ひとりたりない

井川林檎

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 浜さん。

 凛と、空気を貫くような、それでいて低く静かな声には覚えがあった。浜洋子は、朦朧とするほど暑い日差しの中で、確かに「どうかしていた」のだった。我に返ることができたのは、まさにその声のおかげであった。ただ自分の名前を呼ばれただけでは、きっと反応しなかったと思う。それほど洋子は、ぼんやりとしていた。まるで何かにとりつかれたかのようなーーううん、この上梨に戻ってきてしまったこと自体、何かにとりつかれている証拠なのかもしれないーー放心状態で、トラックがどんどん近づいてくる信号交差点にふらふら飛び出してゆくところだった。

 ゼロ。
 
 声の主を、瞬時に判別した。洋子は自分でも意外だったが、それほどゼローー大山怜というのが本名だった、そうだ、本名よりもあだ名のほうがしっくりくるのだーーは自分にとって特殊な存在だったらしい。
 あの、「嫌われ組」の中で、唯一、対等に思える相手だった。それどころか洋子は、多少なりとも怜を友人として考えていた。怜になら、自分のことをそっと話すことができたし、怜の言うことなら裏を探ることなく、すんなり受け取ることができた。
 どうしてあの子が「嫌われ組」だったんだろう。あの子こそ、「嫌われ組」には相入れない。否。

 洋子の自意識が、くっと歯ぎしりした。

 否。このわたしと、あの子の二人は、「嫌われ組」に、ふさわしくなかった。
 (他の二人はいざ知らず)

 とっさに洋子は足を引っ込め、振り向いた。なんとか自分の様子を取り繕えたと思いたかった。下腹部に当てていた手を、さりげなくバッグに沿わせた。そう簡単にばれるわけがない。今日、洋子はシースルーのバッグに母子手帳など入れたりしていなかった。シックな黒い革のポシェットに、ごく少ない品を入れていた。通りを挟んで町立図書館がある。図書館の玄関を出たところに、水色のシャツとカプリパンツを纏った女が立っていた。つつましいショートヘアは、細身の体に合っている。決して目を引く容姿ではなかったが、すらりとして柔らかな見た目だと、洋子は思った。ずいぶん年齢を重ねてしまっているけれど、これが小学六年の時の同級生の「ゼロ」であることは間違いがなかった。

 「浜さん」
 と、もう一度、怜は叫んだ。そして、左右を確認してから小走りで道を渡った。近くで見ると、怜はやはり年相応の姿をしている。顔はつやつやというわけではなく、ほうれい線も強く出ていた。もしかしたら白髪もあるかもしれない。それでも、小首をかしげながら穏やかに喋る様子は、昔のままだった。
 しばらく怜は洋子の様子を見つめていた。洋子は見られながら、やはりさっきの自分の様子を異様だと捉えられているのだ、と感じた。それは、本当なら洋子のプライドが許さないことだったが、相手が怜であるせいか、それほど感情にさざ波はたたなかった。
 それにしても、どうして自分は赤信号の横断歩道を渡ろうとしたのだろう?
 しかも、大型トラックが目前に迫っているというのにーーそれを思うと、背筋が冷たくなったーー洋子はかぶりを振ると、辛うじて口元に微笑を刻んだ。

 「大山さん。じゃなかった、今は、えっと」
 「高峰。高峰怜」
 簡単に怜は名乗った。結婚しているのは確かだ。ただ、離婚をしていないだけなのだが。

 「パン屋に行ってきたの」
 怜は、洋子が肘に下げているビニール袋を見て言った。洋子はやっと笑った。そして、袋の中から、バターといちごジャムの食パンサンドイッチを出して見せた。そのパン屋は代替わりしているはずなのに、売っているものは、三十年前からなんら変わっていないようだ。怜もそれを見て、小さく声を立てて笑った。

