糸を読むひと

井川林檎

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その16・似て非なるもの

 わたしは人間関係を作るのが、子どもの頃から嫌いだった。
 それは、あの変わった母親とボロアパートに住んでいるという、世間様の目から見て特殊な事情を持っていたから、というのもある。保育園でも、小学校でも、わたしは異質だった。最初は無邪気に接してくれた友達も、親からなにか聞かされて、次第に遠巻きになってゆく。慣れていた。

 (別に困らない)

 と、切り替えることができたのがわたしの強さであり、母譲りのおおらかさだった。きなきな悩まない。なるようにしかならない。誰かと一緒にトイレに行ったり、ごはんを食べたりしなくては生きていられないほど、人間は繊細にできていない。トイレなんか、授業中でもしたくなったら手を挙げればいいだけだし、ごはんはさっと食べてしまえばいいだけだ――そうやって生きて来た。

 ゆめちゃんは淡々としていて、のびのびと育って、強いわねえ。
 誰から言われた言葉だっただろうか。多分、けやきの叔母さんからだったかもしれない。わたしや母に親しくしてくれる親戚筋なんて、けやきのうちくらいだから。

 淡々。のびのび。強い。
 自分でも、そういう自分だと思っていた。

 だけど今、自分自身を振り返ってみたら、本当にわたしは「淡々としてのびのびと強い」のかと疑問が沸く。しいちゃんとの件が、ぐずぐずと燻り続けているのだ。

 あの変わった子は、結局、講義で再会した時、何事もなかったかのように接してくれた。ごめんも、何もなかった。まるで、ごはんを食べに行く約束そのものを忘れてしまったかのような様子だった。
 講義が始まる前、頬杖をついてけだるそうな白い顔で、ぱらぱらとテキストを無造作にめくりながら、「ゆめちゃん今日って何か提出物あったっけ。え、あるの、見せてくれるー」とか言っていた。無駄な言い争いをしなくて済むことと、この友情が壊れずに続いてくれそうな予感が、わたしをほっとさせた。だけど同時に、腹の底でむかむかと黒い感情が渦巻いたのも事実だった。

 わたしが見せたレポートを丸写しするしいちゃんの横顔は、黒い髪の毛がかかって一層青ざめて見えた。それは綺麗だったけれど、不健康そうだった。
 薄く品よいマニキュアが窓から差し込む外光を受けて光っている。
 かりかりと音を立てて、淡いメタルピンクの洒落たシャープペンを使っているしいちゃん。長いまつげ。ピンクの唇。

 教室には学生たちが集まりつつあり、例のあの、出口を占領するキラキラな人たちも席について喋り合っていた。ちらちらとこちらを眺めているのは、わたしではなくしいちゃんを観察しているのだろう。
 しいちゃんは滅多に講義に出なくて、留年が続いていて、あのここれからどうするんだろうね、と、密かな噂になっているのだ。
 「せんせーたちも困ってるみたいだよ」
 聞こえよがしのような、笑いを含んだ噂話の声が耳に入って来た。けれど、しいちゃんはまるで感じていないように宿題を写し続けていた。噂話や視線を感じて、体が縮むような思いをしているのは、なぜかわたしのほうなのだった。

 「……あのさ、こないだの待ち合わせ、来なかったけれど何があったの」

 やっとのことで、わたしは聞いてみた。
 しいちゃんは面倒くさそうに書きものを続けていた。え、と聞き返されて、一瞬わたしは息を飲んだ。
 今の「え」は、約束事を忘れていて、それを指摘されて驚いた「え」ではなくて、もっと別の、わたしには理解できない「え」だった。

 「ああ、あの日ねー」
 と、しいちゃんはだるそうに言い、頬杖の位置を直して、また面倒くさそうに宿題を書き着け始めた。
 「なんだったかなー、用事ができてぇ。やーやちゃんの彼氏が、やーやちゃんに手を出してきた男と喧嘩して、もう大変で、それどころじゃなかったー」

 一気にそれだけ言うと、事情の説明はもう済んだと言わんばかりに、しいちゃんは「ごめんね」と締めたのだった。

 (やーやちゃんの彼氏が誰かと喧嘩したことと、わたしの約束が反故にされたことと、何の関係があるのだろう)
 喉元まで言葉が出かかっていたが、それ以上聞きつけない雰囲気が、しいちゃんの横顔には現れていた。
 面倒くさいことはたくさん、わたしはそういうの嫌いなの、と、実に格好良く、しいちゃんは表情や仕草で語っていた。
 
