元には、ぞっとするような暗い色の血が広がっていた。
 なにがあったのか、怜はきかなかった。洋子は語らなかった。けれど、洋子は胸を覆いながら、右手に彫刻刀を握りしめていた。

 「やめなよ」と、怜は言い、洋子は素直に彫刻刀を差し出した。
 今、横断歩道に足を踏み出そうとしている洋子は、その、最悪な絶望の時を思わせるような様子をしていた。

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