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その15・意気地
「糸を読むひと」のサイトの画面はベースが濃紺で、トップページには赤文字でタイトルがゆっくりと現れる仕様になっている。
そのタイトル文字をクリックしたら、サイト主へアクセスできるボックスが現れる。そこに質問や悩み事を入力して、自分のメールアドレスやPNを入れて送信すると、もしかしたら返事がかえってくるかもしれないのだ。
「全ての事象は、糸でつながっている」
サイトのタイトル「糸を読むひと」の文字の下に、すうっと現れる一文。
全ての事象は、糸で。
それを見た時、「糸を読むひと」が、いとちゃんであることを確信した。
いつか、いとちゃんが同じことを言っていたのを思い出したから。
大型掲示板の都市伝説スレッドの情報によれば、「糸を読むひと」が、悩み相談に応じ依頼を解決した場合、報酬を求められた例はいまのところないという。無償で悩み事が解決するということで、ダメ元でお願いしてみるひとが多いのかもしれない。スレッドの中では、何人かが「相談を送ってみたけれど、返信がもらえないまま終わった」と嘆いていた。
だけど、僅かではあるが、「糸を読むひと」から反応を貰えたひとがいるみたいだ。
いくつもあるスレッドの中で、ほんの一件、自分は解決してもらえたという報告が書きこまれてあった。件の、短期バイトのあの子から聞いた話と同じで、依頼を引き受けてもらえる場合は送信するとほぼ同時位に依頼を引き受けた旨のメールが返ってくるのだという。
「送信ボタンをクリックしてすぐに、メールが届いた。ホラーだった」
と、書き込んだひとは述懐している。本当にすぐ届いた。入れ違うように。
それはまるで、画面の向こう側にいる「糸を読むひと」が、最初から、その日その時間そのタイミングで、その人から相談が送られてくることを知っていたかのような反応だったという。
しかも、相談内容は恐ろしい程するすると解決してしまったとか。
まるで魔法にでもかけられたかのように、こんがらかって、どうにもならなくなっていた人間関係が見る見るうちにほぐれてゆき、昨日まで絶望的だった問題が、今日になって、最初からそんな悩み事がなかったかのような平穏さに収まってしまった――と、書き込みされていた。
どんな相談内容だったのかは、スレッドの中では語られていなかった。
もちろん、「どんな悩み事だったか曝せ」という書き込みもあったのだが、見事にスルーされていた。そう言えば、バイトのあの子も、「糸を読むひと」に相談したという事実は語ったが、どんな悩み事だったのかまでは教えてくれなかった。
(依頼内容は他言無用というルールでもあるのかもしれないな……)
夜更け、しいんとした梟荘の自室で。
わたしは机に向かい、愛用のノートパソコンを開いて「糸を読むひと」を研究している。ここ数日、日課のように、「糸を読むひと」を検索し、出てくる都市伝説系のスレッドを読んだ。
「糸を読むひと」のサイトそのものは、覗いてみても、ただ濃紺の画面に文字と送信用ボックスがあるだけで、大した情報はなかった。だからわたしは、もっぱら口コミを探して調べまくっていたのである。
なるほど、「糸を読むひと」は、いとちゃんかもしれない。
こんなサイトを立ち上げて、多分、大量に送られてくるであろう悩み事解決の依頼メールを開き、その中から好みの依頼をえりすぐって返信し、問題を解決に導く――いつだったか、いとちゃんが自分も仕事を始めようと思う、と言っていたことがあったが、それはこのことだったのかもしれなかった。
寝不足顔の、いとちゃん。
頬杖をつき、パソコンに現れる情報を読みながら、わたしは考える。
一体なんのために、こんなボランティアを始めたんだろう、いとちゃんは。
(ヒキコモリでいることに、飽き始めて来たのだろうか)
いとちゃんの不思議な手つきを思い出す。ちょいちょいと、何もない空中を摘まみ、引っ張ったり捩じったりするような仕草をして見せる。
いとちゃんに、ひとの運命を操作する「糸」を見つけ出し、その「糸」をどう操作すれば、どんな現象が現れるのか読み解く力があるのだとしたら。
(確かに、問題解決などお茶の子さいさいだろう……)
