糸を読むひと

井川林檎

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その18・人生がお祭りだということを

 寝苦しい夜は何度も寝返りを打ち、じっとりと湿るシーツの中で必死で目を閉じる。
 夜は嫌いではないけれど、眠れない夜は怖い。ああもうだめだ、起きよう、と踏ん切りがつく時は良いのだが、眠りたい欲はあるのに眠ることができない時が辛い。

 夜の音は異様だ。
 窓の外から聞こえる車の音は、ただ静かに通り過ぎるだけでも秘密を孕んでいるように聞こえる。屋根の上の夜烏の鳴き声は、人生を顧みよと命じているかのようだし、風がたてる物音は目に見えないなにかの合図のように思える。
 
 梟荘の中の音は神秘的で、夜に聴けばぞわぞわと神経が立つようだ。
 廊下の時計の音。
 しいんとした中に密かに続いている、電化製品の微かな息吹。
 締まりの甘い蛇口から零れる滴の旋律。
 
 寝返りを打つ。
 音が追いかけてきて、逃がしてくれない。
 だけど、目を開けてはならないのだ。眠れない夜の闇の中には、なにか見てはならない、気づいてはならないものが浮かび上がっているような気がするので。

 夜明けが近づくにつれて、朝方の透明な涼しさが空気を満たしてゆく。
 しっかりと閉じたまぶたの裏側にも、僅かに薄れる闇が伝わる。

 その晩、わたしが最後に聴いた音は、「こと、ごと、がさ」という、ひとが立てる物音だった。それは、いとちゃんが自室で動いて立てた物音に違いなくて、風情のかけらもない音だった。けれど、その音は奇妙にわたしを安心させた。

 (眠れない夜を過ごしているのは、いとちゃんもだった)
 もしかしたら、眠れない、ではなく、眠らない、というのが正しいのかもしれないけれど。

 とにかく、この濃厚な寝苦しい夜に、ひとりで取り残されていたわけではないと知った瞬間、体はふわっと軽くなり、じっとり湿って不快だった肌は、いきなりさらっと心地よくなった。意識する間もなく眠りの中に落ち込んでしまったようで、次に気づいた時は、遅い午前の10時過ぎだったのである。

**

 窓をあけて寝ていたから、目覚めた時、レースのカーテンがひらひらそよいでいるのが真っ先に目に入った。
 タオルケットが寝乱れていて、辛うじておなかに乗っかっていた。せっかくの、一番気持ちの良い時間帯を、わたしは見事に寝過ごしていたのだった。

 10時過ぎだ。
 枕元の目覚ましを睨んで伸びをした。
 何で目覚めたんだっけ。目覚ましの音じゃない。わたしときたら、目覚ましが6時に一生懸命鳴っていたのに、全く気付かず眠り続けていたのだ。じゃあ、何の音で目覚めたんだろう――確かに、大きな物音ではっとして、だらだらした眠りから現実に戻ったのだ。

 何の音だったろう、とぼんやり考えている側で、ぶいんん、という、バイクの音が遠ざかった。それでやっと思い当たった。
 郵便屋さんだ。
 郵便受けが、ごとんと派手な音を立てたから、やっと目覚めることができたのだった。

 郵便物。ダイレクトメールなら、しょっちゅう送られてくる。
 手紙をくれる友達なんか、わたしにも、いとちゃんにもいないはずだ。けやきの叔母さんのうちからは、こないだ暑中見舞いが届いたばかりだ。
 しいちゃん――ではない。
 あのこは、手紙やハガキを送るようなひとではない。

 (どうせ大したものじゃない)
 と、頭では思っていたけれど、心が猛烈にかぶりを振っている。

 すごくおかしなことだけど、わたしは霊感がないくせに、変な直感はよく働く。例えば電話が鳴って、それが待ち望んでいる知らせの場合、胸がわくわくする。逆に、嫌な内容の電話なら、ずっしりと重い空気を感じるのだ。
 今届いた郵便物は、ダイレクトメールではないと思う。
 妙にざわざわした気分だった。梟荘の前にある、洒落た赤い郵便受けを思い出す。あの郵便受けは蓋をあけて閉じる時、妙に重たい音を立てるのだ。
 今、あの赤い郵便受けの中に、なにか特別なものが届けられた。
 直感が、そう告げていた。

 Tシャツと短パンで、サンダルをつっかけて玄関の外に出た。目につきささるような直線的な日差しだ。今日も恐ろしい程晴れるだろう。蝉がなきわめいている。まだ住宅街は朝の名残の静かさが続いているが、もうそろそろ小学生たちが麦わら帽子をかぶって飛び出してくる頃だろう。

 良い知らせなのか、そうではないのか、とんと分からなかった。
 ぞわぞわするようであり、わくわくするようでもある。見たいような、見たくないような。

 赤いつやつやとした郵便受けの蓋を開くと、ぺろんとハガキが一枚放り込まれていた。
 その時、とんとんと足音が近づいて、玄関口からいとちゃんが顔を出し、うわあ暑い最悪、と呟くのが聞こえた。
 
 わたしはハガキを取り出し、そのヘンテコな絵葉書の絵を眺め、表書きを確かめ、なんとも言えない気持ちになった。
 
 「ゆめちゃんの、お母さんからだね」

 いとちゃんが、相変わらずの不思議っぷりで、そう言った。まるで先に郵便受けの中身を確認したかのように。

 わたしはハガキが手に振り向くと、無言で頷いて見せた。いとちゃんが眠たそうな顔で目をすぼめている。
 いとちゃんも、今やっと起きたんだろう。寝起きのがらがらした声で、言った。
 
 「食パン焼いた。マーガリンもあるから、食べようと思って」
 ゆめちゃんも、食べる?

