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その17・夏休み
レポートの提出期限が重なる時期を越え、前期の成績が出たら長い夏休みが始まる。
幸い、単位はどれも落としていなかった。優、良、可のうち、可が一つあって、ヒヤヒヤした。恐らくギリギリ、お情けで単位を貰えたのだろう。
長い夏休みは始まったばかりであり、短期バイト以外はなんら予定のないわたしは、毎日梟荘でぼんやりとしていた。
夏休みが始まる前は、しいちゃんのことでやきもきしていた。しいちゃんが講義に出て来たら会えるし、さぼったら会えない。電話番号やメールアドレスを教えてもらっていたって、返信がないのだから、知っていてもむなしいだけだった。
しいちゃんは、レポートを出していなかっただろうし、そもそも欠席ばかりだったから、今期もまた単位をボロボロ落としまくっていたのに違いない。一体いつになったら卒業できるのか、果てしない。だけど、当の本人は大学にも卒業にも、恐らく自分の未来にすら、執着を抱いていないようすなのだった。
たまに講義で会っても、しいちゃんが口にするのは「やーやちゃん」という社会人の友達の事ばかりだ。しいちゃんが見えたり感じたりする、非現実的で中二病的なワールドについて喋っていても、やーやちゃんが必ず絡んでくる。
金髪の麗人で、悲劇的な前世の宿命を背負った戦士たち。
しいちゃんとやーやちゃんはその前世の記憶に目覚めた戦士であり、仲間を求めているのだという。
しいちゃんは、わたしのことを仲間だと決めていて、まるでわたしがその話を知っていかのように霊だの闇だの純白の羽根だのが現れる、ファンタジックワールドのことを語るのだった。
「昨晩、『あっちの世界』で戦いがあったよね。何とか切り抜けたのは、やーやちゃんが機転をきかしてくれたからだよ。ゆめちゃんはまだ目覚めたばかりで不慣れだったから、もたもたしてたけれど、あれはドンマイだからね。わたしもやーやちゃんも、ゆめちゃんを護って戦っていたでしょう」
頬杖をついてテキストをめくっていたかと思うと、ふと顔を上げて、そんなことを口走ったりするのだった。
「あっちの世界」というのが、しいちゃんややーやちゃんが美しい金髪の戦士の姿で活躍するワールドの事であり、どうやらその世界では何らかの戦いが行われている――という、設定。
わたしが「知らないよ」と言うと、「覚えていないんだね。よく思い出したら、きっと蘇ってくる」と、どこを見ているのか分からない、夢見るような瞳で言うのだった。
(現実の世界では、しいちゃんはタダのニート予備軍であり、大学に馴染まずにだらだら留年を続けている、頭のおかしなひとでしかない)
大学の女子たちから、しいちゃんがどんな目で見られているのか、一緒にいると肌に染み込むように分かるのだった。
「ホラあの人、何度も留年しているんだよ」
「見た目がちょっとかわいいから、あのこをイベントに誘った人も何人かいたけれど、なんだかちょっと……」
「あのこ、ちょっとアレだよね」
しいちゃんの口から何度も語られている「やーやちゃん」に、わたしは未だ会ったことがない。一度、しいちゃんが誇らしげに携帯の待ち受けを見せてくれたことがあったが、そこにはトウモロコシの髭のような髪の毛をひとつに束ねた、丸顔細めの女性がツンとした顔で写っていた。
これがやーやちゃんか、と思ったら拍子抜けした。
しいちゃんの口ぶりでは、やーやちゃんは絶世の美女で、悲劇のプリンセスで、繊細だけど強靭な精神力を持ち、つよい瞳をしたカッコイイひとのはずだった。
「……『あっちの世界』では、やーやちゃん、凄まじい程の美人なんだよ」
わたしの表情からなにかを読みとったのか、しいちゃんは携帯をわたしから取り上げながら、そう言ったっけ。
なんにしろ、前期は終わり大学は夏休みに突入した。
