ひとりたりない

井川林檎

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 悪夢を見ていた岸辺久美は、唐突に響いたスマートフォンのアラーム音で飛び起きた。目を開いた瞬間、視界に飛び込んできたのは白い天井であるーーまだ、見慣れないのだ。まだ、ここを自分の住処として頭が認識していないーー数秒後、久美は落ち着いて自分の状況をひとつひとつ確認し思い出す作業に取り掛かる。ベッドに端坐位になったままで。フォーエルのTシャツがぱんぱんに張っている。そのほかは、ショーツ一枚の姿で就寝した。端坐位になると、嫌でも下腹部や下半身が目に入る。もりあがったおなかはTシャツとショーツの間からはみ出している。それどころか、ショーツは丸く球体に膨れ上がり、もとは小さな蝶を散らした模様だったのが、こうしてみると、まるで蛾の大群が海を渡ろうとしている風景のように見えてしまう。
 見事に太った。上梨に現実逃避に来てから、更に太ったのに違いない。幸い、ヘルスメーターはここにはなかった。

 (そうよ、わたしは上梨に静養に来た・・・・・・)

 まだ、自分の人生は仕事人間として追い詰められていて、下らない男と同棲していて、必死になっても、結局は本当に欲しいものが手に入らないままなのだ。だけど、とりあえず、岸辺の体は上梨町に来ていて休養をしている。心を置き去りにしてしまったーーぼんやりと岸辺は立ち上がった。はらり、と、タオルケットが丸々とはち切れそうな太ももから床にずり落ちた。
 台所で水を飲みながら、岸辺は今見ていた悪夢を思い出した。それは、都会で編集者として働いていて、ろくな奴ではないにしろ恋人もいて、いっぱしの人間として生活していた頃の夢だーーほんの半月前までは、岸辺はそんな人生を歩んでいたのだーー夢の中で、鬱々とした思いや、時折襲ってくる焦燥を抱きつつも、岸辺は生きている。更年期が近いのかもしれない、などと、自分の心理状態を分析し、その日その日をごまかしていた。
 「わたしはわたしがキライ」
 夢の中で、岸辺は繰り返し呟いている。呟きながらも仕事をし、恋人と過ごし、ものを食べ、服を選らび、生きている。大人として。普通の、一人の人間として。ここではもう誰も、岸辺のことをブリッコだの、おたくデブだの、キシ湖の珍獣キッシーだのと笑いものにすることはない。だから幸せなはずなのに、岸辺は常に鬱々としたり、苛々と焦燥を抱いたりしていた。
 仕事ができないくせに、最初から胸を張って正社員として入ってきた新人の五十代とか。
 三日に一度は何かと理由をつけて会社を休む若い主婦パートとか。

 「山田さん、これ、ほんとに校正したんですか。ざっとチェックしただけで、誤字が五つ出てきたんですけれども」
 不完全な仕事を注意するのはベテランの勤めである。こうやって新人や若い人は伸びてゆくのだ。しかし、岸辺はこの行為を楽しんでいた。これはどうしようもなかった。自分を戒めようにも、自分自身のしていることに非はなかった。ネチネチと指摘し、相手の表情が苦し気に追い詰められてゆくのを見て、岸辺はぞくぞくするような快感を味わうのだった。
 「山田さん辞めるってー」
 ある日、岸辺がネチネチと指摘を繰り返した人が退職した。誰もその人を引き止めなかった。むしろ、辞めてもらって助かった、と言う者すらいた。
 「岸部さん大変だったっしょ。山田さんに仕事出してたじゃないですか」
 それどころか、岸辺をねぎらう者すらいた。
 岸辺が弱者を追い詰めて喜びを得ていることを、誰一人としてとがめたり、異様なこととして捉えたりはしなかった。

 (いつからこんな風になったんだろう)
 水を飲んだコップを流しに放りこみ、岸辺は床に座り込む。なにもないアパート。なにもない部屋。散乱したコンビニの袋。この住居はまるで、魔物の巣のようではないか。さんざん嫌なことをしてきて、結局欲しいものを手に入れられなかった自分のような人間のーー欲しいものって何よ、と、岸辺は自問自答するーー行きつく場所、なれの果てのような風景だと、岸辺は思った。
 いや、もともと自分は性格が悪かった。子供のころから誰のことも好きではなかった。「嫌われ組」の面子についても、決して友達だとは思っていなかった。それどころか、自分はこんな奴らと同格ではない、という不満を募らせていた。だけど、こんな汚い感情は自分だけが持っているわけでもないことも勘付いていた。「嫌われ組」の浜洋子など、岸辺以上に凄まじい自己顕示欲を持っていたはずだ。浜洋子に軽蔑され、馬鹿にされていたことくらい、岸辺は分かっていた。
 浜洋子も嫌だったが、一番苦痛だったのは、大友優ーーモヤシ、鼻くそをほじって食べるとか言われていたーーと同格にされたことだった。あいつと同等。あいつと同類。信じがたいこと、許しがたいこと。
 それにしても、いつから「嫌われ組」の四人は集まるようになり、あの、学校の近くの神社でしゃべりあったり、互いの連絡先を交換するまでになったのだろうか。決して仲が良かったわけでもない。友達とも呼べないし、呼びたくもない。

 「トモダチほしいんでしょ、ね・・・・・・」

 にい、と笑う三日月形の唇が脳裏をよぎる。そのとたん、岸辺は全身に粟が立つ。陰気な目が細く開き、真っ黒い瞳が輝いている。(誰だ、これは。誰)しかしそのイメージは瞬く間に通り過ぎ、岸辺は再び、現実に戻る。
 気を紛らわそう、と思いスマートフォンを開く。テレビは購入していないが、スマホで事足りる。ニュースが流れていた。

 「上梨小学校六年女児失踪事件・・・・・・」
 淡々とアナウンサーは喋る。ああまたこれか、と、岸辺は番組を変えようとする。だが次の瞬間、岸辺は目を見開いた。
 「新たな失踪者が出ました」

 大森みらん。上梨小学校六年。また、六年か。また、上梨小か。
 テレビは町の住民たちが近所のコンビニやスーパーに似顔絵を配り、消えた女児の行方を捜す様子が映し出されていた。

 大森みらんがどんなふうに失踪したのか。大森みらんは、先に失踪した早瀬花音と何か関連があるのか。
 そんなことを、岸辺が知るわけもない。岸辺は、自分がどうしてこれほど嫌悪感を抱いているのか理解できないまま、そのニュースに釘付けになっているだけだった。
 分からない。どうしてこんなに気になるんだろう。というより。
 (なんでわたし、上梨に戻ってきちゃったんだろう・・・・・・)
 良い思い出なんか、ほとんどない町だというのに。

 「もうすぐ、ぜんぶ分かるよ」
 どこからか、にやにや笑うような、からかうような声音が聞こえたような気がしたが、岸辺は取り合わなかった。
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