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第三章 重板(じゅうはん)
七
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二人は、手がかりを元に、南に下った。横十間川に沿う形で堅川を渡ったところで、東に向かう。
行き先は天恩山羅漢寺だ。
五百羅漢で有名なこの寺は、開基こそ正徳三年(一七一三年)であるが、その十年以上前に徳川綱吉から羅漢寺の号と一五〇〇石の寺地を賜っていた。仏師松雲が作りはじめた五百羅漢はその時点でほぼそろっており、綱吉が自ら羅漢像を設置したと言われる。
三匝堂と呼ばれる三層の堂宇が有名で、螺旋状の階段がつづくことからさざえ堂とも言われて、葛飾北斎はここから見た富士山を浮世絵に描いている。
小屋に残っていた紙切れには、羅漢寺の裏手に彼らの住み処があることが示されていた。おそらく版木も隠されているはずだ。
蔵之介と三左衛門は北側から羅漢寺の裏に回った。
「あそこか」
雑木林を背にして、農家を思わせる屋敷があった。手入れは行き届いており、生け垣も綺麗に整っている。
単なる町民が、このような家を手にできるとは思えない。
誰かが背後にいる。場所と資金を手配した人物が。
それが今回の黒幕だ。
「押し込むぞ。早いうちに終わらせる」
蔵之介は周囲を見回す。
日は沈みかけていて、西の空にわずかな光が残っているだけだ。視界に収まる山影も小さくなる一方で、間もなく周囲は闇につつまれるだろう。
その前に決着をつけないと逃げられる。ここで最後にしたい。
蔵之介は屋敷に近づく。
声をかけるかどうか迷ったところで、戸が開いて、三人の男が姿を見せた。
右は三郎で、左は四郎だ。四郎は布で腕を吊っていた。
真ん中の男ははじめて見る。
背が高く、痩せている。髪は惣髪で、着物は鉄紺の小袖だ。
目付きはおそろしく鋭い。にらみつけただけで、人を殺せそうだ。
「おぬしが親玉か」
「弟たちが世話になったな」
蔵之介の問いに、男が応じる。思いのほか高い声だ。
「俺は一郎。こいつらの兄貴で、欺書堂の主だよ。お前の言うとおり、俺たちで例の重板を作った。そして、これが新刊だよ」
一郎は、懐から冊子を取りだして振ってみせた。
「為永春水が昔々に作った話さ。こんなのが埋もれていたとは驚きだね」
「なぜ、重板を作る? 誰かに頼まれたのか」
「違うね。俺たちは作りたくて作っているのさ」
一郎の言葉に、三郎と四郎も同時にうなずいた。
「何のために、こんなことをするのか」
蔵之介は問うた。
「あの技量があれば、江戸に出て来て、どこぞの版元に雇われてもやっていけたはず。いや、うまくやれば、版木師として独り立ちして、好きなだけ儲けることもできた。なのに、なぜ、そうしなかった」
「それが嫌だったからに決まっているだろう」
一郎の語気が鋭さを増した。強烈な視線が蔵之介を射抜く。
「人に使われてたまるかよ。俺たちは俺たちのやりたいようにやる。おもしろいと思った本があれば出すし、おもしろいと思った戯作者がいれば拾いあげて好きなように書かせて刊行する。重板だって類板だってやってやる。日の目を見られない話があれば、俺たちの手で天下に問うてやる」
「それは、掟に反する。重板は罪だ」
「勝手なことを言うな。好きに掟を作って、我らを縛っているのは江戸の版元であろうに」
一郎は腕を振るう。
「俺の父親は、宇都宮で貸本屋をやっていた。江戸から流れてくる本を仕入れ、宿場の客に貸していた。親父はいい本を欲しいと思っていたが、遠く離れていることもあり、いい物は入ってこねえ。来ても何ヶ月も遅れる始末よ。客にそのことを言われるたびに、ひどく悔しい思いをしていた。だから、自分で出した。いい書き手を見つけて、絵師もそろえて、八犬伝に負けねえような大がかりな話を。版木は俺が彫った。仕上げをしたのは、弟たちよ」
「……」
「うまくいったさ。だが、ようやくこれからというところで、江戸から版元が来て、これは類板だと言い出した。この巻のここの部分が似ているってな」