「糸を読むひと」というサイトが開設されたのは、ほんの最近のことだ。
にもかかわらず、ネットの中では相当の話題になっている。
けろけろころころ。
窓からカエルの合唱がうっすらと聞こえて来た。
深夜の0時にさしかかろうとしている。そろそろ寝なくては。明日も講義がある。
講義がある、と気持ちが大学に向いた瞬間、もやっとした気持ちの悪いものが沸いた。そうだ、しいちゃん。
あの、晩御飯を反故にされた日以来、しいちゃんから連絡はない。おまけに、講義にも現れない。モヤモヤが解けないまま、これで二日が経とうとしている。
思えば初対面から打ち解けたというだけで、まるで運命の親友に巡り合えたように舞い上がっていたのだが、どれほどの時間も共にしていないのだ。電話番号やアドレスは教えてもらったが、メールをしても返事はないし、これで友達と言えるのだろうかと、頭の隅の冷静な自分は考えていた。
これまで自分の事を、どっしりと安定していると思っていたけれど、この件については心が二つに分離してしまったように感じる。
運命的な友達が出来た、と、思いたい気持ち。その気持ちは、このまましいちゃんが現れるのを待ち、今度しいちゃんと話すことがあったら、何もなかったかのように会話をしたいと訴えていた。
霊感やら、戦士やら仲間やら、しいちゃんが語ったことは、およそ正気の沙汰ではなかったけれど、だけどしいちゃんはそういう世界で生きているようだし、何よりもわたしのことを「仲間」と言ってくれたではないか。
「約束を破ったことを怒ったりしたら、しいちゃんが去ってしまう」と、しいちゃんに執着したい心は叫んでいた。
一方で、その、友情に燃えたい気持ちに反抗して不協和音を奏でるような冷静な自分もいた。
「霊感だの、戦士だの。だいいち、糸出ゆめ、あんたには霊感はないし、しいちゃんが言うような、水子の霊だの黒い影だのは全然見えないじゃないか。なにより、本当に友達なら、連絡もなしに約束を反故にしていいわけがないし、あんたがされたことは正面から怒り、理由を追及するべきことではないのか」
ノートパソコンの電源を落とし、ぱたんと蓋を閉じ、部屋の電灯を落としながら、わたしは知りたくもなかった自分の嫌な部分を目の当たりにしていた。
人から理不尽なことをされても、真正面から怒る意気地が――そうだ、他者に対し怒りを見せ、どうしてだと追及する行為自体、弱者にはできないことなのだ――ない自分。
なにより、自分がこれほど孤独だなんて、孤独を恥ずかしいと思っていたなんて、友達がいないことを自分で認めるのがこんなに辛いなんて、今まで全く気付かなかった。
ベッドにもぐりこみながら、闇に浮遊した千切れた糸を思い浮かべる。
白い糸、千切れて繋がる先が見えない糸。わたしの糸は多分、どこかで断ち切れてしまっていて、戸惑っている。考えてみれば、小学校や中学校、高校の時に、そこまで友達がいないことを悩んだり、友達になりかけた人に執着したことなど、なかった。どうして今、しいちゃんに縋りつきたいのだろう、これからどれだけ約束を反故にされても、しかもちっとも謝ってもらえないままでも、全部許容して、悲しい心を押し殺してでも、笑顔で付き合いを続けたいと思ってしまうのだろう。
この弱さは、いつからだろうか。目と閉じて考えたら、思い当たるのは、母との決別だった。
そうか、母だ。あんなふうに唐突に、自分勝手に、わたしを置き去りにして好きなところに飛んで行ってしまった。
母と別れてから、わたしは何かに向き合い始めたような気がする。何かって、それは多分、自分自身。
**
夜明けにトイレに起きてから眠れなくなった。
まだ暗い梟荘の廊下を歩いていると、台所に明かりがついているのが見えた。いとちゃんが起きているらしい。
何をしているのかなと覗いてみたら、ちょうどガスコンロのやかんが沸騰して、ピーピー音を立てているところだった。いとちゃんは寝不足の顔でコンロを切って、こちらを振り向いた。ぎゅっと、気分が悪そうに眉間に皺を寄せている。
なにしてるのと聞く前に、「コーヒー飲む」といとちゃんが言った。
見ると、テーブルにドリップ式のコーヒーが放り出されている。スーパーで売っている、十回分の小袋が入った安いやつだ。その、赤い小袋がじっとりとした光を放っていた。
