糸を読むひと

井川林檎

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その12・見るからに、おかしいけれど

 その子は、滅多に講義に現れなかった。
 単位をとる気もないらしくて、だらだらと留年を続けているという。
 たまに、ちらっと見かけることがあったが、いつもだるそうで、講義が始まってからやっと入って来て、頬杖をついて眠っていた。色が白くて小柄で、きつい目つきをしている。留年を繰り返しているのだから、年齢はわたしよりも上だが、童顔で、醸し出す雰囲気が乙女っぽくて、年上という感じはなかった。

 彼女は、しいちゃんという。
 しいちゃんと言葉を交わすようになったのは、つい三日ほど前からだ。その日に限って、しいちゃんは講義が始まる前から机にスタンバイしていて、ぶあついテキストを無感動そうな目で、ぱらぱらめくっていた。
 白い頬にかかるセミロングの髪の毛が淡い影を作っていた。ちょうどその席は窓際で、逆光になっていた。

 わたしはいつも、人より早く教室に入る。後ろの席にこそっと座り、俯きながら講義が始まるのを待つのだ。
 この待ち時間は苦痛なもので、ひとりまたひとりと、楽しそうな学生たちが集まってくる空気は、どんどん圧迫感が増してゆき、体が縮こまるようなのだ。
 在学して2年目。
 わたしに学友と呼べる人は、未だいなかった。

 最初、彼女がすでに席についているのを見て、ぎょっとした。窓際の最後席は、わたしのお気に入りの場所だったからだ。
 それで一瞬考えた。
 彼女の隣に座るべきか、別の列に行くべきか。だけど別の列の最後席は、件の派手で傲慢なひとたちが占領していたから、下手にその領域に侵入するべきではなかった。
 それでわたしは無言のまま彼女の隣に腰を下ろし、軽く会釈をした。

 彼女は顔をあげ、じっとわたしを見つめて軽く微笑んだ。
 「今日はどのへんやるの。わたし全然わかんなくて」
 と、彼女は適当に開いていたテキストをわたしに向けた。可愛い声だった。
 なんら威圧感はなく、親しみのもてる表情と喋り方で、わたしはごく自然に今日やるはずのページを教えてあげることができたのである。

 それが、しいちゃんと始めて関わった瞬間だ。
 たった三日前だったのに、もうわたしはしいちゃんと電話番号やメールの交換をしてしまったし、ごはんを食べる約束までしている。
 心の中に、しいちゃんが住んでしまっている。

 まるで、大親友のように。

 もともと友達は少ない方だ。
 高校のクラスメイトだって、単にクラスで一人でいることを避けるために、なんとなくつるんでいた感じだったから、そんなに愛着はなかった。連絡など、もちろん取り合っていない。みんな県外に行ってしまったから、多分、よほどの偶然が重ならない限り、顔を合わせる機会は今後ないだろう。

 同じ高校からこの大学に来た人は何人かいるが、基本、交流しなかった。
 たまになれなれしく声をかけてくる女子はいたが、そういう子はたいてい、一人でいるのが面白くないのでその場限りの相手を求めているか、あるいは「この変わった子をネタにしたい」という狙いで、楽し気な仲間を引き連れて、取り囲むように絡んで来る――要するに、友好的な関りはなかった。

 「糸出さんだよねー、3年2組だった」
 と、薄笑いを浮かべて寄ってくる人には、素早く警戒した。
 「わたし、あなたと喋ったことないんだけど」
 と、答えてやると、そういう人は泣きそうな顔になって「えっ、ねえ、糸出さんわたしのこと忘れちゃったの」と狼狽えるのだった。
 
 (忘れるも何も、ほんとうに高校在学中に、喋ったことなかったじゃんよ)
 人間は思い込みの生き物で、自分勝手だ。

 自分がその人を知っているからと言って、相手が自分の事を認識しているとは限らない。それは当たり前の事なのに、心の底で相手の事を下に見ていたら、相手が自分の思うように反応してくれない事が理不尽に感じるものだ。
 
