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第一話 切腹って痛いんだろうなあ
二之二
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五郎が道場の片隅に座ると、拓之進も腰を下ろした。その目は穏やかだ。
「旗本奴は知っているか」
「聞いたことはあります。ただ、何をやっているのかは知りません」
「江戸の暴れん坊だよ。あちこちで悪さをしては、町の者に迷惑をかけている。斬りつけられた者もいるぐらいだ」
五郎は顔をしかめる。
今は、神君徳川家康公が江戸に幕府を開いてから、およそ五十年が経った承応元年。大坂の陣、島原の乱を経て、ようやく天下は落ち着き、泰平の世を迎えようとしている頃合いだった。
将軍徳川家光は昨年、亡くなり、江戸ではちょっとした騒ぎも起きたが、大きな乱にはならず、無事、四代将軍家綱の治世がはじまっていた。
合戦の時代は終わり、この先も平和な時代がつづく。それは多くの民にとっては好ましいことであったが、一方で、武家は戦働きでの手柄を立てられず、鬱屈した思いを抱く者も多くいた。若い者にそれは多く、憂さを晴らすため、彼らは江戸の町でさんざんに暴れた。派手な羽織を着て、徒党を組んで闊歩し、気に入らないことがあると、喧嘩を売りつけて、さんざんに叩きのめした。商家に殴り込んで、金品を奪い取ることも珍しくない。
暴れ回っている武家は、旗本の子弟が多く、それ故に旗本奴と言われる。
一方で、同じように鬱屈して暴れ回る町民もおり、彼らは町奴と呼ばれた。二年前に殺された幡随院長兵衛がよく知られているが、他にも、唐犬権兵衛、夢市郎兵衛といった輩がおり、神田、日本橋界隈で、さんざんに悪さをしている。
旗本奴と町奴は仲が悪く、顔をあわせると、すぐに喧嘩となる。先日も、御徒町の手前で、唐犬権兵衛の一党が旗本の一団とぶつかり、町方が総出で駆けつけるほどの争いとなった。
「うちに来たのは、八代三四郎とその一党だ。三四郎は小諸青山家につらなる者で、八年前に旗本八代家に養子に行った。次期頭領として重く遇されているのに、手のつけられない暴れん坊で、神田界隈でさんざんに荒らし回っているんだ。この一年それが目立って、斬られて大怪我をした町民も多い」
「おう、ひどいですね」
「それを注意したのが父上だった。困っているから手を出すなと言ったら、いきなり斬りつけてきた。でも父上は気にせず、その辺りの棒を使って、三四郎とその一党を叩きのめした。もう町の者は大喜びで、俺も鼻が高かったよ」
武家として、父上は町の者を守った。それは、五郎の誇りだった。
「しばらく三四郎はおとなしくしていた。叩かれて反省したと思われていたけれど、実は、それは仕返しする機会をうかがっていたからなんだ。父上が死ぬと、いきなり暴れはじめて悪さをはじめた。屋敷にも乗り込んできたのも、その頃だ。しばらくはがんばっていたんだけど、結局、押し返せなくて、こうなってしまった」
今日も十人が集団を成して、乗り込んできて、木刀をへし折り、刀掛けを壊した。木札額も、原形をとどめない形にまでに破壊されている。
「最後まで守りとおしていた扁額も奪われてしまった。もう壊されているかもしれない」
扁額は、床の間の上、道場の最も目立つところにあった。象徴であり、勘三郎がいた頃は、ただ飾ってあるだけで美しく輝いているように見えた。
それが今はない。考えただけで哀しくなる。
「なんと書かれていたのですか」
「明鏡止水。なんでも父上が世話になった人に書いてもらったとのことだ」
扁額は柿の木で作られており、荒々しい文字で記されていた。なぜか、左から右に文字が並んでおり、逆ではないかと指摘したが、これでいいのんだと笑われたことをおぼえている。
勘三郎が自分が編み出した剣術に、止水流と名付けたのもそのあたりが関係しているのかもしれない。
「そうですか」
拓之進の表情はかげった。
心が痛い。きっと彼は蔑んでいるに違いない。道場の象徴も守れなかった、馬鹿な侍として。
かつて道場には多くの仲間が通っており、五郎と彼らは仲良くしていたが、彼が道場を守り切れなかったことを知ると、次第に離れていった。最後まで残っていた勘三郎の弟子も、五郎が三四郎に叩きのめされて、腹を踏まれた情景を見て、なにも言わずに消えていった。
冷たい目で見られるのはつらい。たとえ、それが今日、会ったばかりの人物であっても。
「だから、この屋敷に泊めるわけにはいかないんだ。いつ連中が来るかわからない。争いに巻き込むわけにはいかない」
無論、これは建前だ。
単に、これ以上、みじめな思いをしたくない。さっさと腹を斬って死にたい。それだけである。
「行ってくれ。路銀はわたすから」
「相手は何人ですか」
いきなり拓之進が訊ねてきて、五郎は驚いた。
「え、なんだって?」
「相手は何人で来たのかと聞いているのです」
「ああっと、十人だな」
三四郎とその取り巻き、あとは今日、はじめて見せた顔も混じっていた。
「ひどいですね。十対一ですか。それじゃあ、勝負も何もあったものじゃないですね」
「いや、別に数は……」
「取り返しに行きましょう」
いきなり、拓之進は立ちあがった。
「大事な扁額を、そんな卑怯者に取られたままではいけません。あるべきところに戻さないと。さあ、行きますよ」
拓之進は言うだけ言うと、座敷を出て行ってしまった。
ちょっと待ってくれ。取り返すだって? そんなバカなことできるわけない。
