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その5・なんでも、やろうと思えば
その日は午前中だけの講義で、午後からはフリーだった。
梅雨らしいじとじと生ぬるい雨がだらだら降っていて、キャンパスを歩いているだけで肌が粘つくようだった。
黄色の、バカバカしい位派手な傘をさして歩いた。実は、前に住んでいたアパートを引き払う際、なんでもかんでも処分してしまったせいで、しばらく傘なしの生活を送っていたのである。
さすがに、連続三日間雨の日が続いて、まだ晴れないので、とうとう駅前のデパートで傘を買った。
鬱陶しい梅雨時、せめて傘位はおひさま色がいいと思って買ってみたけれど、雨はやっぱり雨だ。ぱしんぱしんと真新しい黄色い傘に、ぬるい大粒の雨が跳ね飛ばされる音は、全然楽しくない。
サンダル履きの足は既に濡れていた。
大学生協の本屋に行こうと思っていたけれど、この雨だから、中止することにした。
せっかく買った本が湿気でしまう。
梟荘に戻ろうかなと思っていたら、携帯電話が鳴った。出てみると、叔母さんだった。
叔母さんから携帯電話に連絡が入ることは、別に珍しいことではない。けれど、その時わたしは、なんとなく嫌な予感がした。母に似ず、全く霊感のないわたしだけど、電話に関しては、虫の知らせがよく働く。
叔父さん、つまり叔母さんの旦那さん、そして、いとちゃんのお父さんに当たる人。
その人が、入院した。今朝、救急車で運ばれたらしい。
「意識はあるのよ。だけど、体が全く動かないの。痛い痛いというけれど、どこが痛いのか分からない」
脳梗塞ではないか、と、叔母さんは、どこか諦めきった落ち着きの中で言った。
まだ検査結果が出ていないらしい。
叔母さん、朝から病院にいるんだろう。取り乱しても、暗く沈んでもいないけれど、電話の声は疲れていた。
人は、本当にどうしようもない局面に立たされると、落ち着かざるをえなくなるものだから。
叔母さんの静かさは、逆に、叔母さんの絶望を予感させる。凄く仲の良いご夫婦だから。
「いとちゃんには伝えましたか」と聞くと、「電話をしても出ないので、ゆめちゃんから伝えてほしい」と言われた。
ふっと、梟荘の廊下にある、昭和の香り漂う黒電話を思い出した。ジーコロ、ジーコロとダイヤルを回してかける電話は、まるで骨董品だ。
明かりとりの窓から差し込む優しい光に照らされて、黒く艶を放っているだろう。
りんりんりん。その黒電話が鳴る。とても重たい、辛い知らせを受けて、黒電話が呼ぶ。りんりんりん。
いとちゃんは部屋に引きこもっていたのか。
それとも、部屋から出てきて、あのジャージ姿で、廊下に立ちすくんで、黒電話が鳴るのをただ眺めていたのだろうか。りんりんりん。
「なにかできることはありますか」
叔母さんが平然としているのに、なぜかわたしの方が涙声になってしまった。
そして、そうかこのうちは、いとちゃんの他にも娘さんが二人いたんだった、いとちゃんのお姉ちゃんたちはみんなしっかりしているから、着替えや色々なものの支度は既に済んでいるのに違いないと理解した。
案の定、叔母さんは優しい声で、いいのよ、いとに伝えてくれるだけで助かるわ、と答えた。
あったかい和やかなおうち、けやき家。
仲の良いご夫婦と、もう成人して働きに出ている、綺麗な娘たち。
急な出来事に、さぞかし驚き心を痛めた事だろう。
「また連絡するね」
と、叔母さんは言うと、電話を切った。
しとしとべたべたと降る雨の、灰色の景色を眺めながら、黄色い傘の下で、わたしは歩みを止めていた。
なんでこんなに寂しいんだろう。物足りないんだろう。
ともあれ、連絡は受けた。わたしが今すべきことは、梟荘に戻っていとちゃんに話すことだ。
早足で歩きだしながら、ふっとわたしは、どうしていとちゃんは電話に出なかったんだろうと思った。単にヒキコモリだから電話に出たくなかっただけとは思えない。いとちゃんほどのコが、叔父さんの入院や叔母さんからの電話を感じないわけがないと思う。
いとちゃんは、全部知っていて、そのうえ、これからどうなるかも見えているのかもしれない。
**
スーパーで買い物をして帰宅したら、もう一時を回っていた。
梟荘に入ると、全体的に薄暗くて陰気な感じがした。
