糸を読むひと

井川林檎

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その6・就職

 実は、お金に困っているわけではなかった。
 とんでもない母親だけど、おこづかい用に残してくれた通帳には、結構な金額が残されていた。けちなゆめちゃんが、これを無駄遣いすることはないと母は言っていたけれど、わたしじゃなくたって、これだけのお金を使い切ることはできないと思う。

 大学におさめるお金は、母の口座から引き落とされることになっていたし、梟荘に住んでいる限り家賃のことで苦しむことはなかった。
 だから、バイトを辞めてもなんら問題はなかったのである。

 ただ、根っからの貧乏性と言うか、お金が大好きと言うか、わたしは余った時間の使い道に困っていた。
 今まで、暇つぶしでバイトをしていたわけである。たかが暇つぶし、されど暇つぶし。お金になる暇つぶしなら、あったほうが良いと考える。居酒屋のバイトを辞めてから二週間、梅雨時のじめじめの最中、わたしは一生懸命大学生協の掲示板に通っては、良さそうなアルバイトを探していた。

 たまにいいのがあったと思っても、電話をした時点で既に決まってしまっていて、ごめんなさいと謝られる。
 残っているのは、あんまりやりたくないようなアルバイトばかりで、いつまでたってもわたしは無職だった。

 (もったいない)

 だらだらと、大学と梟荘とスーパーのタイムセールを行き来するだけの生活が続いている。
 今年の梅雨は長くて、べちょべちょした雨が常に降っているのも、だらだらに拍車をかけた。
 買うだけ買った履歴書と、大学生協前の照明写真機で撮った犯罪者みたいな顔写真は、いつまでたっても減らないまま、部屋のちゃぶ台に積まれている。

 平日はまだ良い。大学の講義があるから。

 今日のような休日は、とにかく時間を持て余してしょうがない。いつまでも部屋でぐうたらしているわけにはいかないので、Tシャツとジャージに着替えて、梟荘の中を雑巾がけすることにした。
 スーパーに行くまでの間、時間はたっぷりあった。
 梅雨時の梟荘はどこか陰気だ。雨だから、なかなか窓もあけられないので空気も滞っている。
 この際、雨が吹き込んで濡れるのを覚悟で、玄関から台所の窓、トイレ、脱衣所、縁側に至るまで、じゃんじゃんじゃんじゃん窓を開けてやった。
 もちろん自室の扉も全開し、埃っぽい部屋の窓もがらぴしゃんと大きく開いた。

 開いていないのは、いとちゃんの部屋だけだ。
 今日に限って、いとちゃんは朝から部屋に引きこもっている。もう午前の9時になろうとしているのに、今日はまだ姿を見ていなかった。

 「放っておいて」
 とでも、言っているかのような、いとちゃんの部屋の扉だ。
 がちゃがちゃと拭かれたり掃除機をかけられたりするのが、多分嫌いなのだろうと思う。しかし、叔母さんも案じていたけれど、いとちゃんは部屋を綺麗に使っているのか。

 睨みつけても視線を合わせようとしない感じの、いとちゃんの部屋の扉の前で、わたしはふいに、ぞおっとした。
 (この、扉の向こう側)
 覗くのが恐ろしい。とんでもない汚部屋になっている可能性があることに、今になってようやく、わたしは勘付いたのだった。

 毎日かいでいる、いとちゃんの匂い。
 ここのところ、ほぼ毎晩お風呂に入っているし、衣服もこまめに洗っているのだけど、独特のこもったような匂いはいつまで経っても変わらなかった。ヒキコモリのにおいだわ、なんて気楽に思っていたけれど、もしかしたらあれは、とんでもなく汚い部屋の匂いなのではないか。

 謎の部屋の中からは、かさとも音が聞こえなかった。
 いとちゃん、まだ寝ているのだろうか。そう言えばいとちゃんの布団、もうどれくらい干していないんだろう。シーツも洗っていない、少なくともわたしが梟荘に来てからは、一度も。

 (うわー……)

 梅雨時のじめじめで部屋も、さぞ湿気ているだろう。
 なぜかいとちゃんの部屋は北に面しているから、きっと梟荘の中では風呂場と台所の次に湿っぽい場所だと思う。下手したら、きのこでも生えているのではないか。

 (考えないようにしよう)

 ともあれ、バケツに水をくみ、雑巾をしぼって、玄関から奥の和室前までの廊下を、お寺の小僧さんみたいな勢いで、だだーっと拭いた。お尻を高くあげて、前につんのめりそうな勢いで。
 体を動かしていると、なんだか楽しくなってくる。
 雑巾がけは、エアロビに通じるものがある。
 おおまかに雑巾がけしたら、それだけで廊下はつやつやと光り始めた。隅っこを丁寧に雑巾がけしているうちに、頭の中では軽快な音楽が流れ始め、しまいには鼻歌になっていた。

 廊下を雑巾がけした後は、自室と和室に掃除機をかけた。
 幸い、小雨だった。吹き込むほどの強さはない。カーテンがそよぎ、湿気のある冷たい風が、梟荘のいたるところを駈け廻っていた。

 ちりんりんりりん。
 縁側では、ガラスの風鈴がくるくる回っている。
 曇天が重苦しい。雨が上がって来たのか、燕がすうっと飛んでいった。
 地面すれすれに飛んでいる。たぶん、まだ雨が降るのだろう。