あまり寝ていない目で見る夜明けの物たちは、妙にくっきりと見える。
「ちょうだいー」
と、言うと、いとちゃんは無言でマグカップを二つ、がちゃんがちゃんとテーブルに置き、ばりんべりんとドリップ式コーヒーの口を破ってセットした。じょぼじょぼどぼどぼと、ものすごい勢いで熱湯が注がれて、見る見るうちにコーヒー液が溢れそうになって、思わずうわあ、と悲鳴が漏れた。
豆の粉がコーヒーに混じってしまいそうだ。
前から思っていたことだが、いとちゃんは調理の類が壊滅的に不器用である。なんというか、おおざっぱすぎるのだ。
あの、見えない「糸」を操作する時の注意深さや洗練された器用な手つきは、こと台所仕事となると、さっぱり発揮されない。ドリップコーヒーを淹れるだけなのに、いとちゃんにやらせたら大失敗と紙一重のスリル満点な作業になってしまう。
それでも何とかコーヒーを淹れ終わると、まだお湯が残っているやかんを、どすんとコンロに戻した。
いとちゃんは、わたしになみなみと入ったマグをくれた。その時ばかりは、そうっと注意深い手つきだった。
「結構なお手前で」
一口すすってから、わたしは言った。
いとちゃんは無言で自分のコーヒーを飲んでいる。眉間の皺が少しずつ浅くなった。コーヒーと同じ真っ黒い目で、いとちゃんは何もない宙を睨んでいた。
「あのさー……」
いとちゃんは何かを言いかけて、やっぱり止めた、と言葉を取り消した。歯切れの悪さが珍しかった。
かりかりぼりぼりと、ぼさぼさの頭を掻きむしって、いとちゃんは一点を凝視している。
「自分の『糸』を、どうするかなんて、結局は自分なんだよなあ」
ぼそっと呟くと、いとちゃんは何度か瞬きをした。
わたしが黙っていると、いとちゃんは困ったような顔をした。こんな表情は、はじめて見る。
「わたしは、ゆめちゃんとなら一緒に住んでも良いと思ったし、それは今も変わらない。ゆめちゃんの『糸』が、わたしの『糸』と絡み始めたのを見た時、正直すごく嬉しかった。もう、『糸』は絡んでいるので、だからわたしはゆめちゃんのことなら、よく分かるんだよね」
ずずっ。
いとちゃんはコーヒーを飲んだ。猫舌とは無縁のいとちゃんだ。
「それで、ああすればこうなるし、こうやればこうなって……ああもう面倒だ、くそっ、やーめた、と、なる」
一気にいとちゃんは吐き捨てた。
なんか、ものすごく無責任で投げやりなことを言われたような気がするが、いとちゃんの言葉そのものが訳わからないので、コメントのしようがなかった。
「とりあえず、明日はカレーが食べたい」
とだけ言うと、唐突にいとちゃんは立ち上がり、飲みかけのマグを持って、台所を出て行った。
玉のれんが派手に暴れ、やがて静かになった。ぺたぺたと裸足の足が廊下を進み、キイバタンと部屋の扉が開いて閉まる。いとちゃんは自室に戻った。
(カレーか、悪くない)
まだだいぶ残っている激熱のコーヒーを啜りながら、わたしは時計を見上げる。
まだ四時半。寝るには半端だし、ただ時間だけが取り残されていた。
こうしていても仕方がないので、冷蔵庫の中を確認し、カレーを仕込むくらいなら今からでもできることを知った。
玉ねぎに人参にジャガイモに冷凍のひき肉。
カレールーも残っている。
(自分の『糸』は、結局は自分)
コーヒーを啜りながら、心の中で繰り返す。
弱くて竦み上がっていた心に、熱いコーヒーが流れ込んで活を入れてくれたみたいだった。
そっか、と思う。
しいちゃんに直接会って、顔を見て話すことを、わたしは実は怖くて避けたいと思っていたんだ。にもかかわらず、連絡ができないことで悶々としたりして。
「だらだらと引き伸ばさないように、しておいた」
そんなふうに、いとちゃんは、あの晩、言っていたではないか。
もしかしたら、いとちゃんは早めにしいちゃんと直談判できるよう、糸を調節してくれていたのかもしれなかったのに、それをそうさせまいとしていたのは、わたし自身だったのかもしれない。
(はやくすっきりさせなくては。これでは駄目だ)
と、思った時、なにかしゃきんとする感覚が走った。
しゃきん。
たるんだ糸が、ぴいんと張った、あの感じ。
寝不足の目に、一瞬、なにもない宙に張り詰める、一筋の光る糸が見えた気がした。
(ああ、多分今日の講義で、しいちゃんに会えるな)
