糸を読むひと

井川林檎

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その10・「糸出ゆめ」の、「頑固な目隠し」

 夏が近づくにつれて、バイト欲が増してきた。
 大学生協の掲示板のバイト情報も、このところ面白そうなものがチラホラ見られるようになった。まだ当分、長期バイトをする気分ではないので、主に単発を物色する。
 ごくまれに、興味深い長期バイトの募集があるのだが、何となく踏み切れずにいた。

 もともと人間関係の面倒なのが嫌で、なるべくしがらみを避けてきたわたしである。大学に入ってからも、みんなが楽しそうに参加しているサークル活動も、一切しなかった。なので、わたしはまだ一回も、学生同士の飲み会やコンパとやらの経験がない。

 これは多分、女子大生として、凄く恥ずかしいことなのだろう。いわゆる「非リア」のレッテルを貼りつけられること、間違いがない。

 とにかく、なんら交流の予定のないわたしにとっては、単発バイトはもはや趣味みたいなものになっていた。
 居酒屋でバイトをするよりも、気が楽なのも良かった。収入は確かに減ったけれど、よく考えたらわたしはそれほどガツガツしなくても、お金に困っていないので、なにも無理して人間関係が密になる長期バイトをする必要はないのだった。

 もう辞めてしまった居酒屋のバイトは、一年の時から続けてきたバイトだった。
 やっている間は、卒業まで続けるつもりだった。短期バイトでつないでいる人がたまにいて、それを見るにつけ、よくあんなに面倒くさいことができるもんだ、とか、遊び半分だろうとか、小ばかにしているところがあった。
 自分の中で、長期バイトをしているほうが、短期バイトをつないでいるよりも、なんとなく上級のような気がしていたのかもしれない。

 しかし、居酒屋バイトをしている時は、むしろ苦痛だった。
 ああ、明日もあの時間になったらバイトか、と常に頭のどこかで思い続けている。しかも、ホールのバイト仲間も、社員さん達も、全員が好きな感じではなかった。むしろ、だいたいが苦手なタイプで、無理しながら笑顔で応対していたような気がする。

 いつの間にか、自分の中の、長期バイトと短期バイトに対する拘りが消えていた。それで、もっと楽で、自分に合っている方を――つまり短期バイトのつなぎ方式を――選択することができたわけだ。
 (今まで、どうしてこっちを選ばなかったんだろう)
 と、過去の自分を思い返す度に、自分の事ながら、新鮮な驚きを味わう。なんでも、拘りを捨てることができたら、世界ががらっと変わるものなのかもしれない。

 短期バイトをつないでお金を作るようになってからは、人生が若干、楽になったような気がする。
 そして、わたしは気が付くと、自分が何が苦手で、何が楽なのかを、しょっちゅう考えるようになっていた。
 今まで、それをよく考えもせず何でも見栄えだけで選んで、結局苦しい思いをしてきたことが、最早神秘的なまでに驚きだった。もしかしたら人は、生まれ育ちや、もともとの性質によって、生きながら目隠しを何枚も重ね付けしながら道を歩いているようなものなのかもしれない。目隠しが薄い人もいれば、ぶあつい人もいるのだと思う。

 (梟荘に来てから、目隠しが幾分薄くなった……)
 と、わたしは思う。

 あの、どうにも理解できない母の庇護下から強制的に出され、良心の存在を思い起こさせるような圧力などまるでない、のんべんだらりとした、いとちゃんとの生活に入り込んでから、わたしは随分変わった。

 かといって、いとちゃんが、地に足の着いた「普通の」ひとであるわけでは、決してなく、むしろ母と同じ種族のフシギ系であるのは、疑う余地もなかった。

 家族という切っても切れない関係だったからこそ、わたしは母の、あの理解に苦しむスピリチュアルワールドが辛くてたまらなかった。しかも母は、勝手に信仰していれば良いものを、そのわけのわからない理論やら直感やら占いの結果なので、わたしまで振り回すところがあった。おまけに、振り回された結果、なんとなく良い方向にものごとが流れていたりすると、いたたまれなさは倍増した。

 「ほら、ね。言った通りでしょ。目に見えるものだけで構成されているわけじゃないのよ、世界は」
 むしろ、目に見えないものが占める割合の方が高いの。ね、わかるでしょ。
 ……。

 母の言い分が現実の現象で示されるたびに、わたしはますます意固地に「誰がそんなもん信じるか」と心を固めたものだ。
 母がキラキラして楽しそうでおおらかであればあるほど、そんな変わった母とボロアパートで生活しているのが実は気楽で居心地が良いのだと実感するほど、わたしは意固地に、意地悪になっていった。
 「死んでも『あっち側』にはいかねえ」
 と、わたしは歯を食いしばってそう思い続け、ついに母の進む道との分かれ道に来たわけだ。

 母はおかしなスピリチュアルなバリ島ちっくなマイナーなアイランドで、今日も変な踊りを踊っているのかもしれない。仲間たちと一緒に生きることを賛歌し、なんでもいいからそこにあるものをとにかく歓び、出会う人から「やばいのキタ」という顔をされることすら嬉しがり、もしかしたら不意の事故が起きて命を失う羽目になったとしても、大喜びしながら死んでゆくのかもしれない。

 (いや、オカシイからそれ、ほんとうにオカシイ集団だから)