 「へー、大変だったんだね」
 仕方なく、ご機嫌をとるようにわたしはそう言うしかなかった。
 「うんほんと大変だったー。やーやちゃん超美人だから大変なのー」
 と、しいちゃんは何故か得意そうにそう言い、写し終わったレポートを、するっとこちらに滑らせるように寄越したのだった。

 
 そろそろ講義が始まる時間だ。
 部屋はいつの間にか学生たちでひしめいている。
 しいちゃんが眠そうに欠伸を連発し、うつ伏せて寝ようとしているので、わたしはちょっと尋ねてみた。

 「ねーしいちゃん、こないだ言ってた、戦士とか仲間とかって」
 
 しいちゃんは無言だった。むくっと顔をあげると、迷惑そうな顔でわたしを見つめた。それで、わたしは黙らざるを得なくなった。

 出会った時は自分からぺらぺらと、霊感やら水子やら戦士やらと喋ったくせに、今日は全くそんな話題は出さない。どこからどこまでが本当なのか、混乱してきそうだった。

 モヤモヤしているうちに、教授が入ってきて講義が始まった。
 講義が始まってもしいちゃんはうつ伏せて眠り続けていて、まるで、普通にノートを取っているわたしのほうが場違いなような気がした。

**

 講義が終わって、お店でしいちゃんとハンバーガーを食べた。
 二階の窓際の席で向かい合って食べながら、商店街の道行く人を眺めた。しいちゃんのけだるそうな様子は、体調が特に悪いからという訳ではなく、常にどこかだるいんだろう。どんな生活をしているんだろうな、と、できたての友達を眺めながら、わたしは想像した。
 肩を見せるサマーセーターや、艶やかなセミロングの髪。しいちゃんは、お洒落に気を遣う子だ。
 
 こんな子が、どうしてわたしに近づいたんだろうと思う。

 いきなりしいちゃんが言った。

 「あっ、今通り過ぎた。見えたでしょう、ちいさい女の子」

 一瞬、商店街の道行く人たちのことを言っているのかと思った。
 そうではなくて、しいちゃんは例によって、目に見えないものたちのことを言い始めているのだった。

 「可愛い子だったなー、でも心配いらない、悪い霊じゃないから。だけど強くもないから、あてにはならないな」

 わたしは黙って聞いていた。
 しいちゃんは、わたしに話を合わせて欲しがっている。その、目に見えないものを見えていると、わたしに言わせたいんだろう。
 
 だけどわたしには、女の子の霊なんか、ちっとも見えないのだった。

 「やーやちゃんもわたしも、戦士として巡り合って、あっちの世界では現実の姿とはちがう姿なの」
 と、しいちゃんは声を一層低くした。
 「金髪で、純白の羽根を持っている。やーやちゃんはとても強い力を持っていて、前世がプリンセスだったんだけど、その時非業の最期を遂げたから、その記憶が未だに彼女を苦しめているのよね」
 凄く辛いの、もう、ゆめちゃんなんか想像できないくらい、本当に過酷な定めなのよ。

 しいちゃんはそう言った。

 戦士。金髪。ちんぷんかんぷんだった。
 いくらなんでも、そろそろわたしは、相手の底を見たような気がしてきた。
 (しいちゃんは、妄想の世界で遊んでいて、それを適当に口に出してあたかもそれが現実に存在しているかのような感覚を楽しんでいるだけなんだ)

 そのお遊びの付き合い相手としてわたしに白羽の矢が立ったのだとしたら、それは非常に悔しいことだった。
 あの晩の約束を無視したのは、しいちゃんの言葉によれば、やーやちゃんの色恋がらみの騒ぎがあったからという事情のためらしい。だけど今、しいちゃんはやーやちゃんを目いっぱい賛美したような気がする。超お美しい戦士で非業の前世を持つやーやちゃん。ものすごく辛い、わたしみたいなフツーの人には想像もできない位過酷な運命を背負っている。可愛そうな、綺麗な、素晴らしいやーやちゃん。

 だから、アンタが約束のひとつやふたつ、反故にされたって、怒っているのだとしたら、それは問題にもならない、つまらないことなのよ。ぐちゃぐちゃ言わないでよね。

 ……暗に、しいちゃんはそう告げているような気がした。
 考えすぎだろうけれど、もうわたしの中のモヤモヤは膨らみ続けるだけだった。これ以上、その妄想世界の羽根の着いた金髪戦士たちの話は聞きたくなかったし、やーやちゃんという名前を出されるのも苦痛だった。