携帯で連絡をとりあわないかぎり、最早しいちゃんとコンタクトを取ることはない。
(休み中にゴハンを食べに行くとか、遊ぶとかの誘いはないのか)
最後の講義では、しいちゃんの姿はなかった。さんざん攪乱させておいて、心を振り回しておいて、尻切れトンボのような無責任さで、しいちゃんとわたしの関係はパツンと節目を迎えた。
(もしかしたら、しいちゃん、後期には大学に在籍していないかもしれないし、在籍していたとしても、わたしにはもう話しかけてこないかもしれない)
やーやちゃんとは毎日会っているんだろうか、やっぱりわたしは友達でもなんでもなかった、まるで詐欺だ。
納得のできないモヤモヤと共に迎えた夏休みだが、梟荘に籠って三日もたてば、もはや大学のことなど全て過去のことになってしまった。
もちろん、しいちゃんのことも、薄く遠く、どうでもよくなってきた。
ガラッと開ける、朝の部屋の窓。
まだ五時なのに、もう空は強烈な光に満ちていて、電線に向こうに目を向けると眩しい。風は夜の涼しさがまだ続いているけれど、すぐに激しい熱を帯びるのだろう。
ちりん、りんりりん。
奥の間の縁側の風鈴が鳴るのが微かに聞こえる。
どうして夏の音は全て、淡くて甘いんだろう。虫の声や、風鈴や、どこかで布団を干して叩く音ですら、どこか懐かしくていつまでもそこに留まっていたくなる。夏は強い力を持っている。
梟荘にも夏は侵入してきていて、うちの中にいても、十二分に「夏」だった。
いとちゃんがけだるそうなのも、夏の中で見ると、これもまた趣があるように感じる。
何か特別なことが今にも起こりそうな気がしていた。
夏は、好きだ。
**
ちりん、りん。
かといって、夏休みも三日目となると、何もしないままぼうっとしているのは限界を迎えていた。
だらだらしているのは、元々性分に合わないのかもしれない。何かしていないと、動かないままじわじわ汗ばかり沸いてきて、非常に気持ちが悪かった。
ここはわたしのうちではないし、安価で居候させてもらっている以上、むやみやたらに光熱費をかけるわけにはいかない。冷房は極力使わず、風通しをよくして夏を乗り切る所存だ。
じっとりした梟荘の中を見回して、わたしはムラムラと沸き起こる、ある欲に負けた。
掃除欲。
五時に起きた時点で、きっとわたしは無意識に、今日は掃除デーにするぞと決めていたのだろう。
朝ごはんは、各種フリカケをまぶしたお握り数種を大皿に乗せ、いつでも摘まんで食べられるようにして台所のテーブルにドカンと置いた。ピッチャーには冷たい麦茶をなみなみと入れたし、これで思う存分、家の中で動き回ることができた。
朝の六時すぎに掃除機がうなりをあげ、梟荘の廊下をブイブイ綺麗にしてやった。
ガゴンドゴンと掃除機が壁にあたり、威勢の良い音を立てる。
「うー」
ものすごい顔をしたいとちゃんが、部屋から出てきてぼさぼさの髪の毛を掻きむしった。
掃除機の音に辟易して出て来たらしい。眠くて仕方がないけれど、怒ってはいない声で、いとちゃんは、おはようと言った。白いTシャツにジャージのズボンを合わせていて、相変わらず寝ぐさい。
おにぎりと麦茶があるよと言うと、いとちゃんは無言で台所に向った。
ぺたしぺたしと、裸足の足が掃除機で綺麗にしたばかりの床を踏んでいる。
掃除機をかけおわると、トイレ掃除と風呂掃除を済ませた。
洗面所の流しにこびりついたオレンジ色の黴を古い歯ブラシでこそぎ落とし、鏡についた跳ね汚れをひとつ残らず拭きとった。
風呂場からバケツに水をくんでくると、ざぼんと雑巾を落とす。
今から、窓という窓を拭き清める。今年は梅雨が短くて、あっという間にどかんと夏が来たけれど、その間、窓掃除なんか一度もしなかった。春の埃や梅雨の泥跳ねが未だにこびりついているはずだ。
きゅきゅきゅ。きゅきゅきゅ。
最後に、奥の和室の、縁側のガラス戸を磨いた。
大きなガラス戸には網戸がスライドできるようになっていて、その網戸もまた結構な汚さだ。