予感があった。
そのタイトル文字をクリックしたら、サイト主へアクセスできるボックスが現れる。そこに質問や悩み事を入力して、自分のメールアドレスやPNを入れて送信すると、もしかしたら返事がかえってくるかもしれないのだ。
「全ての事象は、糸でつながっている」
サイトのタイトル「糸を読むひと」の文字の下に、すうっと現れる一文。
全ての事象は、糸で。
それを見た時、「糸を読むひと」が、いとちゃんであることを確信した。
いつか、いとちゃんが同じことを言っていたのを思い出したから。
大型掲示板の都市伝説スレッドの情報によれば、「糸を読むひと」が、悩み相談に応じ依頼を解決した場合、報酬を求められた例はいまのところないという。無償で悩み事が解決するということで、ダメ元でお願いしてみるひとが多いのかもしれない。スレッドの中では、何人かが「相談を送ってみたけれど、返信がもらえないまま終わった」と嘆いていた。
だけど、僅かではあるが、「糸を読むひと」から反応を貰えたひとがいるみたいだ。
いくつもあるスレッドの中で、ほんの一件、自分は解決してもらえたという報告が書きこまれてあった。件の、短期バイトのあの子から聞いた話と同じで、依頼を引き受けてもらえる場合は送信するとほぼ同時位に依頼を引き受けた旨のメールが返ってくるのだという。
「送信ボタンをクリックしてすぐに、メールが届いた。ホラーだった」
と、書き込んだひとは述懐している。本当にすぐ届いた。入れ違うように。
それはまるで、画面の向こう側にいる「糸を読むひと」が、最初から、その日その時間そのタイミングで、その人から相談が送られてくることを知っていたかのような反応だったという。
しかも、相談内容は恐ろしい程するすると解決してしまったとか。
まるで魔法にでもかけられたかのように、こんがらかって、どうにもならなくなっていた人間関係が見る見るうちにほぐれてゆき、昨日まで絶望的だった問題が、今日になって、最初からそんな悩み事がなかったかのような平穏さに収まってしまった――と、書き込みされていた。
どんな相談内容だったのかは、スレッドの中では語られていなかった。
もちろん、「どんな悩み事だったか曝せ」という書き込みもあったのだが、見事にスルーされていた。そう言えば、バイトのあの子も、「糸を読むひと」に相談したという事実は語ったが、どんな悩み事だったのかまでは教えてくれなかった。
(依頼内容は他言無用というルールでもあるのかもしれないな……)
夜更け、しいんとした梟荘の自室で。
わたしは机に向かい、愛用のノートパソコンを開いて「糸を読むひと」を研究している。ここ数日、日課のように、「糸を読むひと」を検索し、出てくる都市伝説系のスレッドを読んだ。
「糸を読むひと」のサイトそのものは、覗いてみても、ただ濃紺の画面に文字と送信用ボックスがあるだけで、大した情報はなかった。だからわたしは、もっぱら口コミを探して調べまくっていたのである。
なるほど、「糸を読むひと」は、いとちゃんかもしれない。
こんなサイトを立ち上げて、多分、大量に送られてくるであろう悩み事解決の依頼メールを開き、その中から好みの依頼をえりすぐって返信し、問題を解決に導く――いつだったか、いとちゃんが自分も仕事を始めようと思う、と言っていたことがあったが、それはこのことだったのかもしれなかった。
寝不足顔の、いとちゃん。
頬杖をつき、パソコンに現れる情報を読みながら、わたしは考える。
一体なんのために、こんなボランティアを始めたんだろう、いとちゃんは。
(ヒキコモリでいることに、飽き始めて来たのだろうか)
いとちゃんの不思議な手つきを思い出す。ちょいちょいと、何もない空中を摘まみ、引っ張ったり捩じったりするような仕草をして見せる。
いとちゃんに、ひとの運命を操作する「糸」を見つけ出し、その「糸」をどう操作すれば、どんな現象が現れるのか読み解く力があるのだとしたら。
(確かに、問題解決などお茶の子さいさいだろう……)
「糸を読むひと」というサイトが開設されたのは、ほんの最近のことだ。
にもかかわらず、ネットの中では相当の話題になっている。
けろけろころころ。
窓からカエルの合唱がうっすらと聞こえて来た。