雨は小雨になっていたし、せめて窓位あけようと、風呂場の脱衣場と、縁側のガラス戸を少し開いた。
縁側は濡れていて、砂利が黒く光っている。
ちりん、りん。
音がして、見上げると縁側の軒下に、ガラスの風鈴が下がっていた。透明な球に赤い金魚がプリントされている。
いとちゃんが下げたのか。昨日はこんなものなかったから、今日つけたのだろう。
なにも、こんな雨の日に付けなくてもと一瞬思ったが、脚立を持ってきて、ひょろっとしたがに股の足でそこに立って、真剣な顔で風鈴下げに臨むいとちゃんの姿を思い浮かべると、ちょっと笑えてきた。
すうっと雨のにおいがする風が入ってきた。
風鈴の音を聞いているうちに、わたしの思考は勝手に働いて、いとちゃんが今、どういう気持ちでいるのかを読めたような気がした。
(同じりんりんを聞くなら、黒電話の音よりも風鈴の方が良い)
電話は嫌いなんだな。
いとちゃんは、きっと。
こんなじめじめした日は、思い切って過激な食べ物を食べるのが良いだろうと思った。
スーパーで買ってきたのは、キムチ鍋のスープと野菜、肉である。真冬に使うような土鍋で、ぐつぐつ煮立てて思い切り熱いやつを食べる。
だけど、夕飯の支度をするには、まだ早かった。
買い物をしたエコバッグは台所のテーブルに置き去りになっている。
振り向いた時、暗い和室に、あの真黒な目をして、いとちゃんが立っていたので悲鳴をあげた。
お化けかと思った。
「いとちゃん、あのさ」
と、わたしが言いかけると、いとちゃんはかつてないほどの素早さで「言わないで良い」と、言い返してきた。
いつも通りのぼさぼさの頭と無表情だったけれど、眉がうっすらと寄っていたので、ああいとちゃんは今、機嫌が悪いんだろうなと分かった。
ちりちりと風鈴が鳴り続けている。
いとちゃんはすたすたと歩いてきて、わたしの横に来ると、細く開いたガラス戸に手をかけて、いきなり、がばっと全開にした。雨が入るのも構わずに、いとちゃんはそこに立ち続けていた。空を見上げている。
「実は、全部、思い通りにすることもできる」
ふいにいとちゃんは言った。
振り向かずに、両手をガラス戸に掛けたままで。
わたしは黙ってその背中を見ていた。えんじ色の、ヒキコモリ臭のするジャージの背中。
機関銃のように、いとちゃんは喋った。
「その気になれば、ここにある糸をこんなふうにあんなふうにいじくって、今すぐ第三次世界大戦を勃発させて、どっかの国の核ミサイルのボタンを押して、日本のひとつやふたつ、瞬間的に消し去ることだってできる」
ここにある糸、といところで、いとちゃんは片手をガラス戸から離し、なにかを摘まみあげる仕草をした。だけどすぐに指は見えない糸から離れ、また手はガラス戸に掛かった。
「そっちにある糸を、ちょっと捩じってひっかけてやれば、この町全体が吉原炎上状態になるような、大火事が起きる。そこにあるのは、ほんの少し触るだけで、人ひとりの人生が変わるやつ。そこにあるやつは、もうじき生まれる赤ちゃんの性別が、もう決まっているはずなのに、くるっとひっくり返すことができるやつ。そいつは……」
唾を飛ばす勢いでいとちゃんは色々と並べた。
目に見えない糸を、あいつ、そいつと言い、いとちゃんの首は上に下に横に小さく動いた。多分視線が糸を追って動いているのだろう。
そんなに糸があるのか。
だとすると、見えない糸だらけの世界でわたしたちは生きていることになる。
もしかしたら、知らないうちに足をひっかけたり、ちぎってしまったりしているかもしれない。ならば、何の意識もないうちに、誰かの運命を左右しているのかもしれないのだ。ほんのちょっとした動作、一歩足を前に進めるだけで、自分とは全く関係のない何かに影響を及ぼしかねない。
それにしても、いとちゃんは、その気になればなんでもできると言い切った。
なるほどそうだろうと、わたしは思った。
ちょっと摘まんで引っ張るだけで、その日に起きることを操作できるいとちゃんだ。確かに、やろうと思えばできないことはないだろう。
世界大戦。大災害。人の幸不幸。
(糸を操作できるひとは、いとちゃんの他にもいるんだろうか)
ふっと、わたしは思った。
「ま、そんなことは、しようと思わないんだけど」
いきなりけろっとした口調で、いとちゃんは言った。