ゆっくりと雑巾を使っていると、どんどん綺麗になってゆくガラスの向こうで、夏の空がますます青かった。
じいわじいわと蝉が絞り出すように鳴き、それに合わせて風鈴が鳴った。
**
流石に疲れて、雑巾をバケツに落とすと縁側に座った。
蝉の声を聴きながら軒ごしに空を見上げると、つうっと汗が鼻の横を流れた。まだ朝の九時にもなるまい。
(今日はこれから始まる)
おなかが空いた。
そう思ったら、すごいタイミングですうっと縁側の板の上に、大皿に盛ったおにぎりが出された。ついでに、ことんとコップに注がれた麦茶も出て来た。
いとちゃんが、寝不足の目と不愛想な口元でわたしを横目でちらっと見た。ノリタマのやつとユカリのやつ美味しかったよと言った。確かに、ノリタマおにぎりとユカリおにぎりが、ほとんどなくなっている。
ゴマ塩のおにぎりをほおばっていると、いとちゃんが隣に来て腰を下ろした。
O脚気味の長い足を縁側から突き出して、ふらふら揺らした。
「ゆめちゃんが掃除を頑張った分、地球の裏側の国のある海岸に、大量の不思議な漂流物がたどり着くことになる」
いとちゃんの横顔は、ぼさぼさの髪の毛に隠れて見えなかった。
青白い顎が覗けている。いとちゃんは淡々と語った。
「全ての糸は繋がっているからさ、今日の大掃除も何らかの事象と繋がっている、当然。その漂流物があまりにも面白いから、その国の芸術家たちがこぞって海岸に集まって、いろいろなオブジェを作って展示会をする。そうしたら評判になって、そのど田舎の海辺の村が観光地になってしまう」
いとちゃんがしいちゃんと違うのは、こんな素っ頓狂なはなしをしても、それが中二病でもファンタジーでもなく、現実にそうなっているのだとわたしに感じさせるところだろう。
しいちゃんの口から出るのが、魅力に富んだ空想物語だとしたら、いとちゃんの語るものはホラーだった。
全てのものは、糸で繋がっている。
ここでちょっとした動作をしても、それが糸を振るわせて、遠い国の見知らぬひとの運命に働きかける。
いとちゃんは、今日のわたしの突発的大掃除が、地球の裏側の田舎村に繋がっていると言った。
わたしはおにぎりを食べながら、その海辺でどんな漂流物が漂着したのか、どんな芸術家たちがどんなふうにそれらを物色しているのかまで、目の前に浮かび上がるように思った。
「結果として、悪くない糸の動き方をするのだけど」
と、いとちゃんは続けた。
「度が過ぎたら今度は、呪われた銅像とか、見たら誰でも不幸になる、曰くつきの人形とかが漂着してきて、それを間違って展示して、逆宣伝になりかねないから、これくらいにしといたほうが良い」
なにそれ、とわたしは聞き返した。
これ以上掃除をしたら、ヤバイものまで、その平和な田舎村に漂着してしまうとか。
ギャグかと思ったら、髪の毛の間から覗くいとちゃんの口元は、生真面目にぎゅっと結ばれていた。頬杖をついて、見えない何かをじいっと見つめて、いとちゃんは話し続けている。
そう言えば、と、わたしは思いつく。
たった一か所だけ、綺麗にしていない場所があった。
梟荘の、アンタッチャブル・エリア。
「いとちゃんの部屋も、掃除したいな」
と、わたしは言った。
するといとちゃんは、
「そんなことをしたら、大陸がひとつ沈みかねないから止めて」
と、大真面目に切り返してきた。
(いや、いつか絶対に掃除しないとだめでしょう)
密閉された、いとちゃんの部屋。
ヒキコモリの空気が閉じ込められた、たぶん、とっても汚くて、ごたごたしている不健全な部屋。
今は掃除できなくても、いずれは。
(その時は、世界で何か異変が起きるのかな)
若干不安に思ったけれど、すぐにそれが杞憂だと気づいた。
ちらっと見えたいとちゃんの口元が、微妙に笑っていたからだ。
ああ、いとちゃんでも冗談を言うんだ。
ヒキコモリ部屋を掃除したから大陸が沈没するなんて、そんな冗談を。
