糸を読むひと

井川林檎

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その14・誰がために、「糸」は操られる

 待ち合わせた駅前に、時間ぎりぎりで駆け付けたのに、しいちゃんも、しいちゃんの仲間とかいうやーやちゃんらしいひとも来ていなかった。宵の口でにぎわう駅前の噴水前で、わたしは一人で道を眺めた。

 行き交う自動車はライトを微灯から、そろそろ強い光に切り替えようとしている。薄闇が墨汁を流し込んだように空気に溶けており、車たちは深海魚のようだった。
 空には赤味と昼間の青空が残っていたが、その僅かな縞はまもなく濃紺の群青に包み込まれようとしている。
 今日に限って、大学の講義は一日ぎっちり詰め込まれていた。最後の講義を受けて、「梟荘」に戻って、暑かった昼間かいた汗を軽く流し、着替え、冷蔵庫の筑前煮を温め直しておいた。

 (いとちゃんは、今頃ひとりで筑前煮を食べているのだろうな)
 味見したけれど、美味しくなっていたと思う。
 そう言えば、いとちゃんは部屋に籠って出てこなかった。暗くなってきて、おなかが減ったらそろそろ出てくるのではないのかな。

 携帯を覗くと、約束の時間が15分すぎていた。
 行き交う人々の中に友達の姿がないか目を凝らしていたが、そろそろ辛くなってくる。

 しいちゃん、今日は講義に出てこなかった。というか、あの時講義に出てきたこと自体が珍しいのだ。欠席が当たり前、留年が当たり前、いったい何をしているのか分からないけれど、大学に対して執着がないひと、しいちゃん。

 
 しいちゃん。
 白い肌をして、小柄な体で、黒い目で、いきなり霊だの不思議な仲間だののはなしを始めるひと。
 わたしにそんなはなしを突然してきたのは、よほど気に入ったからだと思う――おかしいな、確かに今日、この時間に待ち合わせだよな。

 噴水が背後でザーザー音を立てていた。
 ライトアップが始まっていて、ふわっと紫やピンクのネオンが腕にさしこんだ。
 待ったー、ううんいま来たとこ。楽しそうな声があちこちで聞かれ始める。みんなが、待ち合わせに使う場所、駅前の噴水。ザー、ザー。美しいライトアップ。夏の晴れた夜、お祭りのように楽しそうだ。

 携帯をもう一度見た。
 30分すぎている。なんの連絡も入っていない。
 
 結局、1時間たっても、しいちゃんは現れなかった。
 それでわたしは、教えてもらったメールアドレスに「待ち合わせに来たけれど、もう遅いから帰ります」と送って、とぼとぼと帰宅したのである。

 梟荘へ。

**

 とぼとぼと歩いていると、男の人にぶつかられた。
 明らかに酔っていて、癖の悪そうな人だった。ねーちゃんおいこら、ちょっとつきあえま――腕を取られそうになって、ひやっと恐怖を覚えた。
 「わあっ」
 叫びながら振り切り、人ごみの中を駆けた。

 つまづいた。ころんだら、すりむいて酷く痛んだ。手をついたので掌も切れたし、お出かけ用で、滅多に使わない革のポシェットも擦れて傷ついた。おまけに水たまりがあったから、派手に汚れたようだ。

 (ぎょっ)
 (なにやってんだこの女)

 今から楽しく仲間たちと飲み食いしようとしている集団の中に突入してしまっていたらしい。ざわざわとした視線が、無様に転んだわたしに集中した。
 わたしは立ち上がると、早足で歩きだした。

 美味しいものを食べたり、遊んだりすることを目的とする人波とは別の方向へ、ひとりで歩くわたしは、とても惨めだった。気が付くと涙が込み上げていて、今にも本格的に泣いてしまいそうだった。

 この期に及んでわたしは携帯が鳴らないか気にしていた。
 ゆめちゃんごめんね、ちょっと体調が悪くて昼間寝ているうちに時間が過ぎちゃってて、待ち合わせに来れなかったの。もう帰っちゃったって、残念だな。じゃあ今度は埋め合わせに別の日にしようね。ほんとうにごめんね。また講義で逢おうね。友達だもんね――そんなメールが来るんじゃないかと、文面まで勝手に妄想しながら、俯いて前のめりになりながら、わたしは歩いた。

 妄想は止まらなかった。
 もしかしたら家族に急なことがあって、誰かに連絡をする余裕などなかったのかもしれないじゃないか、しいちゃん。その場合はこうだ――ゆめちゃんごめんね、ママが倒れて救急車で運ばれたって連絡が入って、朝からずっと大変だったの。本当にごめんね、埋め合わせはまた今度必ずするからね――自分の心を救い上げるための妄想は、走り続けていた。

 そうだ。
 いくらでも考えられるのだ。ひとが誰かとの待ち合わせを反故にする理由なんか。
 
 少しずつ人波が引いて行き、閑静な道にさしかかるころ、わたしはようやく落ち着いて来た。
 足取りもゆっくりとしてきて、何度か大きく深呼吸すると、やっとのことで、強張った顔がいつもの「糸出ゆめ」に戻ったようだった。

 住宅街の空はいつもと何ら変わりなく、ぽっかりと三日月がチーズ色に輝いている。
 電線が濃紺の中にまぎれていて、黒い糸のように緩んでいた。ばちゃばちゃと音がしたと思ったら、蝙蝠が目の前を過ったらしい。ひらひら遊ぶように舞う後姿を見送ると、わたしはひとつ、溜息を落とした。

