糸を読むひと

井川林檎

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その22・いつか梟荘を去る日

 あさって、叔父ちゃんがけやきのうちに帰る。
 今のところ、容体が変わった等の悪い知らせはまだ来ない。
 だけど、わたしもいとちゃんも、コチコチと時を打つ秒針を苦痛に感じるほど、近い未来に来るその知らせを待っていたのだった。

 その日が近づくにつれ、いとちゃんはいつもより二割増しブスっとして、目の下の隈も酷くなってきた。
 深夜の「糸を読むひと」のお仕事も、続けているのだろうな。このところ、ふっと夜に目が覚めて、そのまま眠れなくなってしまった時、ふらふら廊下に出てみると、決まっていとちゃんの部屋から明かりが漏れていた。
 (どんな悩み相談を引き受けているんだろう……)

 いとちゃんの仕事ぶりには興味があったが、気になるほど口に出せないのは、わたしの昔からの癖である。
 頑固なのよねゆめちゃんは、と、かつて母から言われたことがあったけれど、悔しいけれど、そこは認めなくてはなるまい。わたしは頑固なのだった。興味があったり、惹かれたりすることに、素直に手を伸ばすことができない。そして、世間体やらお金やら、その他いろいろな理由を優先し、まったく別の方向に足を踏み出してしまうのだった。

 マイパソコンで検索してみると、今や「糸を読むひと」はまとめサイトに取り上げられるほどの人気ぶりとなっていた。滅多に返信がない、悩み事をえり好みするというのは変わらないが、恐らく毎日、相当量のメールがいとちゃんの元に送られてくるのに違いなかった。
 無数のメールの中から、いとちゃんなりの基準で選び出し、ちょちょいと「糸」を操って、悩み事を解決する。
 きっといとちゃんを疲労させているのは、「糸」を操ること自体ではなく、やたらめったら送りつけられる、悩み相談の依頼メールなのに違いないと、わたしは思う。

 
 コチコチコチコチ。
 梟荘の廊下の壁時計が時間を刻む。
 朝が来て、昼を過ごし、また夜が来る。生者の世界は常に時間を刻む。刻む、という表現はよく言ったものだと思う。野菜を刻んでゆく――きゅうりをコトコトと包丁で薄切りして行くと、残りの切られていない部分がどんどん小さくなってゆく。
 きっと、生きるってそういうことだ。
 (叔父さんだけではない。たった今、わたしもいとちゃんも、時間という包丁に刻まれている最中なんだ)

 ごはんを食べて、お風呂に入って。
 今日もいよいよ終わろうとしている。カウントダウンだ。
 自室でノートパソコンを覗き、就職活動関係の情報収集やら、「糸を読むひと」のまとめサイトやら、節操なくネットサーフィンしていたら、こんな時間になった。やはり自分のパソコンがあると気分が良い。高価なものだが、買って良かったとつくづく思う。

 パソコンの電源を落とし、頬杖をつき、なんとなくぼうっと思考を漂わせた。
 叔父さんにまつわることを考えていたはずが、やがて色々な方向に思考が飛び火して行き、例えばあの、すごくおかしな「しいちゃん」のことをちょっと考えたりもした。

 しいちゃん。
 夏休み前まで、あれほど心を焦がして彼女のことで傷ついたり腹を立てたりしていたのに、こうやって離れてしまうとまるで関係がなくなってしまうのだ。もちろん、しいちゃんからメールや電話が来ることはない。
 もしわたしが、もっとお尻が軽くて、バイトやサークルをしているような子だったら、友達が少ない夏を憂うのだろう。梟荘の中で家事をし、時々図書館や単発バイトをするだけの夏休みを、恥ずかしいと思ったかもしれない。
 お陰様でわたしは、ずっしりと重たい尻を持っているので、一人の時間を過ごすことを誰かに笑われたり、他人様と自分を比べて惨めになることはなかった。ただ、わたしの心の中には確かに、人と競ったり、友達とわいわい楽しく過ごすことに憧れている部分があって、その部分が時々しいちゃんを求めて暴れるのかもしれなかった。

 (夏休みが終わって大学に通うようになったら、またわたしはしいちゃんの言動に翻弄され、悩むようになるのだろうか)
 考えようとして、やめた。
 大量のかえるが鳴く声を聞いていると、今はこのぼんやりとしたぬるま湯の時間に沈んでいる心地よさを味わいたい、そうするべきだと思えた。

 (お休みは良いよな……)
 揺蕩う時間のぬるま湯の中を、自分らしく好きなように、手足を伸ばして浮かんでいられる。
 人生がお休みのようなものなら、どんなに良いだろうと思った。

 そろそろ消灯しようと思った時、軽くノックされた。
 いとちゃんが部屋まで来るなんて初めてだったので、仰天しつつ、扉を開いた。
 昼も夜も変わらないジャージ姿のいとちゃんが、ぶすっとして顔色の悪い顔で、そこに立っている。
 
