糸を読むひと

井川林檎

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その7・かりそめの、極上だしまき卵

 叔父さんのお見舞いに行ってきた。
 
 けやきの叔父さん。
 幼い頃、冠婚葬祭で顔を合わせたことがあったと思う。確か、お年玉ももらったことがあったような。
 けやきのうちと聞いて思い出すのは、いつだって、きちんとした叔母さんと、しっかりした従妹たちだった。叔父さんはいつも、女たちの後ろに隠れて、穏やかに笑っていたような気がする。

 つまり、見舞いにきておいて、当の叔父さんがどういうひとだか、よく知らないのだった。

 梟荘でお世話になっている手前、入院されたことを聞いて知らん顔はできない。話を聞く限り、菓子や果物を食べて良さそうな感じではなかったので、お花を持って行った。黄色いユリ科のおおきな花弁は、ぱっと目立って見ているだけで元気になれそうだ。
 
 病室に入った時、ちょうど叔母さんと入れ違う所だった。
 手提げバックを片手にかけ、ポロシャツとカーディガンといういでたちである。洗濯物を取りに来たらしい。もう片方の手に、重そうな紙袋を下げていた。

 叔母さんはわたしの顔を見ると、ごく普通に微笑んで首を傾げ、あらゆめちゃんこんにちは、ゆっくりしていってねと言った。それはまるで、この病室が自分の家であるかのような言い方で、ああそうか叔母さんにとってこの病室は既に、日常の生活の活動の一部になっているんだと思い知らされた。

 多分毎日、叔母さんはこの病室に来て、洗濯物や、いろいろなお世話をしてゆくのだろう。
 うちで掃除やごはんを作るのとまったく同じ、主婦の仕事みたいになっている。
 叔父さんの状態が、あまり良くないらしいことは推測していたので、叔母さんのその穏やかな落ち着き方が、妙に悲しく切なく迫った。

 「今、眠ったところだから、顔を見てやって」
 と、叔母さんはせっかく病室を出ようとしていたのに再びベッドの横に戻った。
 おそるおそるわたしは近づいて、点滴の管が下がっている狭苦しいスペースに入り込んだ。
 ものすごく顔色が悪く、やせた叔父さんが、半分口を開き、目を閉じて眠っていた。

 なんとも言えない気持ちでその顔を見て、やがてわたしは、おずおずと叔母さんを見た。
 伯母さんはごく普通に笑っていて、時間あるなら一階に休める場所があるからジュースでも飲まない、と言った。
 


 いくつかの自動販売機が壁に並んだそのスペースは、夜間には救急の待合室になるらしい。
 日中の今、そこは売店の隣ということもあって、軽食や飲み物を口にして時間を潰す人たちの溜まり場になっていた。

 青いベンチがいくつも並んでおり、叔母さんとわたしは、真ん中あたりの空いたベンチを占領した。
 紙コップの炭酸飲料を手に、お尻がもぞもぞするような気分で、わたしは座っていた。

 隣でコーヒーを飲む叔母さんは妙に小さくて、もしかしたらトシのせいで縮んだのだろうかと勘繰りたくなる程だった。横顔に刻まれたシワや、疲れ果てたような目の色が、記憶にある叔母さんとは違っていた。
 きちっとして、清潔好きで、おうちの中はいつもピカピカで、神経質なくらい手洗いうがいに気を配っていた。
 優しいけれど、ちょっとヒステリーな感じがある人だった。あの張り詰めた感じが、今は全くない。

 考えてみたら、こうやって側で顔を見るのは、十年ぶりだ。
 子供時代に感じた叔母さんの印象が、ジュースを飲んでいる間にも再構築されている。

 「来てくれてありがとうね」
 と、叔母さんは言った。
 「いいえとんでもありません」
 と、わたしはしゃちほこばった。
 「いとは今、どうしてる」
 と、叔母さんが質問してきたので、「だしまき卵を作りたくなったと言って、朝から台所に籠っています」と正直に答えた。