深夜の0時にさしかかろうとしている。そろそろ寝なくては。明日も講義がある。
講義がある、と気持ちが大学に向いた瞬間、もやっとした気持ちの悪いものが沸いた。そうだ、しいちゃん。
あの、晩御飯を反故にされた日以来、しいちゃんから連絡はない。おまけに、講義にも現れない。モヤモヤが解けないまま、これで二日が経とうとしている。
思えば初対面から打ち解けたというだけで、まるで運命の親友に巡り合えたように舞い上がっていたのだが、どれほどの時間も共にしていないのだ。電話番号やアドレスは教えてもらったが、メールをしても返事はないし、これで友達と言えるのだろうかと、頭の隅の冷静な自分は考えていた。
これまで自分の事を、どっしりと安定していると思っていたけれど、この件については心が二つに分離してしまったように感じる。
運命的な友達が出来た、と、思いたい気持ち。その気持ちは、このまましいちゃんが現れるのを待ち、今度しいちゃんと話すことがあったら、何もなかったかのように会話をしたいと訴えていた。
霊感やら、戦士やら仲間やら、しいちゃんが語ったことは、およそ正気の沙汰ではなかったけれど、だけどしいちゃんはそういう世界で生きているようだし、何よりもわたしのことを「仲間」と言ってくれたではないか。
「約束を破ったことを怒ったりしたら、しいちゃんが去ってしまう」と、しいちゃんに執着したい心は叫んでいた。
一方で、その、友情に燃えたい気持ちに反抗して不協和音を奏でるような冷静な自分もいた。
「霊感だの、戦士だの。だいいち、糸出ゆめ、あんたには霊感はないし、しいちゃんが言うような、水子の霊だの黒い影だのは全然見えないじゃないか。なにより、本当に友達なら、連絡もなしに約束を反故にしていいわけがないし、あんたがされたことは正面から怒り、理由を追及するべきことではないのか」
ノートパソコンの電源を落とし、ぱたんと蓋を閉じ、部屋の電灯を落としながら、わたしは知りたくもなかった自分の嫌な部分を目の当たりにしていた。
人から理不尽なことをされても、真正面から怒る意気地が――そうだ、他者に対し怒りを見せ、どうしてだと追及する行為自体、弱者にはできないことなのだ――ない自分。
なにより、自分がこれほど孤独だなんて、孤独を恥ずかしいと思っていたなんて、友達がいないことを自分で認めるのがこんなに辛いなんて、今まで全く気付かなかった。
ベッドにもぐりこみながら、闇に浮遊した千切れた糸を思い浮かべる。
白い糸、千切れて繋がる先が見えない糸。わたしの糸は多分、どこかで断ち切れてしまっていて、戸惑っている。考えてみれば、小学校や中学校、高校の時に、そこまで友達がいないことを悩んだり、友達になりかけた人に執着したことなど、なかった。どうして今、しいちゃんに縋りつきたいのだろう、これからどれだけ約束を反故にされても、しかもちっとも謝ってもらえないままでも、全部許容して、悲しい心を押し殺してでも、笑顔で付き合いを続けたいと思ってしまうのだろう。
この弱さは、いつからだろうか。目と閉じて考えたら、思い当たるのは、母との決別だった。
そうか、母だ。あんなふうに唐突に、自分勝手に、わたしを置き去りにして好きなところに飛んで行ってしまった。
母と別れてから、わたしは何かに向き合い始めたような気がする。何かって、それは多分、自分自身。
**
夜明けにトイレに起きてから眠れなくなった。
まだ暗い梟荘の廊下を歩いていると、台所に明かりがついているのが見えた。いとちゃんが起きているらしい。
何をしているのかなと覗いてみたら、ちょうどガスコンロのやかんが沸騰して、ピーピー音を立てているところだった。いとちゃんは寝不足の顔でコンロを切って、こちらを振り向いた。ぎゅっと、気分が悪そうに眉間に皺を寄せている。
なにしてるのと聞く前に、「コーヒー飲む」といとちゃんが言った。
見ると、テーブルにドリップ式のコーヒーが放り出されている。スーパーで売っている、十回分の小袋が入った安いやつだ。その、赤い小袋がじっとりとした光を放っていた。
あまり寝ていない目で見る夜明けの物たちは、妙にくっきりと見える。
「ちょうだいー」