 とりあえず、中に入ることにした。

**

 愛する大事な子、ゆめちゃん。
 お母さんは元気です。こちらは毎日が素晴らしく、人生がお祭りそのもののようです。
 というより、きっと、もともと人生ってお祭りなのかもしれない。お祭りの中で生きているくせに、なぜか感覚が麻痺してしまって、屋台の不思議な彩や、心が躍るような賑わい、その時しか味わう事ができない奇妙な食べ物の味の、素晴らしさをすっかり忘れてしまうのね、人間って。
 お母さんは、お祭りの美しさ、楽しさ、素晴らしさに、改めて気づかされています。
 そっちは夏よね。おなかを出して寝たり、アイスばっかり食べてちゃ駄目よ。
 それから、大学の学費はちゃんと払っているから心配しないでいいからね。
 
 追伸。秋位に一度、日本に戻ってみようかな。すぐにまた国外逃亡するけれどね。元気でね。勉強しなさいね。いとちゃんと仲良くね。デブになっちゃだめよ。じゃあね。愛しています。 お母さんより。

**

 バリ島ちっくな風景の写真がついた絵葉書――バリ島じゃなくて、もっとマイナーな島なのだけど――に、乱雑に書き込まれた母のいい加減な字。
 コーヒーのにおいを嗅いで、ちょっと気持ちを落ち着かせた。
 暑中見舞いである。母からの。

 向かいでパンをむさぼっているいとちゃんに、ハガキを渡した。
 ものすごく辺鄙な南の島からここまでたどり着くまでに、いろいろなことがあったんだろうと思わせるような傷み具合だ。角は折れているし、紙全体がうっすら黄ばんでいる。文字のインクはところどころ滲んでいて、もしかしたらハガキは、雨風に晒されていた時期があったのかもしれなかった。

 いとちゃんはパンを右手に持ち、ハガキを左手に持って、口をもごもごさせながら、表と裏をじっくりと眺めた。
 真っ暗な目が何を思っているのか、まるで分からない。いとちゃんは何度も何度も表と裏を眺めて、やがてパンを一枚全部食べ終わってから言った。

 「凄いな。訳が分からないところがまた、只者じゃないよ。わざわざこんなハガキを送る必要が、果たしてあるんだろうか」

 いとちゃんらしからぬ、まともな意見だったので、ちょっとおかしくなった。
 半分笑いながら、わたしも、うんそうだね、と言った。

 テレパシーで嫌もウンもなく、自分の思いをこっちに送りつけてくるような母だ。
 こんな、各国の郵便屋さん泣かせの郵送物を、遙か南の島から送ってくるようなことをしなくても、母ならば一瞬で、言いたいことを正確にこちらまで伝えることができる。むしろ、ハガキのほうが、言いたいことが分かりにくい位だ。

 文字になった母の言葉を読むと、この人が何をしたいのか分からなくなる。
 一体、この人は近況報告をしたいのか、わたしをスピリチュアル方面に勧誘したいのか、親らしくしたいだけなのか。
 どれもこれも、見事に的外れのような気がした。

 (愛する大事な子を、ある日いきなり放り出して、変な島に旅立つやつがあるかい)

 しょっぱなから、突っ込みたいハガキである。
 いとちゃんはしかし、感慨深そうにハガキを眺めていた。じっくりと味わうようにハガキを見ていたが、やがて名残惜しそうにわたしに返してくれた。

 
 「人生はお祭り」
 いとちゃんは呟いた。それから、あっと目を見開いた。
 わたしも、あっと小さく叫んだ。

 思い出した。このまま忘れて過ぎてしまうところだった。
 
 「今夜、お祭りだったねー」
 「うん、ちょっぴりだけど、屋台も来ると思う」

 この間、公報を見て、へー、お祭りがあるんだと言っていたところだった。
 それはこの地区だけの小さなお祭りだけど、昔から根気よく続けられてきた、夏の大事な行事だった。

 珍しくいとちゃんが目をきらきらさせているので、からかう位のつもりで、わたしは言った。
 「行ってみる、一緒に」
 
 まさか、いとちゃんが頷くなんて、誰が想像できたろう。
 ヒキコモリのいとちゃんが、夏祭りに行くなんて。

 
 「カルメ焼きが、食べたい」
 いとちゃんが小さい子供のように言った。
 その顔を見ていると、わたしまでワクワクしてしまって、今夜の夏祭りが待ち遠しくなってしまった。

 いとちゃん、どれだけぶりの外出だろう。
 色とりどりの屋台。怪しげなテント。胸焼けしそうな食べ物の匂い。
 お祭りの原色の光が脳裏に浮かんで目がちらちらして、祭囃子の音まで聞こえる気がした。

 そしてわたしは、うっすらと気づいたのである。
 
 うっかり忘れたまま、通り過ぎてしまっていたかもしれない、小さなお祭り。
 それを思い出させてくれたのが、母からの絵葉書。今日、このタイミングで届けられた、一枚の紙切れ。

 
 もともと人生って、お祭りなのかもしれない。
 遠い南の島では、毎日がお祭りみたいなのかもしれないな。
 
 (思い出させてくれて、ありがとう)
 今日がお祭りだってことを。

 心の中で呟いた。
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