 「ねっ、同じ高校だったじゃん、糸出さーん。占い師のおかーさん元気ぃ」
 とか言って寄ってくる人に対し、その人のプライドを考慮して、まるで旧友のようにふるまってやるべきなのかと、一瞬、惑う事がある。相手はそれを求めている。そして、それに応じてやらなければ、無駄な軋轢を産み、勝手に敵に回るのだろう。

 だけどわたしは、そういうボランティア精神には恵まれていないので、結局つっけんどんに、本当のことを言うだけだった。
 
 「誰あなた。名前も知らない。なんで声をかけてくるの」

 (めんどくさいなー)
 よく、大人しめの子で、人間関係やら、誰それの態度が怖いとかで、くよくよ悩んでいる子がいるけれど、わたしはそういうのが嫌だった。しがらみの中で生じる、そんな悩み事は、たいてい自分が選択した末に届いたお土産だった。
 (そういう人たちと仲良くするからじゃん)
 と、わたしは腹の中で思っていたし、自分ならそういう悩み事は耐えきれないと思った。もしサークルなどに入り、その中でぐちゃぐちゃと人間関係で悩むようになったら、気持ちが悪くて病んでしまうだろう。

 わたしが人付き合いを嫌うのは、コミュ障だからというだけではなくて、そういう気持ち悪さを回避したいからなのだった。

 食堂でも、講義でも、ぽつん。
 一人でいることが当たり前だ。
 堂々としている、オトナ。一人でごはんを食べることができる女子の事を、そう評価する人がいるらしいけれど、わたしのは単に、精神的ヒキコモリだ。

 (ああそうか、いとちゃんと相性が良いのは、同類だからなんだ)

 いとちゃんが完璧ヒキコモリなら、わたしは精神的ヒキコモリ。
 実は、大して差はないのだった。



 しいちゃんが、サボリ常習犯であるだけではなく、ちょっと変わった子であることを知ったのは、その、最初のコンタクトのあった講義の後だった。
 講義が終わり、わらわらとみんなが退席してゆく中、しいちゃんはだらだらとテキストをしまっていた。
 なにか名残惜しそうだったので、わたしも釣られてだらだらとしていた。
 例によって、派手派手キラキラ中断が出口のところで賑わい、出にくいことも手伝って、みんな出て行ってしまった後も、わたしは席で俯いていた。

 白いレースのノースリーブを来て、無造作にセミロングの髪を下ろしたしいちゃん。
 ふっと切れ長の目でキラキラの女子たちを眺めると、低い声で言った。

 「悪霊がいる。わかる、ほら、あの紫のバッグの子に憑いている」

 一瞬、聞き間違いかと思った。
 無言でいると、しいちゃんは言葉を続けた。

 「あの人たちに関わらない方がいいよ。水子の霊が何体か憑いている。誰かおろしたんだと思う」
 
 ちらっとしいちゃんと目が合った。
 その瞬間、わたしは確信した。このひともまた、フシギ系の変人なのだと。
 (うわー)

 変人ホイホイの宿命、なんて言葉が頭をよぎる。もはや逃れようがないのか。わたしは絶望しつつ、それでも、もしかしたら友達になれそうな予感には勝てなかった。友達ができるというのは、自分では思ってもみなかったほどに甘美で誘惑的で、抗えないものだった。

 しいちゃんの醸し出すミステリアスでどこか強い感じに、くらくらと酔ってしまっていたのかもしれない。

 「糸出さんは、見える人なんじゃないの」
 と、しいちゃんはついに言った。
 わたしは答えに窮した。いわゆる「霊感」は、わたしにはない。

 「わかるでしょう、なんか嫌な感じがするの……」
 と、しいちゃんは「見える」ことから「感じる」ことに、レベルを下げてくれた。それでようやくわたしは、嘘をつかずに「そうだね」と答えることができたのだった。

 「やっぱり、糸出さん、仲間だった。三人目の戦士よ」

 と、しいちゃんは嬉しそうに言って、自分から連絡先を差し出してきた。その笑顔があまりにも無邪気で綺麗で、わたしは見惚れてしまった。

 仲間だの、戦士だの。
 冷静に考えれば、おかしいこと、この上ないはなしなのに。

 「ゆめちゃんって呼んでいい。わたしはしいちゃんでいいよ。もう一人ね、やーやちゃんがいるんだけど、もう働いていて、会うのは夜。ねっ、今度三人でごはん食べない。これからの戦いについて話し合わなくちゃ」