じいわじいわ。ちりんりんりいん。
風が髪をそよがせた。
わたしは、笑いをかみ殺しながら、おにぎりを食べ続けた。
幸い、単位はどれも落としていなかった。優、良、可のうち、可が一つあって、ヒヤヒヤした。恐らくギリギリ、お情けで単位を貰えたのだろう。
長い夏休みは始まったばかりであり、短期バイト以外はなんら予定のないわたしは、毎日梟荘でぼんやりとしていた。
夏休みが始まる前は、しいちゃんのことでやきもきしていた。しいちゃんが講義に出て来たら会えるし、さぼったら会えない。電話番号やメールアドレスを教えてもらっていたって、返信がないのだから、知っていてもむなしいだけだった。
しいちゃんは、レポートを出していなかっただろうし、そもそも欠席ばかりだったから、今期もまた単位をボロボロ落としまくっていたのに違いない。一体いつになったら卒業できるのか、果てしない。だけど、当の本人は大学にも卒業にも、恐らく自分の未来にすら、執着を抱いていないようすなのだった。
たまに講義で会っても、しいちゃんが口にするのは「やーやちゃん」という社会人の友達の事ばかりだ。しいちゃんが見えたり感じたりする、非現実的で中二病的なワールドについて喋っていても、やーやちゃんが必ず絡んでくる。
金髪の麗人で、悲劇的な前世の宿命を背負った戦士たち。
しいちゃんとやーやちゃんはその前世の記憶に目覚めた戦士であり、仲間を求めているのだという。
しいちゃんは、わたしのことを仲間だと決めていて、まるでわたしがその話を知っていかのように霊だの闇だの純白の羽根だのが現れる、ファンタジックワールドのことを語るのだった。
「昨晩、『あっちの世界』で戦いがあったよね。何とか切り抜けたのは、やーやちゃんが機転をきかしてくれたからだよ。ゆめちゃんはまだ目覚めたばかりで不慣れだったから、もたもたしてたけれど、あれはドンマイだからね。わたしもやーやちゃんも、ゆめちゃんを護って戦っていたでしょう」
頬杖をついてテキストをめくっていたかと思うと、ふと顔を上げて、そんなことを口走ったりするのだった。
「あっちの世界」というのが、しいちゃんややーやちゃんが美しい金髪の戦士の姿で活躍するワールドの事であり、どうやらその世界では何らかの戦いが行われている――という、設定。
わたしが「知らないよ」と言うと、「覚えていないんだね。よく思い出したら、きっと蘇ってくる」と、どこを見ているのか分からない、夢見るような瞳で言うのだった。
(現実の世界では、しいちゃんはタダのニート予備軍であり、大学に馴染まずにだらだら留年を続けている、頭のおかしなひとでしかない)
大学の女子たちから、しいちゃんがどんな目で見られているのか、一緒にいると肌に染み込むように分かるのだった。
「ホラあの人、何度も留年しているんだよ」
「見た目がちょっとかわいいから、あのこをイベントに誘った人も何人かいたけれど、なんだかちょっと……」
「あのこ、ちょっとアレだよね」
しいちゃんの口から何度も語られている「やーやちゃん」に、わたしは未だ会ったことがない。一度、しいちゃんが誇らしげに携帯の待ち受けを見せてくれたことがあったが、そこにはトウモロコシの髭のような髪の毛をひとつに束ねた、丸顔細めの女性がツンとした顔で写っていた。
これがやーやちゃんか、と思ったら拍子抜けした。
しいちゃんの口ぶりでは、やーやちゃんは絶世の美女で、悲劇のプリンセスで、繊細だけど強靭な精神力を持ち、つよい瞳をしたカッコイイひとのはずだった。
「……『あっちの世界』では、やーやちゃん、凄まじい程の美人なんだよ」
わたしの表情からなにかを読みとったのか、しいちゃんは携帯をわたしから取り上げながら、そう言ったっけ。
なんにしろ、前期は終わり大学は夏休みに突入した。
携帯で連絡をとりあわないかぎり、最早しいちゃんとコンタクトを取ることはない。
(休み中にゴハンを食べに行くとか、遊ぶとかの誘いはないのか)