そしてガラス戸をぴしゃんと閉めると、わたしに向き直った。言いたいだけ言い放って、すっきりしたような顔をしている。
わたしはできるんだ、しようと思ったらなんだってできるんだよ、舐めるな。
……要は、いとちゃんが機関銃のように喋っていた内容は、そういうことだろう。
いとちゃんは、おとうさんの不幸や、電話連絡を受け入れることのできない自分自身の状態など、今ある現実に対して、啖呵を切ったのだった。
「……しないんだ」
力が抜けた声で、わたしは言った。
できるのに、しないんだ。いとちゃん。
いとちゃんは肩を竦めた。
「育ちが良いから」
と、いとちゃんは言った。
そもそも、糸を操って世界を自分の手中におさめようとするような人間に、糸が見えたりしないのかもしれない。
何となく、わたしはそう感じた。
なにもしない、したくない、透明で無気力な人だから、糸が見えてしまう。糸に触ることができてしまう。
糸のほうも、自分の姿を見せて良い相手と見せない方が良い相手を選んでいるのかもしれない。
「あ、でも、今日はゆめちゃんの糸を少しいじった」
すたすたと歩いて廊下に出ながら、いとちゃんは言った。
「辛くて熱いものが食べたかったから、ゆめちゃんの梅雨時に対する不快感が増すように、ちょっとだけ糸を捩じった」
もし、糸を捩じらなかったら、ゆめちゃんは今夜の夕食を、酢の物にするはずだった。今日みたいな日は酢の物じゃなくて、キムチ鍋が良いと思ったから、そうした。
唖然としているわたしをよそに、いとちゃんは軽く、ごめんね、と言うと、去っていった。
ぱたんと扉が閉まる音が聞こえたから、自室に入ったのだろう。
世界を操ることができる。
もしかしたら、叔父さんの体のことも、思い通りにできる。
だけど、いとちゃんが操るのは、今晩のごはんのことなのだ。
ガラス越しに、りんりんと風鈴の音が聞こえた。
気が付くと、わたしは何故か、頬に一筋、涙を落としていた。
そして、分かった。
叔母さんの電話で感じた、なにか物足りない、悲しいもの。
それは、大事なひとたちの一大事に、自分が参加できない寂しさ。
倒れた叔父さんを側で心配して、電話をかけて、救急車に一緒に乗って。
入院が決まったら準備をして、届けて、医師の話を聞いて。
あったかい、優しい家庭。
だけど、そこにいとちゃんの姿はないのだ。
梅雨らしいじとじと生ぬるい雨がだらだら降っていて、キャンパスを歩いているだけで肌が粘つくようだった。
黄色の、バカバカしい位派手な傘をさして歩いた。実は、前に住んでいたアパートを引き払う際、なんでもかんでも処分してしまったせいで、しばらく傘なしの生活を送っていたのである。
さすがに、連続三日間雨の日が続いて、まだ晴れないので、とうとう駅前のデパートで傘を買った。
鬱陶しい梅雨時、せめて傘位はおひさま色がいいと思って買ってみたけれど、雨はやっぱり雨だ。ぱしんぱしんと真新しい黄色い傘に、ぬるい大粒の雨が跳ね飛ばされる音は、全然楽しくない。
サンダル履きの足は既に濡れていた。
大学生協の本屋に行こうと思っていたけれど、この雨だから、中止することにした。
せっかく買った本が湿気でしまう。
梟荘に戻ろうかなと思っていたら、携帯電話が鳴った。出てみると、叔母さんだった。
叔母さんから携帯電話に連絡が入ることは、別に珍しいことではない。けれど、その時わたしは、なんとなく嫌な予感がした。母に似ず、全く霊感のないわたしだけど、電話に関しては、虫の知らせがよく働く。
叔父さん、つまり叔母さんの旦那さん、そして、いとちゃんのお父さんに当たる人。
その人が、入院した。今朝、救急車で運ばれたらしい。
「意識はあるのよ。だけど、体が全く動かないの。痛い痛いというけれど、どこが痛いのか分からない」
脳梗塞ではないか、と、叔母さんは、どこか諦めきった落ち着きの中で言った。
まだ検査結果が出ていないらしい。
叔母さん、朝から病院にいるんだろう。取り乱しても、暗く沈んでもいないけれど、電話の声は疲れていた。
人は、本当にどうしようもない局面に立たされると、落ち着かざるをえなくなるものだから。
叔母さんの静かさは、逆に、叔母さんの絶望を予感させる。凄く仲の良いご夫婦だから。
「いとちゃんには伝えましたか」と聞くと、「電話をしても出ないので、ゆめちゃんから伝えてほしい」と言われた。
