博士の世界ブドウ化計画

先川(あくと)

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 アドルフ所長は、所長室のやわらかいソファーに腰掛け、今しがた送られてきたシュナイダー博士の勤務履歴に目を通していた。眼鏡の奥で揺れる瞳がいかにも神経質に見えた。
 彼はファイルを目に通すだけでも、自分の老いを実感しなければならなかった。一ページめくるごとに指を舐めなければならないことが惨めだった。
 それでも彼は根気強くファイルを手繰り、シュナイダー博士が、生涯にわたって何を成し遂げてきたかを確認した。彼のキャリアは長く、概要に目を通すだけでも一苦労だった。
 アドルフ所長は恐ろしい顔をしながら、ときおり落ち着かなさそうに口ひげをつまんだり、ねじったりした。知性と野性味を兼ね備えた彼の自慢の口ひげだった。
 誰だって心が不安的なときにはそういうものを弄びたくなるものだ。
 アドルフ所長はシュナイダー博士のことを思い浮かべ、今日こそは心を鬼にするぞ、と誓った。

 それからもう一度、彼の勤務履歴に目をやった。
 ため息が出た。
 優秀だ。優秀すぎる。どんなに業界に疎いものでも、彼の経歴を見ればそう思わずにはいられないだろう。
 十六の年に飛び級でベルリン大学に入学。二十歳の年にはアメリカにある国際植物研究所に留学している。植物遺伝子工学の大家であるロマン博士のもとで、サメの遺伝子を植物に植え込み、最強の免疫力を持った植物を作り出すことに成功していた。
 シュナイダー博士ほどの人材は、ヨーロッパ全土を見渡しても見つからないだろう。それゆえにアドルフ所長は彼を野放しにしすぎていた。
 コンコン。
「失礼します」
 所長室のドアが開かれ、シュナイダー博士が入ってきた。無頓着なボサボサ頭に、人のよさそうな丸眼鏡。白衣には、いつぞやの昼食に食べたパスタのソースがこびりついている。
 白衣の下に着たワイシャツもよれよれだったが、首元の蝶ネクタイがすべてを帳消しにしていた。ピンク色の水玉模様がついた、とてもチャーミングな蝶ネクタイ。
四十を超し、研究者として脂が乗り始める時期だったが、シュナイダー博士はいつも謙虚さを忘れなかった。それでいて、他人に劣等感を抱かせない。
 シュナイダー博士は研究者としても、人間としても申し分なかったが、アドルフ所長にとっては今や頭痛の種だった。
「お疲れさま。呼び出して悪かったね」
「とんでもありません。それで、用というのは」
 シュナイダー博士は恐る恐る聞いた。朝から所長室に呼び出されたことに、何か不穏なものを感じているようだった。

「ああ、君はここにきて何年になるかね」
 アドルフ所長は重々しい口調で言った。生まれてきたときから、経験豊富な所長であるかのような口調だった。
「今年で十年になります」
「私も今君の勤務記録を見ていたところだ。君はここにきて十年。決して勤務態度も悪くない。研究にも熱心だ。しかし、どうだろう、君は自分の研究というものに疑問を抱いてはいないかね」
「そんなことはありません。私はヒマワリの研究にやりがいを感じています」
「やりがいを感じるのは結構だが、今日ははっきり言わせてもらおう。君の研究には……」
 アドルフ所長はそこで言葉を切り、高級腕時計を撫でつけた。それから、秘書を呼びつけ、所長室の花瓶に水を変えるよう指示した。そうやって、所長としての威厳をたっぷり見せつけたあと、シュナイダー博士に言った。

「君の研究には野心が足りない!」

「野心ですか!?」
「そうだとも、君がここにきてからしたことと言えば、毎日、ヒマワリに水をやって、種を採取して、その成分を調べ、肥料や日照時間を調節する。それだけだ!! ほかにすることと言えば、遺伝子を少々いじるか、周りの研究員に知恵を貸してやるだけ。そんなことをして何になるというんだ!!」
「それはプレゼンでも言った通り、大きいヒマワリを作ろうと」
 シュナイダー博士は日夜、大きなヒマワリを作ることに苦心していた。
 より大きなヒマワリは人々をより笑顔にさせるからだ。
「私だって大きなヒマワリは大好きだ。ふと公園やなにかで大きなヒマワリを見かけたときは思わず微笑んでしまう。しかし、そんな研究では予算が下りないではないか!」
 シュナイダー博士ははっと目を見開いた。
 そのことに関して、今まで考えたこともなかったという表情だった。
 アドルフ所長は今日どうしてもそのことをシュナイダー博士に告げなければならなかった。
 アドルフ所長は信号無視もしない善良な市民であったが、こと予算に関しては非常に冷徹な一面を持っていた。
 彼は予算を取り付けるためなら、多少のハッタリはやむを得ないと信じていたし、予算のためなら政界への根回しも忘れなかった。
 彼は予算をより多くとることが、自分の存在意義であると考えていた。
 予算が前年よりも少ないときには、真っ先に自分の給料を減らして帳尻を合わせ、予算が前年よりも多いときは、それが消化しきれるかどうか不安で、一睡もできない夜が続いた。
 彼の予算への執着はいささか度が過ぎていたが、シュナイダー博士の経歴に圧され、今までそれを言えずにいたのだ。
 あるいはシュナイダー博士の作るヒマワリが、燃えるように美しかったせいもある。日輪の花という言葉がぴったりの、光が差したように心が暖かくなる花。
 確かに、ヒマワリを大きくするのは素晴らしいことには違いないが、予算の面ではややインパクトに欠けるのだ。
 シュナイダー博士のことだから、そんな研究であっても今に大変な発見をするのではないかという期待もあった。
 しかし、シュナイダー博士は着実にヒマワリを大きくしていくばかりで、それは人々をより笑顔にする以外、何の成果ももたらさなかった。

「私の作るヒマワリは今や直径百二十センチを超える勢いでして……」
「黙るんだ!! いいか? この研究所は国からの予算によって成り立っている。予算が下りなければ新しい機材を買うこともできない。本来であれば、君にはもっと野心的な、人々が先を争って投資したくなるような、そんな研究をしてもらいたいんだ」
「はあ……」
「とにかく今日からヒマワリの研究は中止だ。君には三日以内に新しい研究を始めてもらいたい。野心的で、誰もがワクワクするような研究をね。今日はもう帰りたまえ」
「わかりました」
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