 部屋に入んなよ、と言ったが、いとちゃんはその場から動かなかった。
 「明日さー、……に、行こう」
 いとちゃんは言った。

 それは、梟荘から歩いて行ける距離にある、ここらでは最も高いビルの名前だった。
 会社やお洒落なお店や食べ物屋のテナントが入っている、ガラスが張り巡らされたビルは、昼間通り過ぎるといつも空を映し出していて、綺麗だった。夜は町の光を映して、まるで飾られた巨大なお墓のようだ。

 そのビルの展望室に行きたいと、いとちゃんは言った。
 今はいとちゃんの我儘をできる限り聞いてあげなくてはならないと思っているので、一も二もなく、オーケーした。
 高層ビルの展望室から町を眺めたいこともあるのだろう。
 それにしても、夏祭りに行ったり、床屋に行ったり、ビルの展望室に行ったりで、いとちゃんは既に半分、ヒキコモリではなくなりかけている。

 「自販機もあるから、何か買って、見下ろしながら飲もうか」
 わたしが言うと、いとちゃんはちょっと鼻に皺を寄せた。笑ったらしい。
 そうだ、これはピクニックだ。高層ビルの展望室でピクニックをするのだ。

 「コンビニでサンドイッチも買っていこう」
 いとちゃんは言うと、一人で勝手に頷いて、バタンと扉を閉めたのだった。

**

 世にも悲しい夢を見た。

 無数に絡み合う糸。
 それを、慎重に摘み上げ、ねじれをほぐし、そうっと引っ張って絡みを取り除く「糸読みびと」がいる。

 あらゆる事象は糸でつながっているので、糸を操作する時は慎重にならねばならない。
 暗闇の中を光る糸。雑多な人ごみの中を漂う糸。必ずどこかに繋がり、関連している糸たち。

 糸読みびとのいとちゃんは、そんな「糸」を見ることができるだけではなく、複雑怪奇に絡んだ糸たちが、どこでどうなって、どう関連し合い、最後にはどこに繋がっているのかを読み解くことに長けている。
 いとちゃんの白い指が糸をそうっと摘み上げ、すうっと引き寄せる。
 すると、かけっこでビリばかりとっている少女が、どういうわけか次の運動会では調子が出て、一位になる。
 
 いとちゃんはふわふわと漂う糸にふうっと息をかけ、微妙に向きをかえる。
 すると、ある家の、おなかの大きな母犬から生まれる仔犬の中に、一匹だけ、純白の美しい雌ができる。その犬だけがその家に残され、子どもたちに可愛がられることになる。他の犬たちはちりぢりに貰われて行くのだ。

 地球の裏側の国で起きる出来事から、明日のメニューに至るまで、いとちゃんにできないことはない。
 だけど、肝心のことは、どうしても触れることができない。

 糸。
 白く輝く綺麗な細い糸の行き先が、闇の深淵、別の時空に続いている場合。

 いとちゃんは糸を手繰り寄せる。
 手繰り寄せ続ける。
 今にも切れそうな繊細な糸は、少しずつ少しずついとちゃんに巻き取られて行くけれど、やっぱり、先端は未だに闇の中だ。闇に続いている糸、冷たい死に続いている糸。

 どんなに操っても、もう、絡まる糸もなければ導かれる事象もない。
 
 そういう糸に限って一層美しく、朝日に輝く蜘蛛の糸のような儚さなのだった。
 
**

 高層ビルの展望室は六角形になっていて、時間が早かったのもあり、人はわたしたち以外いなかった。
 その日は休日だから、ビルのオフィスたちはだいたいお休みのようだ。展望室の下の階が、ちょっとこじゃれたイタリア料理店になっている。

 時刻は、午前9時。
 ビルのお店が開店しだすには、まだ間があった。

 町並みを一望できる場所で、いとちゃんは無心に窓の外を眺めた。
 手すりのパイプに腰掛け、横顔で睥睨している。片手には、さっき一階で買ったグレープフルーツジュースが握られていた。
 
 「ここ、来たことあるの」
 今更ながら意外に感じて、わたしは聞いてみた。
 いとちゃんは糞真面目な顔で頷いた。
 「小さい時、家族で来たことがあった。まだビルができたての時で、ここにも大勢の人が詰めかけていた」

 展望室は微妙に揺れていた。
 外は風が強いのかもしれない。地上何十メートルだろう。空中ピクニックだ。

 しばらくジュースを味わう時間が過ぎた。
 わたしもいとちゃんも、手すりに座り込んで、ただぼうっと小さく見える町の世界を眺めていた。
 
 ふいにいとちゃんが、あのあたりに梟荘がある、と指さした。
 指さした方向は確かに住宅街になっていて、一際地味な色合いが寄せ集まっている。さすがに梟荘がどの屋根なのかまでは分からなかったが、なるほど、そのへんにあるだろうなと、わたしは頷いた。