あわてて五郎は後を追った。なんとしても止めねばならない。
「旗本奴は知っているか」
「聞いたことはあります。ただ、何をやっているのかは知りません」
「江戸の暴れん坊だよ。あちこちで悪さをしては、町の者に迷惑をかけている。斬りつけられた者もいるぐらいだ」
五郎は顔をしかめる。
今は、神君徳川家康公が江戸に幕府を開いてから、およそ五十年が経った承応元年。大坂の陣、島原の乱を経て、ようやく天下は落ち着き、泰平の世を迎えようとしている頃合いだった。
将軍徳川家光は昨年、亡くなり、江戸ではちょっとした騒ぎも起きたが、大きな乱にはならず、無事、四代将軍家綱の治世がはじまっていた。
合戦の時代は終わり、この先も平和な時代がつづく。それは多くの民にとっては好ましいことであったが、一方で、武家は戦働きでの手柄を立てられず、鬱屈した思いを抱く者も多くいた。若い者にそれは多く、憂さを晴らすため、彼らは江戸の町でさんざんに暴れた。派手な羽織を着て、徒党を組んで闊歩し、気に入らないことがあると、喧嘩を売りつけて、さんざんに叩きのめした。商家に殴り込んで、金品を奪い取ることも珍しくない。
暴れ回っている武家は、旗本の子弟が多く、それ故に旗本奴と言われる。
一方で、同じように鬱屈して暴れ回る町民もおり、彼らは町奴と呼ばれた。二年前に殺された幡随院長兵衛がよく知られているが、他にも、唐犬権兵衛、夢市郎兵衛といった輩がおり、神田、日本橋界隈で、さんざんに悪さをしている。
旗本奴と町奴は仲が悪く、顔をあわせると、すぐに喧嘩となる。先日も、御徒町の手前で、唐犬権兵衛の一党が旗本の一団とぶつかり、町方が総出で駆けつけるほどの争いとなった。
「うちに来たのは、八代三四郎とその一党だ。三四郎は小諸青山家につらなる者で、八年前に旗本八代家に養子に行った。次期頭領として重く遇されているのに、手のつけられない暴れん坊で、神田界隈でさんざんに荒らし回っているんだ。この一年それが目立って、斬られて大怪我をした町民も多い」
「おう、ひどいですね」
「それを注意したのが父上だった。困っているから手を出すなと言ったら、いきなり斬りつけてきた。でも父上は気にせず、その辺りの棒を使って、三四郎とその一党を叩きのめした。もう町の者は大喜びで、俺も鼻が高かったよ」
武家として、父上は町の者を守った。それは、五郎の誇りだった。
「しばらく三四郎はおとなしくしていた。叩かれて反省したと思われていたけれど、実は、それは仕返しする機会をうかがっていたからなんだ。父上が死ぬと、いきなり暴れはじめて悪さをはじめた。屋敷にも乗り込んできたのも、その頃だ。しばらくはがんばっていたんだけど、結局、押し返せなくて、こうなってしまった」
今日も十人が集団を成して、乗り込んできて、木刀をへし折り、刀掛けを壊した。木札額も、原形をとどめない形にまでに破壊されている。
「最後まで守りとおしていた扁額も奪われてしまった。もう壊されているかもしれない」
扁額は、床の間の上、道場の最も目立つところにあった。象徴であり、勘三郎がいた頃は、ただ飾ってあるだけで美しく輝いているように見えた。
それが今はない。考えただけで哀しくなる。
「なんと書かれていたのですか」
「明鏡止水。なんでも父上が世話になった人に書いてもらったとのことだ」
扁額は柿の木で作られており、荒々しい文字で記されていた。なぜか、左から右に文字が並んでおり、逆ではないかと指摘したが、これでいいのんだと笑われたことをおぼえている。
勘三郎が自分が編み出した剣術に、止水流と名付けたのもそのあたりが関係しているのかもしれない。
「そうですか」
拓之進の表情はかげった。
心が痛い。きっと彼は蔑んでいるに違いない。道場の象徴も守れなかった、馬鹿な侍として。
かつて道場には多くの仲間が通っており、五郎と彼らは仲良くしていたが、彼が道場を守り切れなかったことを知ると、次第に離れていった。最後まで残っていた勘三郎の弟子も、五郎が三四郎に叩きのめされて、腹を踏まれた情景を見て、なにも言わずに消えていった。
冷たい目で見られるのはつらい。たとえ、それが今日、会ったばかりの人物であっても。
「だから、この屋敷に泊めるわけにはいかないんだ。いつ連中が来るかわからない。争いに巻き込むわけにはいかない」
無論、これは建前だ。
単に、これ以上、みじめな思いをしたくない。さっさと腹を斬って死にたい。それだけである。
「行ってくれ。路銀はわたすから」
「相手は何人ですか」
いきなり拓之進が訊ねてきて、五郎は驚いた。
「え、なんだって?」
「相手は何人で来たのかと聞いているのです」
「ああっと、十人だな」
三四郎とその取り巻き、あとは今日、はじめて見せた顔も混じっていた。
「ひどいですね。十対一ですか。それじゃあ、勝負も何もあったものじゃないですね」
「いや、別に数は……」
「取り返しに行きましょう」
いきなり、拓之進は立ちあがった。
「大事な扁額を、そんな卑怯者に取られたままではいけません。あるべきところに戻さないと。さあ、行きますよ」
拓之進は言うだけ言うと、座敷を出て行ってしまった。
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あわてて五郎は後を追った。なんとしても止めねばならない。
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