と、言うと、いとちゃんは無言でマグカップを二つ、がちゃんがちゃんとテーブルに置き、ばりんべりんとドリップ式コーヒーの口を破ってセットした。じょぼじょぼどぼどぼと、ものすごい勢いで熱湯が注がれて、見る見るうちにコーヒー液が溢れそうになって、思わずうわあ、と悲鳴が漏れた。
豆の粉がコーヒーに混じってしまいそうだ。
前から思っていたことだが、いとちゃんは調理の類が壊滅的に不器用である。なんというか、おおざっぱすぎるのだ。
あの、見えない「糸」を操作する時の注意深さや洗練された器用な手つきは、こと台所仕事となると、さっぱり発揮されない。ドリップコーヒーを淹れるだけなのに、いとちゃんにやらせたら大失敗と紙一重のスリル満点な作業になってしまう。
それでも何とかコーヒーを淹れ終わると、まだお湯が残っているやかんを、どすんとコンロに戻した。
いとちゃんは、わたしになみなみと入ったマグをくれた。その時ばかりは、そうっと注意深い手つきだった。
「結構なお手前で」
一口すすってから、わたしは言った。
いとちゃんは無言で自分のコーヒーを飲んでいる。眉間の皺が少しずつ浅くなった。コーヒーと同じ真っ黒い目で、いとちゃんは何もない宙を睨んでいた。
「あのさー……」
いとちゃんは何かを言いかけて、やっぱり止めた、と言葉を取り消した。歯切れの悪さが珍しかった。
かりかりぼりぼりと、ぼさぼさの頭を掻きむしって、いとちゃんは一点を凝視している。
「自分の『糸』を、どうするかなんて、結局は自分なんだよなあ」
ぼそっと呟くと、いとちゃんは何度か瞬きをした。
わたしが黙っていると、いとちゃんは困ったような顔をした。こんな表情は、はじめて見る。
「わたしは、ゆめちゃんとなら一緒に住んでも良いと思ったし、それは今も変わらない。ゆめちゃんの『糸』が、わたしの『糸』と絡み始めたのを見た時、正直すごく嬉しかった。もう、『糸』は絡んでいるので、だからわたしはゆめちゃんのことなら、よく分かるんだよね」
ずずっ。
いとちゃんはコーヒーを飲んだ。猫舌とは無縁のいとちゃんだ。
「それで、ああすればこうなるし、こうやればこうなって……ああもう面倒だ、くそっ、やーめた、と、なる」
一気にいとちゃんは吐き捨てた。
なんか、ものすごく無責任で投げやりなことを言われたような気がするが、いとちゃんの言葉そのものが訳わからないので、コメントのしようがなかった。
「とりあえず、明日はカレーが食べたい」
とだけ言うと、唐突にいとちゃんは立ち上がり、飲みかけのマグを持って、台所を出て行った。
玉のれんが派手に暴れ、やがて静かになった。ぺたぺたと裸足の足が廊下を進み、キイバタンと部屋の扉が開いて閉まる。いとちゃんは自室に戻った。
(カレーか、悪くない)
まだだいぶ残っている激熱のコーヒーを啜りながら、わたしは時計を見上げる。
まだ四時半。寝るには半端だし、ただ時間だけが取り残されていた。
こうしていても仕方がないので、冷蔵庫の中を確認し、カレーを仕込むくらいなら今からでもできることを知った。
玉ねぎに人参にジャガイモに冷凍のひき肉。
カレールーも残っている。
(自分の『糸』は、結局は自分)
コーヒーを啜りながら、心の中で繰り返す。
弱くて竦み上がっていた心に、熱いコーヒーが流れ込んで活を入れてくれたみたいだった。
そっか、と思う。
しいちゃんに直接会って、顔を見て話すことを、わたしは実は怖くて避けたいと思っていたんだ。にもかかわらず、連絡ができないことで悶々としたりして。
「だらだらと引き伸ばさないように、しておいた」
そんなふうに、いとちゃんは、あの晩、言っていたではないか。
もしかしたら、いとちゃんは早めにしいちゃんと直談判できるよう、糸を調節してくれていたのかもしれなかったのに、それをそうさせまいとしていたのは、わたし自身だったのかもしれない。
(はやくすっきりさせなくては。これでは駄目だ)
と、思った時、なにかしゃきんとする感覚が走った。
しゃきん。
たるんだ糸が、ぴいんと張った、あの感じ。
寝不足の目に、一瞬、なにもない宙に張り詰める、一筋の光る糸が見えた気がした。
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予感があった。
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