 「父さんが死んだら、遺産の問題に直面する」
 こつん、と、冷たい音がするような言葉だった。

 わたしはジュースを片手に、唖然といとちゃんを見つめた。いとちゃんは、つい最近カットしたばかりの小奇麗な髪の毛を手で払った。

 ああ、いとちゃんは、別に欲や冷たい心でこんなことを言っているわけじゃない。
 現実問題として起こることを、淡々と連ねているだけだ。ひとはよく、こういうことで誤解をしたがるものだけれども。

 「梟荘はね、わたしのものにはならないと思う」

 いとちゃんは、はっきりと予言した。
 わたしは黙って聞いていた。手すりに腰掛けてぶらぶらする足元。その足元が、ぽっかりと口をひらき、空虚な闇を覗かせている気がした。

 けやき家の人々はいとちゃんに甘く、梟荘でのヒキコモリ一人暮らしを擁護しているようだけれど、遺産となると、話が違ってくるのだろう。
 わたしは妄想を走らせる。

 けやきのうちのお姉ちゃんたちの誰かが、この梟荘を相続するのか。
 梟荘は平屋建てで広々として、レトロでありつつ、使い勝手の良い家だと思う。この家を入手したら、お姉ちゃんたちはどうするのだろう。

 リフォームして、貸家や旅館にするのか。
 あるいは、自分たちが結婚して所帯を持った時、そこに住むのだろうか。

 もちろん、そうなる前まで、お姉ちゃんたちは、いとちゃんが梟荘に住むことを許すだろう。
 いずれ、出てゆかなくてはならない仮の住処。
 梟荘は、終の棲家ではないのだった。

 「自分のできることでお金を稼いで、生きて行かなくちゃいけない」
 いとちゃんは、かみしめるように言った。
 できることで。

 「できないことをしようとしたところで、体や心が壊れてしまう。それは違う」
 わたしは、わたしの居場所を作りたい。

 いとちゃんはそう言うと、真っ黒い目でわたしを見つめたのだった。

 
 わたしは、いとちゃんの黒い目の奥に、永遠に続く「休暇」を見たような気がした。
 それは穏やかな海のように優しく煌めいていて、どこまでも果てしなく漂ってゆけそうだった。
 人生がお休みのようなものなら、どんなに良いだろうと、確かにわたしは思っていた。一方で、そんなことは実現しないと撥ねつけるように思っていた。

 いとちゃんの中に、その、奇跡的な「休暇」が広がっているのを、わたしは見た。
 できることをするだけだから、振り回されることも、苦しむこともない。


 「ゆめちゃんは、いつか、わたしの仕事を手伝う事になるよ」
 いとちゃんは予言した。

 「糸を読むひと」の仕事を、わたしが手伝う事になる……。


**

 いつか、梟荘を出て、二人でどこかの部屋を借りて、そのビジネスを始める。
 「糸を読むひと」というビジネスを。

 悩み相談は有料だけど、どんなお悩みも無条件で受けるという訳ではない。中には、どうしても糸の操作が叶わないことも、あるのだから。

 
 そんな妄想が頭に浮かんだ時、どこからか、あのバリ島ちっくなちゃんちきりんこんという音楽が降って沸いたような気がした。母が満面の笑顔でその妄想を祝福してくれている。いいわねゆめちゃん、母さんそれ賛成。やんなさい……。

 (そんなに上手くいくもんか)
 頑固な糸出ゆめは、その妄想を一瞬にして捻じ伏せる。
 
 スーツを着て、就職活動をして、貴重な内定をもらって、やがて会社に勤めるようになる。
 そう考えるだけで、息苦しく、切なくなるようだ。自分には絶対に向いていないと知っているので、想像するだけで、涙が出そうになる。

 いとちゃんと、見えない糸を操る、とても変わったお仕事をする。
 実現したら、人生が夏休みのようになるだろうか。
 わたしは茫然と、町並みを見下ろした。


 プルルルルル。
 不意に、携帯が鳴り始める。
 どきりとして、わたしはいとちゃんの横顔を見つめる。

 いとちゃんは目を伏せ、ジュースを口に運んだ。それは、現実に立ち向かおうとするポーズなのかもしれない。

 バッグから携帯を出す。
 叔母さんからだ。

 (ああ……)


 既にその電話が、どんな内容なのか知りつつ、わたしはゆっくりと携帯を耳に当てた。
 「もしもし叔母さん、どうしたの……」



 (そうだ。永遠の夏休みを手にする前に、現実の中を通り抜けなくてはならないのだ)
 梟荘の壁にかかっている、二着の喪服を思った。
 一着は母ので、いとちゃん用。
 もう一着は、わたしの。

 手すりに乗せた膝の裏は、すでにじっとり汗ばんでいる。
 わたしは叔母さんの声を聞きながら、香典はいくらにすべきだろうかとか、これからいとちゃんが味わう苦しみの事を考えたのだった。
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