最後の講義では、しいちゃんの姿はなかった。さんざん攪乱させておいて、心を振り回しておいて、尻切れトンボのような無責任さで、しいちゃんとわたしの関係はパツンと節目を迎えた。
(もしかしたら、しいちゃん、後期には大学に在籍していないかもしれないし、在籍していたとしても、わたしにはもう話しかけてこないかもしれない)
やーやちゃんとは毎日会っているんだろうか、やっぱりわたしは友達でもなんでもなかった、まるで詐欺だ。
納得のできないモヤモヤと共に迎えた夏休みだが、梟荘に籠って三日もたてば、もはや大学のことなど全て過去のことになってしまった。
もちろん、しいちゃんのことも、薄く遠く、どうでもよくなってきた。
ガラッと開ける、朝の部屋の窓。
まだ五時なのに、もう空は強烈な光に満ちていて、電線に向こうに目を向けると眩しい。風は夜の涼しさがまだ続いているけれど、すぐに激しい熱を帯びるのだろう。
ちりん、りんりりん。
奥の間の縁側の風鈴が鳴るのが微かに聞こえる。
どうして夏の音は全て、淡くて甘いんだろう。虫の声や、風鈴や、どこかで布団を干して叩く音ですら、どこか懐かしくていつまでもそこに留まっていたくなる。夏は強い力を持っている。
梟荘にも夏は侵入してきていて、うちの中にいても、十二分に「夏」だった。
いとちゃんがけだるそうなのも、夏の中で見ると、これもまた趣があるように感じる。
何か特別なことが今にも起こりそうな気がしていた。
夏は、好きだ。
**
ちりん、りん。
かといって、夏休みも三日目となると、何もしないままぼうっとしているのは限界を迎えていた。
だらだらしているのは、元々性分に合わないのかもしれない。何かしていないと、動かないままじわじわ汗ばかり沸いてきて、非常に気持ちが悪かった。
ここはわたしのうちではないし、安価で居候させてもらっている以上、むやみやたらに光熱費をかけるわけにはいかない。冷房は極力使わず、風通しをよくして夏を乗り切る所存だ。
じっとりした梟荘の中を見回して、わたしはムラムラと沸き起こる、ある欲に負けた。
掃除欲。
五時に起きた時点で、きっとわたしは無意識に、今日は掃除デーにするぞと決めていたのだろう。
朝ごはんは、各種フリカケをまぶしたお握り数種を大皿に乗せ、いつでも摘まんで食べられるようにして台所のテーブルにドカンと置いた。ピッチャーには冷たい麦茶をなみなみと入れたし、これで思う存分、家の中で動き回ることができた。
朝の六時すぎに掃除機がうなりをあげ、梟荘の廊下をブイブイ綺麗にしてやった。
ガゴンドゴンと掃除機が壁にあたり、威勢の良い音を立てる。
「うー」
ものすごい顔をしたいとちゃんが、部屋から出てきてぼさぼさの髪の毛を掻きむしった。
掃除機の音に辟易して出て来たらしい。眠くて仕方がないけれど、怒ってはいない声で、いとちゃんは、おはようと言った。白いTシャツにジャージのズボンを合わせていて、相変わらず寝ぐさい。
おにぎりと麦茶があるよと言うと、いとちゃんは無言で台所に向った。
ぺたしぺたしと、裸足の足が掃除機で綺麗にしたばかりの床を踏んでいる。
掃除機をかけおわると、トイレ掃除と風呂掃除を済ませた。
洗面所の流しにこびりついたオレンジ色の黴を古い歯ブラシでこそぎ落とし、鏡についた跳ね汚れをひとつ残らず拭きとった。
風呂場からバケツに水をくんでくると、ざぼんと雑巾を落とす。
今から、窓という窓を拭き清める。今年は梅雨が短くて、あっという間にどかんと夏が来たけれど、その間、窓掃除なんか一度もしなかった。春の埃や梅雨の泥跳ねが未だにこびりついているはずだ。
きゅきゅきゅ。きゅきゅきゅ。
最後に、奥の和室の、縁側のガラス戸を磨いた。
大きなガラス戸には網戸がスライドできるようになっていて、その網戸もまた結構な汚さだ。
ゆっくりと雑巾を使っていると、どんどん綺麗になってゆくガラスの向こうで、夏の空がますます青かった。