 梟荘の中をひととおり綺麗にしたところで、お茶にすることにした。
 急須にお湯を入れて、湯呑を持って、お盆に乗せて縁側まで運ぶ。流石に縁側の板は濡れていたから、廊下に座って外を眺めながらのお茶となった。
 風鈴が少し落ち着いてきたところを見ると、風が大人しくなってきたか。

 久々に体を動かしたので気持ちが良かった。
 熱いお茶を飲んでいると、自然に頭が漠然とものを考えだした。

 このところ「バイトどうしよう」というのが常にある悩み事だったが、なぜかその悩みは浮かばなかった。
 かわりにもやもやと立ち上がってきたのが、「就職活動」の四文字だったのである。

 ザ・四文字熟語。就職活動。
 そろそろ始めなくてはならない。わたしは何になりたいのだろう。
 淡々とした性格のせいで、友達がほぼいなくて、だいたいいつも一人でいるわたしは、学生たちの動きに疎かった。もしかしたら、もう就職のことを考え始めているのかもしれない、みんなは。
 講座部屋になんとなく置かれている公務員試験のテキストやら、集団面接会のパンフレットやら。

 (会社員になるとして、これから一生、そこで勤め続けるんだよなー)
 そう思ったら、いきなりどよーんと気が重くなった。
 社会人になった途端に、こんなに時間を持て余すことなどなくなってしまう。キナキナ時間に追われる日々となる。

 それにしても、わたしはどこから会社に通うのか。梟荘から通うのか。
 履歴書に書く住所は梟荘になるんだろう。このヘンテコな境遇を、面接の人にどう説明すれば好印象に繋がるだろう。

 (そうか、まず、採用試験という関門があるんだった)
 ペーパーテストと面接を受けて、それをパスして始めて内定がもらえるという、重々しくてイヤラシイ一連のこと。
 それを考えただけで、わたしも母を追って、件のおかしな南の島に旅立ちたい気分になる。
 
 必死になって採用試験を受け続けるのだろうけれど、果たしてわたしは本当に働きたいと思っているのだろうか。
 多分、楽しくない職場環境と、一体世の中にどれほど必要とされているのか分からない業務に縛られるために、内定を勝ち取るまで、リクルートスーツで活動しなくてはならない。
 
 (あー、スーツも買わなくては)
 (靴もだ)
 (あー……カバン)
 
 次々に、未だ用意していない必需品が浮かんだ。
 化粧もしなくてはならない。
 髪の毛もきれいにしなくてはならない。
 面接に受かるためのハウツー本も読んだ方がいいだろうか。

 どんどん考えが浮かぶくせに、肝心な、「一体わたしはどの会社に行きたいのか」ということは、完全に置き去りになっていた。

 

 母を思った。
 あのひとは、最初から占い師だったわけではないらしい。普通の真面目な会社で働いていたけれど、ある日辞めて、占い師の勉強を始めた。
 どうして占い師を選んだのか、母がいない今となっては、聞きだしようがない。

 多分、もともと母にはその素質があったのだろうけれど、例え霊感があったとして、人はいきなり、占い師で食べてこうと思い立つものだろうか。
 (ないわー)
 何ら、参考にならない母の人生だった。それにしても、記憶にある母はいつだって楽しそうで、仕事に行きたくないとか辛いとかいった様子は、微塵も見えなかった。

 「好きなように生きればいいわよー」
 とかいう、能天気な母の声が聞こえてきそうだった。
 その能天気さに、苛々する。一緒にいた時は特に考えなかったが、もしかしたらわたしは母と、合わなかったのかもしれない。


 お茶をすすりながら溜息をついていると、背後で、ぷちんと何かが弾かれる気配がした。
 ちょうど、張り詰めた糸が指ではじかれるような感じだ。その瞬間、わたしのぐるぐる回っていた思考はいきなり回転を止め、代わりにしいんとした心地よい静寂が訪れたのだった。

 振り向くと、思った通り、いとちゃんがそこにいた。
 真っ黒い目で、淡々と近づいてくると、「ん」と言って空の湯呑を差し出した。自分にもお茶をくれということか。注いでやると、いとちゃんは勢いよく飲んだ。

 ちりん。


 「わたしもさー、仕事をしようとしていて」
 思いがけないことを、いとちゃんが言い出したので、あやうく口からお茶を噴くところだった。
 就職。いとちゃんが。

 いとちゃんは、わたしの驚きをよそに、生真面目な顔で言葉を続けた。

 「仕事がさ、食べていけるかどうかの問題じゃなくなれば良い」

 言っている意味がわからなかった。
 いとちゃんは空の湯呑をお盆に置くと立ち上がった。

 その黒い目は、わたしの見えないなにかを映している。およそ、現実とはかけ離れた能力を持ち、社会生活とは全く無縁の生活をしているけれど、いとちゃんの足取りはしっかりしていた。

 くっきりした輪郭で、いとちゃんはそこにいる。

 食べていくためじゃない、仕事。
 
 いとちゃんは、唐突にその場を去った。もわんと、ヒキコモリの匂いが残っていたけれど、吹き込んできた風に飛ばされて消えた。

 (いとちゃんは、どんな仕事をしようと思っているのだろう)

 ちりん、りんりりん。
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