 だしまき卵。
 今朝、ぼさぼさの頭で起きてくるなり、いとちゃんは言った。

 どうしても作らなくてはならない。今日、満足のいくだしまき卵を完成させられるかどうかで、いろいろと今後、変わってくるんだ。
 ……と、いとちゃんは、真黒な目で、おかしいほど生真面目に言ったのだった。

 (意味が分からない)

 実際、冷蔵庫の中に卵は異様なくらいにあった。
 実は前日、タイムセールで安くなっていて、卵を思い切り買いだめてしまったのだった。タイムセールの時間が押し迫ってくる感じや、どんどん込み合って来るスーパーの雰囲気は、ちょっと信じられない位理性を狂わせる。 
 どうしてこんなに卵を買ってしまったんだろうと、帰ってから冷蔵庫の中を見て、わたしは脱力した。
 (親子丼と、ポテトサラダと、目玉焼きと)
 卵を使う料理のありったけを頭の中で並べて、この恐ろしい程の卵をどうやって消費しようと重たく悩みながら、昨夜は寝たのである。

 断言できるが、いとちゃんは冷蔵庫の中の惨状を見て、だしまき卵作りに使命を感じたわけではない。
 なぜならいとちゃんは、昨晩から朝にかけて、冷蔵庫を覗いていないからだ。つまりいとちゃんは、うちに卵が山ほどあることを知らないまま、だしまき卵を作らなくてはならないと、突然言い出したのである。

 朝、いとちゃんが冷蔵庫を開いて中を確認する姿を、若干うしろめたい気持ちで、わたしは眺めた。
 頭がおかしくなりそうな位、卵だらけの冷蔵庫を、いとちゃんは何と言うだろうかと思った。
 けれどいとちゃんは、卵の無駄買いを指摘することは全くなかった。ずらっと並んだ卵パックを見て、ただ一言、「よし」と言っただけだった。

 「ゆめちゃんが、一生忘れられなくなるような、これを食べるためなら魂を売るくらいの、そんな恐ろしい、至福のだしまき卵を今日中に作って見せる。今日の夕ご飯は卵焼き。主食も味噌汁もいらない。だから買い物はいっさいしないでいい」
 
 じゅー、じゃー。
 嵐のような勢いでフライパンを使い始めたいとちゃん。
 好きにするといい、ただしわたしは、卵だけの夕食は嫌だから、なんかコンビニでおにぎりでも買って来るんだからね、と腹の中で思った。
 病院に見舞いに行く直前も、いとちゃんはだしまき卵作りに熱中していた。
 じゅー、じゃー。
 もうこれでどれくらいの卵が犠牲になったんだろうかと思ったが、まあいい、どうせ卵は山ほどあるんだからと良い方に考えることにした。知っている限り、いとちゃんが料理をすることは、今までなかった。

 (帰宅したら、卵の焼死体が待ち受けている)
 昨日のタイムセールでは、ぴかぴかと照明を受けて誇らしげに輝いていたのに、卵たち。
 叔母さんの横で炭酸飲料のカップを両手で握りしめながら、少し胸が痛んだ。


 唐突なだしまき卵作りのことを聞いても、叔母さんは呆れるでもなく、驚くでもなく、淡々と「そう」と言った。
 その横顔にさす影が深くなった気がして、その時わたしは、叔母さんや、おそらく叔父さん、従妹たちがこれまでどれほど色々なことを悩み、惑い、苦しんできたのかを垣間見た気がしたのだった。

 風変わりな子、いとちゃん。
 叔母さんも、二人の姉たちも、いとちゃんをいつも案じていて、梟荘に住まうようになったいとちゃんを、最初の頃はずいぶん構ったらしい。ヒキコモリになってしまったいとちゃん。玄関の扉をいくら叩いても、いとちゃんのほうから扉を開いてくれることは、なかった。