 膝小僧がじんじんしている。触るとぬるっとしているので、血が流れているんだろう。
 一応、一張羅のお洒落着だが、転んだりしたもんだから、破れたり汚れたりしているのではなかろうか。
 革のポシェットにキズが走っているのは、さっき一瞬目に入ってしまっていた。随分前に買ったものだけど、滅多に使わないからほぼおろしたてだ。

 結構な被害だと思った。
 この時わたしは、しいちゃんに対し、もどかしい怒りを感じた。未だ携帯に連絡が入らない。今何をしているんだろう、しいちゃん。

 とぼとぼ歩いて「梟荘」の前に来た時、オレンジ色の明かりが窓から漏れているのを見て、どっと疲れが込み上げた。思わず涙まで込み上げそうになったが、とんとんと足音が玄関に近づくのを察して、それは堪えた。

 わたしの気配を察して、いとちゃんが駆けつけてくれたらしい。
 ピンポンも鳴らしていないのに、がちゃっと鍵があいて、ぬうんといとちゃんが顔を出した。

 いとちゃんは別に驚いてもいないようだった。ぼろぼろのわたしを上から下まで眺めると、淡々と、うわあ酷いなと言った。ただ事実を述べている口調だ。その平坦な感じが、なぜかとても救いに思えた。

 わたしは中に入った。
 平気を装って、筑前煮食べた、と言った。まだ食べてない、という返事が返って来たけれど、それを感じている余裕はなかった。
 いとちゃんが玉のれんを掻き分けて台所に入ってゆくのを背後で感じながら、わたしは自室に飛び込んだ。
 真っ暗な部屋の中に走り込むとベッドに突っ伏して、しばらく気持ちをおさめた。友達、友達、という言葉が頭の中を巡っており、本当なら今頃はお洒落なお店で楽しい時間を過ごしていたはずだという妄想が更にわたしを苦しめていた。

 どんな会話をするはずだったんだろう。
 やーやちゃんはどういう人なんだろう。
 しいちゃんともっと仲良くなれたのかな。
 ごはんを食べた後、カラオケに遊びに行ったりしたのかな。

 怒涛のように妄想が押しかけてきて、思わずわたしは泣いた。
 声を押し殺して泣いた後、ふろ場にいき、泥まみれの服を脱いでシャワーを浴びて、ついでに顔もよく洗ってから、部屋着に着替えた。

 明日も講義がある。
 しいちゃんも取っているはずの講義だ。来るだろうか。来たら、どんなふうに顔を合わせるのだろう。どうしよう。
 怒る甲斐性が自分にないことを、その時になってやっと知った。

 そうか、わたしは人から約束を反故にされても怒ることができないんだと知った。
 それは惨めな発見だった。

**

 そのまま部屋で寝てしまおうかと思ったが、台所から漏れているあたたかな光や、もわっと流れてくる美味しそうな匂いがわたしを引き留めた。
 泣いた後の、すんすんする鼻を、台所に向けた。
 玉のれんのむこうに、いとちゃんがいるはずだ。

 惨めな気分を引きずって誰かと一緒に過ごすのは拷問だ。
 だけど、いとちゃんなら。

 わたしは抗えず、台所に入った。このまま一人で部屋に籠っても、辛くて眠れそうになかった。おまけにわたしは、携帯を肌身離さず持っているのだった。今にもしいちゃんから連絡が来るのではないかと、まだわたしは思っていたのである。

 ふらふらっと玉のれんをくぐると、いとちゃんがガスコンロに向っていた。
 筑前煮を温め直し、お皿によそっている。振り向いたいとちゃんは、二人分のお皿を持っていた。

 いとちゃんは無遠慮に泣きはらしたわたしの顔を見ると、ことっとお皿を席に置いた。
 「ごはんは」
 と聞かれるので、慌てて「自分でするよ」と答えた。

 以前、いとちゃんにごはんをよそってもらって、まるでお仏前に備えるようなてんこ盛りにされたことがあったのだ。
 
 わたしは席に着いた。
 結局、筑前煮を食べる羽目になってしまった。
 だけど目の前のそれは、とても味がしみているようで、本当においしそうで、光って見えた。

 つやつやとした白米を口にした時、張り詰めていたものがぷつっと切れた。
 いとちゃんはごはんを食べていたが、やがて、ぼそっと、こう言った。
 「わたしが今、その子はやめといたほうが良いって言っても、ゆめちゃんは納得できない」

 かちゃかちゃと食器の音が穏やかだった。
 わたしは筑前煮を口にした。よく味の染みたレンコンが体に溶けていった。美味しい。

 顔をあげた時、いとちゃんは目を伏せ、箸を持っていないほうの手で、なにかを手繰り寄せてつんつんと引っ張るようなしぐさをしていた。
 いとちゃんが「糸」をどう操作しているのか、皆目見当がつかなかったが、多分わたしのために何かをしてくれているのだろうことは分かった。

 筑前煮の美味しさに、こんなに慰められるなんて。
 わたしはたぶん、一生、筑前煮に頭が上がらないだろう。

 「糸」をつんつんと引く仕草をしながら、いとちゃんは不愛想に言った。


 「だらだら引き伸ばさないように、しておいた。できれば断ち切ってあげたいけれど、それは今のゆめちゃんが望んでいないことだから、しないでおいた」

 訳の分からない文言は相変わらずだったが、そこに込められたなにかは、確かに温かだった。
 テーブルの端においた携帯を未だに気にしながら、わたしは涙を隠しながらごはんを食べ続けた。
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