 お昼を食べ終わると、しいちゃんは「これからどうするー」と言った。
 わたしはまだ講義があるから、大学に戻ると答えた。しいちゃんも、わたしなんかより出なくてはならない講義が山のようにあるはずなのに、相変わらずだるそうな顔のまま「ふーん」と答えただけだった。

 結局しいちゃんとわたしは、ハンバーガー屋で別れた。
 わたしは午後の講義のために大学に戻り、しいちゃんは町の中にふらふらと溶けていった。その地に足のついていない後姿は、可愛い雑貨屋や、お洒落な洋服屋、屋台の様な食べ物屋が並ぶ商店街の賑わいの中で、ごく自然に見えた。

 ぼんやり立ち止まって見送っているうちに、道行くひとたちの多くが、しいちゃんみたいな当てのないひとのように思えて来た。

 破れたジーンズをはいたひと。学生なんだろうか、たまたま今日仕事が休みのひとなんだろうか。
 だらだらと友達同士つるんで歩いている女性たち。このひとたちはどうして今、この時間にここで遊んでいるんだろう。

 ざわざわと流ちょうな会話が耳に入ってくる。
 みんな上手にコミュニケーションを取り合っていて、充実しているようで、その実、とても不安定に見えた。


 「地に足が着いていないのよ」
 その時、あのトンデモ母からのテレパシーが、隕石が脳天に落下するような勢いで降ってきて、わたしは倒れかけた。虹色の衝撃が脳味噌の中を駆け巡り、くらくらとして、電柱に手を当てて辛うじて立った。

 ちゃんちきりんこん、ちゃんちきりんこん。
 地に足が着く生活からはほど遠いところに住む、変な母親が、なんか言ってきた。
 (お前が言うな)
 と、直線的なテレパシーに対抗して、語気を荒げて、心の中で呟いた。バリ島ちっくなキラキラしたメロディーが脳内を駆け巡りそうだったので、そうなる前に振り払った。

 確かにいまわたしは、しいちゃんのために凄く嫌な状態に陥っていたけれど、母からアドバイスをされるのだけは納得できない。
 むかむかしながら、わたしは歩いた。

**

 講義が終わり、図書館でレポートを書いて、買い物をしてから梟荘に戻った。
 台所を覗いてもいとちゃんがいないので、部屋かと思ったが、扉の中に人の気配はない。梟荘からいとちゃんが出てゆくことは考えられない。
 あっらー、どこだろう、と思っていたら、ちりん、と風鈴の音が微かに聞こえた。

 分かった。
 奥の和室の縁側を開けて、涼んでいるのだろう。
 
 荷物を部屋に置いてから、わたしも縁側に行ってみた。
 案の定、ジャージ姿のいとちゃんが、西日のさす縁側で足をぶらつかせて座っていた。

 流石に暑いのだろう、下はジャージだけど、上は白いTシャツ姿だ。ぼっさぼっさの髪の毛を夕日に晒して、いとちゃんはぼんやりとそこにいた。

 わたしはいったん台所に戻り、麦茶を二人分用意して、また縁側に戻った。いとちゃんの隣に座って外を見ると、西日の中で、あらゆるものが名にくっきりと浮き上がっていた。

 赤の光の中で、明暗が分かれている。
 いとちゃんは、ありがと、と言って麦茶を一気に飲んだ。鼻の頭に汗をかいていた。

 「あのーね」
 何となく今がチャンスのような気がして、わたしは言ってみた。

 「『糸を読むひと』ってサイトがあってさ……」

 すると、間髪入れずに、表情も変えずにいとちゃんが、
 「あ、それわたし」
 と、答えた。

 なんら劇的でもない秘密の終わり方だった。いとちゃんは暗い目で庭を眺めている。その目は今も、目に見えないなにかを見つめ続けている。
 くっきりと濃い影を作り、黒い目で見つめ続けている。

 いとちゃんの見ているものは、目に見えないなにかだけど、いとちゃんはしっかりそこにいて、わたしの目にもよく映っていた。
 (そこにいる。確かにいる。いとちゃん)

 どういうわけだろう。
 ヒキコモリのいとちゃんが、地に足のついたひとのような錯覚を覚えるのだが。
 暑い縁側でぼんやり何かを睨み続けるいとちゃんは、得体が知れないほど強く、芯が通っているように見えた。

 ちりん、りん。
 風鈴の短冊がくるくる回る。

 「麻婆豆腐でもいい」
 夕食の献立について、わたしは言った。
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