一郎の声は激しさを増した。蔵之介を見る目も鋭い。
「冗談じゃねえ。合戦を扱った話になれば、少しぐらいは重なるところが出てくる。刀を抜かずして、どうやって戦えって言うんだ。そこに難癖をつけて、似ているから駄目だとぬかす。親父は懸命に抗ったが、最後は押しきられたよ。版木は差し押さえられて、燃やされた。その場に俺たちは立ち合ったよ」
三郎と四郎の顔が歪む。往事を思い出しているのか。
「親父は、それから一年もしないうちに亡くなっちまった。何をやっても駄目だといいながらな。俺たちもそう思った。結局は駄目かと」
一郎は手を強く握りしめた。
「だが、忘れることはできなかった。なんだ、俺たちは、江戸の版元に許されなければ、好きに本を刷ることもできないのか。おもしろい話があっても、版元が気にいらなければ処分されるのか」
「……」
「そんなのは認めない。俺たちは俺たちがおもしろいと思った本を出す。皆におもしろいと思ってもらうためにな。だから、今回の重板をかけた。これだけおもしろい本があることを示すためにな」
一郎の声は、夕刻の空に響いた。それは、魂の慟哭であった。
蔵之介が口をはさまなかったのは、彼らの気持ちが痛いほどわかったからだった。
おもしろい本をただおもしろいからと言う理由で刊行する。
それのどこが悪い。
やりたくてやることの何がいけないのか。
掟が何だ。俺たちは今、書きたい。読んで欲しい。
そのために手を尽くすことの何が悪いのか。
掟に反するのはよくないことだ。だが、思いに反して、己のやりたいことをやらないのも駄目なことだ。
蔵之介が作家を目指しているのは、己の素直な思いに従ってのことだ。立場はむしろ一郎たちに近い。
「お前たちを巻きこんだのは悪かったと思っている」
一郎は声の調子を下げて、苦笑いを浮かべた。
「桐文堂はいい本を出していた。人が見逃しそうな草双紙を拾って、うまく江戸市中に広めていたな。漢籍もやっているらしいじゃないか。目についた本から名前を借りてしまったが、すまないことをした。このとおりだ」
一郎が頭を下げると、兄弟もそろって同じようにした。
蔵之介は首を振った。胸がひどく痛い。
「もういいだろう。見逃してやるから、江戸を離れろ。今なら間に合う」
「蔵之介」
三左衛門が口をはさむが、彼は気にかけなかった。
「国に帰れ。そして、二度と重板に手を染めるな」
「ごめんだ。まだ俺たちは親父の敵を討っていない。版木を奪ったあの版元を叩きつぶすまでは踏みとどまる」
「無理だ。おぬしらのことは知られている。すぐに追われるぞ」
「逃げ切ってやるさ。負けはしない」
そこで一郎は笑った。
「あんた、おもしろい奴だな。どうだい、味方につかないか」
「何だと」
「聞いたぜ。本を出したいんだろう。いいぜ、俺が出してやるぜ。あんたか書く話はおもしろそうだ」
蔵之介の心が揺らぐ。
本を出す出さないではない。書いた話がおもしろそうと言われて動揺した。
執筆中の新作もおもしろい。売れるかどうかはわからないが、読んだ者を頼ませる自信はある。
だから読んで欲しい。多くの人の目に触れて欲しい。だが……。
蔵之介は首を振った。
「違う。そういうことではないのだ」
道を外して売ることに、意味はない。
正々堂々と勝負にでて、甚五郎やその他の者の厳しい吟味を経て、ようやく生み出された作品。苦しみながらも、極限まで質を高めた作品。それを世に問うてこそ、欲しい何かが手に入る。そのように思えてならない。
「言うことは聞けぬ」
「そうかい、なら……」
「兄貴、見て!」
三郎が声をあげた。
屋敷を取り囲むようにして、派手な着物の連中が姿を見せた。数は一〇、いや、もっと多いか。
そのうちの半数が抜き身を手にして、屋敷に押し寄せてきた。
一郎が目を剥く。
「何だ、こいつ。もしや、貴様……」
「知らぬ。私は……」
そこで、脳裏に閃きが走る。
甚五郎は、他の書肆がならず者を雇ったと語っていた。下手人を追いつめ、罪を問うために。
ならず者たちは一郎とその兄弟を取り囲み、容赦なく刀を振りあげる。
「くそっ、こいつら」
「やめんか」
蔵之介は両者の間に割って入ると、鉄扇を振るう。