 立派なおうちがありながら、家族と離れて一人で暮らすいとちゃん。
 そうせざるをえなかった、深くて暗くて、他人には理解しにくい、じれったい事情があるのだろう。

 いとちゃんが梟荘をシェアする相手に選んだのは、自分や姉妹たちではなく、それほど親しいわけでもないわたしだった。ゆめちゃんとなら一緒に住んでも良い、といとちゃんは言った。ちょうどその時、おかしい母親のせいで住む場所を失いかけていたわたしである。不思議な程トントンと同居の話は進み、ごく自然に、わたしは梟荘に厄介になることになった。

 電話にもでないくらい、家族に壁を作ってしまっているいとちゃん。
 以前、わたしは叔父さんが入院したての頃、家族みんなが叔父さんのことで動いているのに、いとちゃんだけが切り離されている様子が切ないと思った。
 だけどもしかしたら、叔母さんや姉妹たちは、心配の種だけど大事ないとちゃんの側にいることを、自分たちは許されていないのに、従妹のわたしがいとちゃんと生活していることを、悲しく思っているのかもしれないと、わたしは思った。

 きっと叔母さんは、唐突なだしまき卵のことも、ああそういうこともあるわね、そういう子だもの、位の気持ちで聞いているのだろう。
 
 コーヒーを飲み干すと、叔母さんはさて、と立ち上がった。そろそろ行くのだろう。わたしも立ち上がった。

 
 「そうそう、姉さんから、連絡はあった」
 別れしなに、叔母さんは言った。姉さん、つまり、わたしの母親だ。
 「もちろん、連絡とかは、一切ありません」
 と答えると、叔母さんは眉を八の字にして、困ったねえ、ああ困った困ったと言った。

 「こんなに良い娘さんを置いて、今どこにいるのかもわからなくて、この先どうするのかも全くわからない」
 と叔母さんは言ってから、いきなりけろりとした口調で「まあ、しょうがないわね」と勝手に結論したのだった。

 病院を出ると、空が恐ろしい程青かった。
 眩しくて目をすぼめるわたしの前を、叔母さんは車に乗って、ぶぶーっと行ってしまった。パートタイムの仕事があるのだろう。

 見るからに容体が悪い叔父さんや、いとちゃんと家族の間の悲しい亀裂や、自分と母親の事を一度に考えてしまい、心の中が靄がかっていた。
 家族はなるほど大事なものだけど、その大事な家族がもしも、自分の理解を越えたひとだったら、どんなに悩ましいか。

 価値観や常識を共有できない相手が、家族。いっそ切り捨てたいけれど、そんなことは、とてもできない。
 だって、家族だから。

 (……やり切れない)

 せめて普通のお母さんだったらなあ。わたしは思った。
 同じ出奔するにしても、行き先が変なスピリチュアルな島じゃなくて、熱海に不倫旅行とかのほうが、まだ理解できるような気がした。
 つまり、わたしにとって母は宇宙人並みにわけがわからないのだった。
 多分、けやき家の人たちにとって、いとちゃんも、宇宙人並みに理解不能なのだろう。

 あーあ。
 溜息が出た。

 だけど病院から出てアスファルトの歩道を歩きだして、足元に黄色いたんぽぽが咲いているのを見て、なぜかわたしは、鮮やかな色の見事な卵焼きを思い浮かべたのだった。

 だしの旨みを含みながらも、卵の美しい色を損なっていない、極上のだしまき卵。
 それは、なんだかとても楽しい、心が躍り出すような妄想だった。

 

 いとちゃんは、だしまき卵作りに成功するんだろうな。
 たんぽぽを横目に眺めて通り過ぎた。
 頭の中に浮かんだ卵焼きのビジョンが、真夏に咲き誇るヒマワリのような爽快感でわたしを満たした。ふわっと、美味しい匂いまで漂ったような気がした。

 
 「ゆめちゃんが、一生忘れられなくなるような、これを食べるためなら魂を売るくらいの、そんな恐ろしい、至福のだしまき卵を今日中に作って見せる」

 いとちゃんは、そう言ったっけ。
 
 歩きながら、わたしは、まだ見ぬ卵焼きを心底食べたくて仕方がなくなっていた。
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