 短期バイトが終わり、ふうっと気が抜けてお風呂に入っている時など、たまに思考が変な方向に回ることがある。
 母の事に思いを馳せる時間が増えたようだ。ちゃんちきりんこんと、あの印象的な音楽が耳の奥で渦を巻いているような気がする。だけど幸いなことに、わたしは根本的にスピリチュアルに浸りきれない体質に生まれついているらしく、「あー、いいな」と思いかけた瞬間、ぎょっと我に返り「いやいやいや、しっかりしろ」と自分で自分を叱咤することができていた。

 いとちゃんと生活を共にし始めてから、目に見えないものを知ったら世界はもっと広くて彩が豊かで、生きるのが楽になるのかもしれないと、ちょっぴりでも思うようになった。
 だって、いとちゃんが梟荘の中だけとはいえ、ヒキコモリの部屋からわたしの前に姿を現すようになってから、なんとなく不思議なことがぽつぽつ起こるようになった。
 
 (物事は、全て糸で繋がっている……)

 いとちゃんには「糸」が見えていて、しかも操ることができる。
 それにどうやら、「糸」はそこらじゅうに散らかっているらしい。
 たるんで垂れ下がっていたり、ぴいんと張り詰めていたり、絡まったり、途中で切れていたり。

 いとちゃんは見えない糸をつまみあげ、ちょちょいと軽く引く。
 それで物事の流れが変わってゆく。
 
 妄想かもしれない。
 いとちゃんはやはりおかしい人で、わたしはいとちゃんに毒されかけているのかもしれない。
 わたしにはまだ、わからなかった。

 **

 ちょっと実入りの良い短期バイトが終わり、お金が入った。
 いつもなら貯金に回すのだけど、その時に限り、何となく買い物がしたくなった。

 銀行通帳の数字に気を良くして、久々に町に出て、さあなにを買おうと思った。買わなくてもいい、懐が豊かな状態でウインドウショッピングを楽しむのも、なかなか乙なものだ。
 なにを買う訳でなくても、お金があるのとないのとは、大違いだ。
 (だから、お金は大事なんだよなー)

 今日も暑くなりそうな青空の下、町はものすごく楽しそうに見えた。これから特別なことが起こりそうな予感があった。
 ふいにわたしは、今日の買い物が凄く大事なことのように思えた。

 (ああ、そうか)

 まるで測ったかのように、足を止めた時、目の前に家電屋さんがあった。
 今日は日曜でも祝日でもなかったけれど、家族連れが楽しそうに出入りしている大型家電店だ。
 青空に向けて、家電屋さんの建物は銀色に輝いていて、なにかその中に、すごく良いものがあるような感じだった。

 ふらふらっとわたしは家電屋に入り、そしてそこで出会ったその品物を、ふらふらっと買って、ふらふらふらっとお店を出たのだった。
 かなりの大金だったし、そんなものを自分が購入するなんて、今まで思ったことがなかった。
 そりゃあ、今の時代、持っているのが普通だけど、梟荘にも古いものがあったし、調べものをする時は、それを使えば事足りた。

 熱に浮かされたような買い物をして、ぼんやりして梟荘に帰った時、やっとわたしは、自分がなにを買ったのか、おかげで短期バイトでためたお金が華やかに飛んでしまったことを悟った。

 (あれまあ)
 と、わたしは、台所のテーブルにそれを乗せ、段ボールを開きながら、自分で自分に呆れた。
 それはメタルオレンジの美しい品で、最新型ではないけれど、とても薄くて軽いノート型だった。

 自分専用のパソコン。
 それがあれば、気兼ねなく自分のメールアドレスを作ったり、履歴を気にして検索を遠慮したりすることがなくなるだろう。確かに必需品だった。

 だけどわたしは、一体どうして今更、メールアドレスが欲しいと思ったり、自分専用の通信機器が欲しいなどと思ったのだろう。一学生の身分で自分専用のパソコンを買うなんて贅沢だ、お金は貯めるためにあるんだ、高いモノはいらないと、今まで頑固に思い続けてきたというのに。
  
 (いざ入手してしまったら、買って良かったとすら思えてくるから不思議だよな)
 未だ、使っていないというのに。
 
 何らかの作用が働いて、おそらくわたしの「目隠し」が、一枚、ぺろんと剥がれた。
 きっとパソコンを買ったのは、良いこと。


 お昼が近い。
 わたしはのろのろと、パソコンが入っていた箱を片づけ、改めてその美しい品を眺めたのだった。
 マイパソコン。これから相棒となる奴。

 (この衝動買いは、後に起きる何らかの出来事と、糸で繋がっているのだろうか)
 と、わたしは思わず考えてしまった。
 (明らかに、いとちゃんに毒されてるなー)

 じゃーっとトイレの水が流れる音がして、とんとんと足音が近づいた。
 台所の玉のれんがじゃらじゃらと揺れて、ぬうんといとちゃんが顔を突き出し、お昼はなんだろうと陰気に言った。
 そのぼさぼさの汚い頭、匂いが染みたジャージは、見るからにヒキコモリであり、実際に見たいとちゃんは、決して特殊なオーラを放ってはいない。

 (考えないでおこう)
 と、わたしは衝動買いと「糸」のことを考えることを止めた。
 それよりも今は、このパソコンを使えるように設定しなくてはならない。その膨大な作業を頭の中で組み立てなくてはならない。

 「なにが食べたいの」
 いっぱいついてきたインストール用のソフトを睨みながら、わたしは言った。
 
 「そうめん」
 と、いとちゃんは答え、じゃらんじゃらんと玉のれんを弾いて首を引っ込めたのだった。
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