頬をはたかれて、ならず者はあおむけになって倒れる。ついで腕をはたかれた男は、その場で刀を落とした。
「おぬしも仲間か。ならば容赦はせぬ」
ならず者の一人がにらみつけてくる。
「違う。話を聞け」
「問答無用。おぬしも取り押さえる。たとえ、その腕を切り落としてもな」
ならず者は身体をかがめ、強烈な突きを繰りだす。さながら、身体が鉄の玉になったかのようで、すさまじい勢いだ。
肩口を刃がかすめる。
「蔵之介」
「来るな。三左衛門。おぬしは一郎たちを守れ」
蔵之介は鉄扇を持ち直し、ならず者と対峙する。
再びならず者は駆け出し、刃をこちらに向ける。
強烈な突きが肩口に迫ったところで、蔵之介は鉄扇で刃を叩いた。その勢いで懐に飛び込むと、横腹を強烈に叩く。
うめき声をあげて、ならず者はその場に倒れた。
ふっと息をついたところで、三郎の悲痛な声があがる。
「兄貴、行ってくれ。ここはまかせて」
「三郎、すまねえ」
一郎が囲みを抜けて、屋敷から離れる。
ならず者の三人がその後を追いかけたので、あわてて蔵之介もその後に従う。
しばし草むらを駆け抜け、横十間川に出たところで、彼は一郎とならず者が対峙している姿を見かけた。
「やめよ。ここで争って何になる」
彼の声に一郎が顔を向けてきた。笑みがある。
「あるさ。意地をつらぬくことができる。こんな理不尽に屈するかよ」
「だったら、申し開きを」
「聞きはしない。すべてを失うのならば、ここで……」
一郎は駆け出す。渡世人が駆けより、横から刀を叩きつける。
悲鳴があがって、一郎はあおむけに倒れ。そのまま土手を転がる。
その先は川だ。
あっと思った時には、一郎の身体は急流に落ちていた。
「兄貴、兄貴!」
三郎が土手を下って叫ぶが、一郎の姿は見えない。
川の流れは激しく、いっしょに落ちた木の枝はたちまち下流に流されてしまう。
勢いにまかせて、三郎が飛び込もうとしたので、蔵之介は背後から押さえ込む。
「やめろ。お前も流される」
「でも、兄貴、兄貴が……」
三郎の声がむなしく響く。
暗闇が周囲をつつむ。
もはや蔵之介にできることはない。ただ三郎の身体を押さえたまま、激しい川の流れを見ているだけだった。
行き先は天恩山羅漢寺だ。
五百羅漢で有名なこの寺は、開基こそ正徳三年(一七一三年)であるが、その十年以上前に徳川綱吉から羅漢寺の号と一五〇〇石の寺地を賜っていた。仏師松雲が作りはじめた五百羅漢はその時点でほぼそろっており、綱吉が自ら羅漢像を設置したと言われる。
三匝堂と呼ばれる三層の堂宇が有名で、螺旋状の階段がつづくことからさざえ堂とも言われて、葛飾北斎はここから見た富士山を浮世絵に描いている。
小屋に残っていた紙切れには、羅漢寺の裏手に彼らの住み処があることが示されていた。おそらく版木も隠されているはずだ。
蔵之介と三左衛門は北側から羅漢寺の裏に回った。
「あそこか」
雑木林を背にして、農家を思わせる屋敷があった。手入れは行き届いており、生け垣も綺麗に整っている。
単なる町民が、このような家を手にできるとは思えない。
誰かが背後にいる。場所と資金を手配した人物が。
それが今回の黒幕だ。
「押し込むぞ。早いうちに終わらせる」
蔵之介は周囲を見回す。
日は沈みかけていて、西の空にわずかな光が残っているだけだ。視界に収まる山影も小さくなる一方で、間もなく周囲は闇につつまれるだろう。
その前に決着をつけないと逃げられる。ここで最後にしたい。
蔵之介は屋敷に近づく。
声をかけるかどうか迷ったところで、戸が開いて、三人の男が姿を見せた。
右は三郎で、左は四郎だ。四郎は布で腕を吊っていた。
真ん中の男ははじめて見る。
背が高く、痩せている。髪は惣髪で、着物は鉄紺の小袖だ。
目付きはおそろしく鋭い。にらみつけただけで、人を殺せそうだ。
「おぬしが親玉か」
「弟たちが世話になったな」
蔵之介の問いに、男が応じる。思いのほか高い声だ。
「俺は一郎。こいつらの兄貴で、欺書堂の主だよ。お前の言うとおり、俺たちで例の重板を作った。そして、これが新刊だよ」
一郎は、懐から冊子を取りだして振ってみせた。