じいわじいわと蝉が絞り出すように鳴き、それに合わせて風鈴が鳴った。
**
流石に疲れて、雑巾をバケツに落とすと縁側に座った。
蝉の声を聴きながら軒ごしに空を見上げると、つうっと汗が鼻の横を流れた。まだ朝の九時にもなるまい。
(今日はこれから始まる)
おなかが空いた。
そう思ったら、すごいタイミングですうっと縁側の板の上に、大皿に盛ったおにぎりが出された。ついでに、ことんとコップに注がれた麦茶も出て来た。
いとちゃんが、寝不足の目と不愛想な口元でわたしを横目でちらっと見た。ノリタマのやつとユカリのやつ美味しかったよと言った。確かに、ノリタマおにぎりとユカリおにぎりが、ほとんどなくなっている。
ゴマ塩のおにぎりをほおばっていると、いとちゃんが隣に来て腰を下ろした。
O脚気味の長い足を縁側から突き出して、ふらふら揺らした。
「ゆめちゃんが掃除を頑張った分、地球の裏側の国のある海岸に、大量の不思議な漂流物がたどり着くことになる」
いとちゃんの横顔は、ぼさぼさの髪の毛に隠れて見えなかった。
青白い顎が覗けている。いとちゃんは淡々と語った。
「全ての糸は繋がっているからさ、今日の大掃除も何らかの事象と繋がっている、当然。その漂流物があまりにも面白いから、その国の芸術家たちがこぞって海岸に集まって、いろいろなオブジェを作って展示会をする。そうしたら評判になって、そのど田舎の海辺の村が観光地になってしまう」
いとちゃんがしいちゃんと違うのは、こんな素っ頓狂なはなしをしても、それが中二病でもファンタジーでもなく、現実にそうなっているのだとわたしに感じさせるところだろう。
しいちゃんの口から出るのが、魅力に富んだ空想物語だとしたら、いとちゃんの語るものはホラーだった。
全てのものは、糸で繋がっている。
ここでちょっとした動作をしても、それが糸を振るわせて、遠い国の見知らぬひとの運命に働きかける。
いとちゃんは、今日のわたしの突発的大掃除が、地球の裏側の田舎村に繋がっていると言った。
わたしはおにぎりを食べながら、その海辺でどんな漂流物が漂着したのか、どんな芸術家たちがどんなふうにそれらを物色しているのかまで、目の前に浮かび上がるように思った。
「結果として、悪くない糸の動き方をするのだけど」
と、いとちゃんは続けた。
「度が過ぎたら今度は、呪われた銅像とか、見たら誰でも不幸になる、曰くつきの人形とかが漂着してきて、それを間違って展示して、逆宣伝になりかねないから、これくらいにしといたほうが良い」
なにそれ、とわたしは聞き返した。
これ以上掃除をしたら、ヤバイものまで、その平和な田舎村に漂着してしまうとか。
ギャグかと思ったら、髪の毛の間から覗くいとちゃんの口元は、生真面目にぎゅっと結ばれていた。頬杖をついて、見えない何かをじいっと見つめて、いとちゃんは話し続けている。
そう言えば、と、わたしは思いつく。
たった一か所だけ、綺麗にしていない場所があった。
梟荘の、アンタッチャブル・エリア。
「いとちゃんの部屋も、掃除したいな」
と、わたしは言った。
するといとちゃんは、
「そんなことをしたら、大陸がひとつ沈みかねないから止めて」
と、大真面目に切り返してきた。
(いや、いつか絶対に掃除しないとだめでしょう)
密閉された、いとちゃんの部屋。
ヒキコモリの空気が閉じ込められた、たぶん、とっても汚くて、ごたごたしている不健全な部屋。
今は掃除できなくても、いずれは。
(その時は、世界で何か異変が起きるのかな)
若干不安に思ったけれど、すぐにそれが杞憂だと気づいた。
ちらっと見えたいとちゃんの口元が、微妙に笑っていたからだ。
ああ、いとちゃんでも冗談を言うんだ。
ヒキコモリ部屋を掃除したから大陸が沈没するなんて、そんな冗談を。
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