ふっと、梟荘の廊下にある、昭和の香り漂う黒電話を思い出した。ジーコロ、ジーコロとダイヤルを回してかける電話は、まるで骨董品だ。
明かりとりの窓から差し込む優しい光に照らされて、黒く艶を放っているだろう。
りんりんりん。その黒電話が鳴る。とても重たい、辛い知らせを受けて、黒電話が呼ぶ。りんりんりん。
いとちゃんは部屋に引きこもっていたのか。
それとも、部屋から出てきて、あのジャージ姿で、廊下に立ちすくんで、黒電話が鳴るのをただ眺めていたのだろうか。りんりんりん。
「なにかできることはありますか」
叔母さんが平然としているのに、なぜかわたしの方が涙声になってしまった。
そして、そうかこのうちは、いとちゃんの他にも娘さんが二人いたんだった、いとちゃんのお姉ちゃんたちはみんなしっかりしているから、着替えや色々なものの支度は既に済んでいるのに違いないと理解した。
案の定、叔母さんは優しい声で、いいのよ、いとに伝えてくれるだけで助かるわ、と答えた。
あったかい和やかなおうち、けやき家。
仲の良いご夫婦と、もう成人して働きに出ている、綺麗な娘たち。
急な出来事に、さぞかし驚き心を痛めた事だろう。
「また連絡するね」
と、叔母さんは言うと、電話を切った。
しとしとべたべたと降る雨の、灰色の景色を眺めながら、黄色い傘の下で、わたしは歩みを止めていた。
なんでこんなに寂しいんだろう。物足りないんだろう。
ともあれ、連絡は受けた。わたしが今すべきことは、梟荘に戻っていとちゃんに話すことだ。
早足で歩きだしながら、ふっとわたしは、どうしていとちゃんは電話に出なかったんだろうと思った。単にヒキコモリだから電話に出たくなかっただけとは思えない。いとちゃんほどのコが、叔父さんの入院や叔母さんからの電話を感じないわけがないと思う。
いとちゃんは、全部知っていて、そのうえ、これからどうなるかも見えているのかもしれない。
**
スーパーで買い物をして帰宅したら、もう一時を回っていた。
梟荘に入ると、全体的に薄暗くて陰気な感じがした。
雨は小雨になっていたし、せめて窓位あけようと、風呂場の脱衣場と、縁側のガラス戸を少し開いた。
縁側は濡れていて、砂利が黒く光っている。
ちりん、りん。
音がして、見上げると縁側の軒下に、ガラスの風鈴が下がっていた。透明な球に赤い金魚がプリントされている。
いとちゃんが下げたのか。昨日はこんなものなかったから、今日つけたのだろう。
なにも、こんな雨の日に付けなくてもと一瞬思ったが、脚立を持ってきて、ひょろっとしたがに股の足でそこに立って、真剣な顔で風鈴下げに臨むいとちゃんの姿を思い浮かべると、ちょっと笑えてきた。
すうっと雨のにおいがする風が入ってきた。
風鈴の音を聞いているうちに、わたしの思考は勝手に働いて、いとちゃんが今、どういう気持ちでいるのかを読めたような気がした。
(同じりんりんを聞くなら、黒電話の音よりも風鈴の方が良い)
電話は嫌いなんだな。
いとちゃんは、きっと。
こんなじめじめした日は、思い切って過激な食べ物を食べるのが良いだろうと思った。
スーパーで買ってきたのは、キムチ鍋のスープと野菜、肉である。真冬に使うような土鍋で、ぐつぐつ煮立てて思い切り熱いやつを食べる。
だけど、夕飯の支度をするには、まだ早かった。
買い物をしたエコバッグは台所のテーブルに置き去りになっている。
振り向いた時、暗い和室に、あの真黒な目をして、いとちゃんが立っていたので悲鳴をあげた。
お化けかと思った。
「いとちゃん、あのさ」
と、わたしが言いかけると、いとちゃんはかつてないほどの素早さで「言わないで良い」と、言い返してきた。
いつも通りのぼさぼさの頭と無表情だったけれど、眉がうっすらと寄っていたので、ああいとちゃんは今、機嫌が悪いんだろうなと分かった。
ちりちりと風鈴が鳴り続けている。
いとちゃんはすたすたと歩いてきて、わたしの横に来ると、細く開いたガラス戸に手をかけて、いきなり、がばっと全開にした。雨が入るのも構わずに、いとちゃんはそこに立ち続けていた。空を見上げている。
「実は、全部、思い通りにすることもできる」
ふいにいとちゃんは言った。
振り向かずに、両手をガラス戸に掛けたままで。
わたしは黙ってその背中を見ていた。えんじ色の、ヒキコモリ臭のするジャージの背中。
機関銃のように、いとちゃんは喋った。