「為永春水が昔々に作った話さ。こんなのが埋もれていたとは驚きだね」
「なぜ、重板を作る? 誰かに頼まれたのか」
「違うね。俺たちは作りたくて作っているのさ」
一郎の言葉に、三郎と四郎も同時にうなずいた。
「何のために、こんなことをするのか」
蔵之介は問うた。
「あの技量があれば、江戸に出て来て、どこぞの版元に雇われてもやっていけたはず。いや、うまくやれば、版木師として独り立ちして、好きなだけ儲けることもできた。なのに、なぜ、そうしなかった」
「それが嫌だったからに決まっているだろう」
一郎の語気が鋭さを増した。強烈な視線が蔵之介を射抜く。
「人に使われてたまるかよ。俺たちは俺たちのやりたいようにやる。おもしろいと思った本があれば出すし、おもしろいと思った戯作者がいれば拾いあげて好きなように書かせて刊行する。重板だって類板だってやってやる。日の目を見られない話があれば、俺たちの手で天下に問うてやる」
「それは、掟に反する。重板は罪だ」
「勝手なことを言うな。好きに掟を作って、我らを縛っているのは江戸の版元であろうに」
一郎は腕を振るう。
「俺の父親は、宇都宮で貸本屋をやっていた。江戸から流れてくる本を仕入れ、宿場の客に貸していた。親父はいい本を欲しいと思っていたが、遠く離れていることもあり、いい物は入ってこねえ。来ても何ヶ月も遅れる始末よ。客にそのことを言われるたびに、ひどく悔しい思いをしていた。だから、自分で出した。いい書き手を見つけて、絵師もそろえて、八犬伝に負けねえような大がかりな話を。版木は俺が彫った。仕上げをしたのは、弟たちよ」
「……」
「うまくいったさ。だが、ようやくこれからというところで、江戸から版元が来て、これは類板だと言い出した。この巻のここの部分が似ているってな」
一郎の声は激しさを増した。蔵之介を見る目も鋭い。
「冗談じゃねえ。合戦を扱った話になれば、少しぐらいは重なるところが出てくる。刀を抜かずして、どうやって戦えって言うんだ。そこに難癖をつけて、似ているから駄目だとぬかす。親父は懸命に抗ったが、最後は押しきられたよ。版木は差し押さえられて、燃やされた。その場に俺たちは立ち合ったよ」
三郎と四郎の顔が歪む。往事を思い出しているのか。
「親父は、それから一年もしないうちに亡くなっちまった。何をやっても駄目だといいながらな。俺たちもそう思った。結局は駄目かと」
一郎は手を強く握りしめた。
「だが、忘れることはできなかった。なんだ、俺たちは、江戸の版元に許されなければ、好きに本を刷ることもできないのか。おもしろい話があっても、版元が気にいらなければ処分されるのか」
「……」
「そんなのは認めない。俺たちは俺たちがおもしろいと思った本を出す。皆におもしろいと思ってもらうためにな。だから、今回の重板をかけた。これだけおもしろい本があることを示すためにな」
一郎の声は、夕刻の空に響いた。それは、魂の慟哭であった。
蔵之介が口をはさまなかったのは、彼らの気持ちが痛いほどわかったからだった。
おもしろい本をただおもしろいからと言う理由で刊行する。
それのどこが悪い。
やりたくてやることの何がいけないのか。
掟が何だ。俺たちは今、書きたい。読んで欲しい。
そのために手を尽くすことの何が悪いのか。
掟に反するのはよくないことだ。だが、思いに反して、己のやりたいことをやらないのも駄目なことだ。
蔵之介が作家を目指しているのは、己の素直な思いに従ってのことだ。立場はむしろ一郎たちに近い。
「お前たちを巻きこんだのは悪かったと思っている」
一郎は声の調子を下げて、苦笑いを浮かべた。
「桐文堂はいい本を出していた。人が見逃しそうな草双紙を拾って、うまく江戸市中に広めていたな。漢籍もやっているらしいじゃないか。目についた本から名前を借りてしまったが、すまないことをした。このとおりだ」
一郎が頭を下げると、兄弟もそろって同じようにした。
蔵之介は首を振った。胸がひどく痛い。
「もういいだろう。見逃してやるから、江戸を離れろ。今なら間に合う」
「蔵之介」
三左衛門が口をはさむが、彼は気にかけなかった。