 しいちゃんの目は釣り目。黒目がちで、色白の肌に生えていた。
 わたしはそのまま、絡めとられるように、しいちゃんにアドレスを差し出していた。

**

 梟荘ではいとちゃんが相変わらずジャージで過ごしていた。
 暑くなってきたのに、万年ジャージである。他に服はないのかと思う程、毎日ジャージだ。

 ごはんを一緒に食べ、会話を交わし、まるで空気のようにそこにいるのが当たり前になっていた。
 
 いとちゃんはどうやら、夜なにかをしているらしくて、寝不足の顔をするようになった。だけどごはんだけはちゃんと食べに来るので、日中、寝て過ごしているわけでもない。
 ごく淡々としているので見た目の変化はなかったが、日によってぴりぴりしていたり、逆にほんわかしていたり、微妙な感じがした。

 (いとちゃん、何をしているんだろう)

 閉め切られた、いとちゃんの部屋の扉。
 わたしは未だ、そこに入ったことがない。
 ごそごそと中でいとちゃんが動く気配はするのだが、一体どんなことになっているやら分からない。ヒキコモリの部屋だから、相当なことになっているかもしれない。下手したら虫やら黴やらキノコやらで、見たことを後悔するほどの地獄絵図かもしれなかった。

 いとちゃんのジャージに染み込んだ、ヒキコモリの匂いは常に同じだ。
 もわっとして病的だ。
 部屋の中が綺麗なわけがない。わたしは確信していた。

 (いつか掃除に入ってやる……)
 いとちゃんのお目付け役として、梟荘に安く住まわせてもらっているのだ。叔母さんは相変わらず叔父さんの世話に奔走していて、最近連絡が取りづらい。しかし、いとちゃんのことを心配していないわけがないのだ。

 それにしても、いとちゃんは何をしているんだろうか。

 晩御飯を食べて、お風呂に入って早々に部屋に引きこもってしまったいとちゃん。
 さっき台所を出ていったばかりの玉のれんが揺れている。洗い物を済ませて、わたしもお風呂に向かう事にした。

 前ならいとちゃんのことが気になってあれこれ考えていたかもしれない。けれど今、わたしの頭をしめているのは、しいちゃんだった。明日、しいちゃんと、その「もう一人の仲間」とやらと、ごはんを食べる約束をしたからだ。
 だから明日は、夕食を作り置きして行かねばならない。
 外食するなんて、梟荘に来て以来のことだった。

 
 (そうだ)

 わたしはテーブルの隅に置いてある、自分専用のノートパソコンを立ち上げた。
 あの「糸を読むひと」について調べてみたのだが、件のサイトがなかなか見当たらないままだった。あの短期バイトの女の子の話では、結構有名なサイトらしかったけれど、わたしの検索にはひっかかってこないのだ。

 代わりに、大型掲示板のスレッドで「都市伝説」のカテゴリで、「糸を読むひと」というワードが見られた。
 おおむね、あの女の子が言った通りのことが書かれていて、メールを送ってもなかなか反応がもらえないようだ。
 
 (どこかにリンクが貼ってないかなあ)

 なんとなく、掲示板のスレッドをスクロールさせていたら、それらしいものを見つけることができたのでぎょっとした。
 それをクリックすると、外部サイトに繋がる旨の注意書きが出てきた。さらにクリックして、やっとその謎のサイトにたどり着くことができたのだ。

 群青色の画面。
 

 「あなたの糸、整えます」

 赤い明朝体の文字が、ゆっくりと現れた。
 まるでホラーのようなホームページだ。

 ぼんやりと眺めながら、その本格的な作りに、感動していたのである。

 (やるじゃん、いとちゃん)

 どういうわけか、わたしには、「糸を読むひと」はいとちゃんだと、心のどこかで分かっていた。
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