「その気になれば、ここにある糸をこんなふうにあんなふうにいじくって、今すぐ第三次世界大戦を勃発させて、どっかの国の核ミサイルのボタンを押して、日本のひとつやふたつ、瞬間的に消し去ることだってできる」
ここにある糸、といところで、いとちゃんは片手をガラス戸から離し、なにかを摘まみあげる仕草をした。だけどすぐに指は見えない糸から離れ、また手はガラス戸に掛かった。
「そっちにある糸を、ちょっと捩じってひっかけてやれば、この町全体が吉原炎上状態になるような、大火事が起きる。そこにあるのは、ほんの少し触るだけで、人ひとりの人生が変わるやつ。そこにあるやつは、もうじき生まれる赤ちゃんの性別が、もう決まっているはずなのに、くるっとひっくり返すことができるやつ。そいつは……」
唾を飛ばす勢いでいとちゃんは色々と並べた。
目に見えない糸を、あいつ、そいつと言い、いとちゃんの首は上に下に横に小さく動いた。多分視線が糸を追って動いているのだろう。
そんなに糸があるのか。
だとすると、見えない糸だらけの世界でわたしたちは生きていることになる。
もしかしたら、知らないうちに足をひっかけたり、ちぎってしまったりしているかもしれない。ならば、何の意識もないうちに、誰かの運命を左右しているのかもしれないのだ。ほんのちょっとした動作、一歩足を前に進めるだけで、自分とは全く関係のない何かに影響を及ぼしかねない。
それにしても、いとちゃんは、その気になればなんでもできると言い切った。
なるほどそうだろうと、わたしは思った。
ちょっと摘まんで引っ張るだけで、その日に起きることを操作できるいとちゃんだ。確かに、やろうと思えばできないことはないだろう。
世界大戦。大災害。人の幸不幸。
(糸を操作できるひとは、いとちゃんの他にもいるんだろうか)
ふっと、わたしは思った。
「ま、そんなことは、しようと思わないんだけど」
いきなりけろっとした口調で、いとちゃんは言った。
そしてガラス戸をぴしゃんと閉めると、わたしに向き直った。言いたいだけ言い放って、すっきりしたような顔をしている。
わたしはできるんだ、しようと思ったらなんだってできるんだよ、舐めるな。
……要は、いとちゃんが機関銃のように喋っていた内容は、そういうことだろう。
いとちゃんは、おとうさんの不幸や、電話連絡を受け入れることのできない自分自身の状態など、今ある現実に対して、啖呵を切ったのだった。
「……しないんだ」
力が抜けた声で、わたしは言った。
できるのに、しないんだ。いとちゃん。
いとちゃんは肩を竦めた。
「育ちが良いから」
と、いとちゃんは言った。
そもそも、糸を操って世界を自分の手中におさめようとするような人間に、糸が見えたりしないのかもしれない。
何となく、わたしはそう感じた。
なにもしない、したくない、透明で無気力な人だから、糸が見えてしまう。糸に触ることができてしまう。
糸のほうも、自分の姿を見せて良い相手と見せない方が良い相手を選んでいるのかもしれない。
「あ、でも、今日はゆめちゃんの糸を少しいじった」
すたすたと歩いて廊下に出ながら、いとちゃんは言った。
「辛くて熱いものが食べたかったから、ゆめちゃんの梅雨時に対する不快感が増すように、ちょっとだけ糸を捩じった」
もし、糸を捩じらなかったら、ゆめちゃんは今夜の夕食を、酢の物にするはずだった。今日みたいな日は酢の物じゃなくて、キムチ鍋が良いと思ったから、そうした。
唖然としているわたしをよそに、いとちゃんは軽く、ごめんね、と言うと、去っていった。
ぱたんと扉が閉まる音が聞こえたから、自室に入ったのだろう。
世界を操ることができる。
もしかしたら、叔父さんの体のことも、思い通りにできる。
だけど、いとちゃんが操るのは、今晩のごはんのことなのだ。
ガラス越しに、りんりんと風鈴の音が聞こえた。
気が付くと、わたしは何故か、頬に一筋、涙を落としていた。
そして、分かった。
叔母さんの電話で感じた、なにか物足りない、悲しいもの。
それは、大事なひとたちの一大事に、自分が参加できない寂しさ。
倒れた叔父さんを側で心配して、電話をかけて、救急車に一緒に乗って。
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