「国に帰れ。そして、二度と重板に手を染めるな」
「ごめんだ。まだ俺たちは親父の敵を討っていない。版木を奪ったあの版元を叩きつぶすまでは踏みとどまる」
「無理だ。おぬしらのことは知られている。すぐに追われるぞ」
「逃げ切ってやるさ。負けはしない」
そこで一郎は笑った。
「あんた、おもしろい奴だな。どうだい、味方につかないか」
「何だと」
「聞いたぜ。本を出したいんだろう。いいぜ、俺が出してやるぜ。あんたか書く話はおもしろそうだ」
蔵之介の心が揺らぐ。
本を出す出さないではない。書いた話がおもしろそうと言われて動揺した。
執筆中の新作もおもしろい。売れるかどうかはわからないが、読んだ者を頼ませる自信はある。
だから読んで欲しい。多くの人の目に触れて欲しい。だが……。
蔵之介は首を振った。
「違う。そういうことではないのだ」
道を外して売ることに、意味はない。
正々堂々と勝負にでて、甚五郎やその他の者の厳しい吟味を経て、ようやく生み出された作品。苦しみながらも、極限まで質を高めた作品。それを世に問うてこそ、欲しい何かが手に入る。そのように思えてならない。
「言うことは聞けぬ」
「そうかい、なら……」
「兄貴、見て!」
三郎が声をあげた。
屋敷を取り囲むようにして、派手な着物の連中が姿を見せた。数は一〇、いや、もっと多いか。
そのうちの半数が抜き身を手にして、屋敷に押し寄せてきた。
一郎が目を剥く。
「何だ、こいつ。もしや、貴様……」
「知らぬ。私は……」
そこで、脳裏に閃きが走る。
甚五郎は、他の書肆がならず者を雇ったと語っていた。下手人を追いつめ、罪を問うために。
ならず者たちは一郎とその兄弟を取り囲み、容赦なく刀を振りあげる。
「くそっ、こいつら」
「やめんか」
蔵之介は両者の間に割って入ると、鉄扇を振るう。
頬をはたかれて、ならず者はあおむけになって倒れる。ついで腕をはたかれた男は、その場で刀を落とした。
「おぬしも仲間か。ならば容赦はせぬ」
ならず者の一人がにらみつけてくる。
「違う。話を聞け」
「問答無用。おぬしも取り押さえる。たとえ、その腕を切り落としてもな」
ならず者は身体をかがめ、強烈な突きを繰りだす。さながら、身体が鉄の玉になったかのようで、すさまじい勢いだ。
肩口を刃がかすめる。
「蔵之介」
「来るな。三左衛門。おぬしは一郎たちを守れ」
蔵之介は鉄扇を持ち直し、ならず者と対峙する。
再びならず者は駆け出し、刃をこちらに向ける。
強烈な突きが肩口に迫ったところで、蔵之介は鉄扇で刃を叩いた。その勢いで懐に飛び込むと、横腹を強烈に叩く。
うめき声をあげて、ならず者はその場に倒れた。
ふっと息をついたところで、三郎の悲痛な声があがる。
「兄貴、行ってくれ。ここはまかせて」
「三郎、すまねえ」
一郎が囲みを抜けて、屋敷から離れる。
ならず者の三人がその後を追いかけたので、あわてて蔵之介もその後に従う。
しばし草むらを駆け抜け、横十間川に出たところで、彼は一郎とならず者が対峙している姿を見かけた。
「やめよ。ここで争って何になる」
彼の声に一郎が顔を向けてきた。笑みがある。
「あるさ。意地をつらぬくことができる。こんな理不尽に屈するかよ」
「だったら、申し開きを」
「聞きはしない。すべてを失うのならば、ここで……」
一郎は駆け出す。渡世人が駆けより、横から刀を叩きつける。
悲鳴があがって、一郎はあおむけに倒れ。そのまま土手を転がる。
その先は川だ。
あっと思った時には、一郎の身体は急流に落ちていた。
「兄貴、兄貴!」
三郎が土手を下って叫ぶが、一郎の姿は見えない。
川の流れは激しく、いっしょに落ちた木の枝はたちまち下流に流されてしまう。
勢いにまかせて、三郎が飛び込もうとしたので、蔵之介は背後から押さえ込む。
「やめろ。お前も流される」
「でも、兄貴、兄貴が……」
三郎の声がむなしく響く。
暗闇が周囲をつつむ。
もはや蔵之介にできることはない。ただ三郎の身体を押さえたまま、激しい川の流れを見ているだけだった。
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