 「おなかすいちゃって。ね、食べない、せっかくだし」
 洋子は怜の腕にそっと触れた。ほっそりして、あまり感情を見せない怜は、マネキンのように冷たいのではないかと思われたが、触れた腕は熱く感じるほど温かだった。
 図書館には駐車場を兼ねたピロティ―があり、そこには丸太でできたテーブルとベンチが三組置いてある。よく部活帰りの中学生がたむろう場所だが、真昼の今は、誰もいなかった。二人は道を渡り、その涼し気なピロティ―の古いテーブル席に隣り合って座った。怜は自販機で紙パックの飲み物を買い、ひとつを洋子に渡した。

 怜はコーヒー飲料を飲んでいるが、洋子に手渡したのはオレンジジュースのほうだ。それでまた洋子は観念した。しっかりと気づかれている。なんら確証もないはずなのに、自分の姿を見ただけで怜は勘付いてしまった。妊娠していることを知られてしまった。たぶん。洋子は黙ってジュースを飲み、いちごジャムのパンに歯を当てた。

 「病院に車とめてるのよ」
 別にきかれていなかったが、洋子は自白した。
 「ちょっと具合悪くて。電話したらすぐ来てって言われてさ」
 昨晩、不正出血があった。ごく少量だが心配になり、通院した。とくに心配ないですよ、出血はこの時期、あることですから。産科の医師は女性で、人気の先生らしい。洋子はほっとした。そして、自分がほっとしていることに、驚愕したーー何をほっとしているのーーお腹の子供が無事であることにほっとしているのだ、自分はーー軽い混乱状態になっていたのかもしれない、洋子は。それで、車を病院に停めたまま、美味しいと思ったことすらないあのパン屋に徒歩で行き、何故か二つも買ってしまった。ぼんやりしていたせいで、交通事故にあいかけたところ、ゼロに救われたのだ。

 高峰怜は、洋子の命の恩人だが、同時に、腹の子の命も救った。
 
 「三十年ぶりだね、今度の水曜日にみんなで集まるんだよね、来るんでしょ」
 怜は言った。洋子は頷きながら、ちらちらと怜の左の薬指を見た。そして、なんで結婚指輪をしていないのだろうと思った。
 「ねえ、なんで」
 しかし洋子は、怜を詮索しなかった。怜を詮索する気にはなれなかった。他の奴はーー例えば岸本ならーーいろいろとかまをかけてでも、詮索をしてやるところなのに。

 「なんで、あなたが『嫌われ組』だったんだろうね」
 ぽつんと洋子は言った。その声は、寂しそうに涼しいピロティ―の中に溶けた。
 「キッシーもモヤシも、なるほどねって思われるような子だったじゃない、悪いけれど。でも、あなたは違う。ねえ、何でなの」
 あのころ、不思議でしょうがなかったのよ、と、洋子は言った。

 どうして怜は『嫌われ組』なのか。あの、殺人犯やらなにやらというのは、田中香織らの創作に違いない。だって、そんなはずがあるわけがないのだ。
 洋子の視線を受けながら、怜は無言でパンを食べた。このピロティ―は居心地がよく、座っているだけで時間が過ぎてゆく。洋子も怜の沈黙に流された。自分が質問したことすら忘れていた。
 しかし怜は、パンを食べ終わった時、「行かないと。姪が図書館の中なの。そこに大友君がいるわ」と言いながら立ち上がった。大友君、という名前が一瞬わからず、洋子はきょとんとした。何秒もたってから、あ、モヤシのことだ、と、信じられないような思いで気づいた。

 大友優という名前だった。きちんとした名前を持っているのだ、あのモヤシが。

 「美味しかった。ありがとう。ね、体、大事にね」
 さりげなく怜は言うと、歩き出した。そしてすっと止まって振り向くと、逆光のせいで奇妙に光る黒い目で洋子を見下ろしながら、怜は言ったのだった。

 「『嫌われ組』の中で、ひとりだけ本当のことを言われていたのは、たぶん、わたしだよ」
 わたしは納得して『嫌われ組』に入ったのーー怜はぽつんと言うと、また歩き出して、図書館に入っていった。どういう意味だろうと洋子は思った。生きている人間である限り、「嫌われ組」に納得して入れられる者がいるわけがない。そんな馬鹿なことがあるわけがない。

 誰であろうと、そんな下らないものに、踏みにじられて良いわけがないのだ、本当は。

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