やってきたのは柳生十兵衛最後の弟子! -止水流道場始末記-

中岡潤一郎

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第一話 切腹って痛いんだろうなあ

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 その日、五郎は屋敷に戻ると、拓之進に稽古を求めた。ただ剣を振りたかった。

 拓之進は応じ、二人は日が暮れるまで、ひたすら打ち合った。

 翌日も、その翌日も、ひたすらに稽古をつづけた。食事をする以外の時間は、木刀を振るっていた。

 ようやく休みを入れたのは、三日後のことだった。

 五郎が休もうというと、拓之進はすっと木刀を下げた。その表情は硬い。

「すまなかったな。付き合わせて」
「いいえ。身体が動かせたのでよかったです」
「ここまでやったのは、はじめてだ。疲れたよ」

 五郎は稽古場で尻をついて、天を仰いだ。もう腕も足も動かない。とことんまで自分を追い込んだのがわかる。

「ずいぶんとやったが、一度もお前には勝てなかった。本当に強いよ」
「いえ、五郎さんの剣はいいですよ」
「お世辞はいいよ」
「本当です」

 拓之進の言葉は、思いのほか強かった。

「止水流は下からの太刀筋が中心で、それができていないと、成り立ちません。五郎さんは自分の太刀筋を持っていて、それを正しく繰りだせます。きれいだなと思っています」
「はは、世辞でも褒められるとうれしいな」
「嘘はついていません」
「いいんだよ。俺が駄目だってことは、よくわかっているんだ」

 五郎は座り直して、拓之進を見あげた。

「この間、『ぶな』で、馬鹿がからんできただろう。理不尽な話で、お前の言うとおり助けなければならなかった。だけど、できなかった。怖くて身体が動かなかったんだよ」
「五郎さん……」
「父上は止水流は打ちたてた剣の達人で、江戸で、その名を知らぬ者はいなかった。一刀流の道場に呼ばれて、稽古をつけていたぐらいだ。新陰流と戦っても負けなかったって言っていたけれど、さすがに将軍家剣術指南役と戦って、勝てたとは思えない。でも、それぐらいの腕があったことは確かなんだ」

 五郎はそこでうなだれた。

「それに比べて、俺は、全然、駄目だ。父上の血は引かず、子供の頃から稽古していたのに、まったくうまくならなかった。後から入ってきた弟子に次々と抜かれて、道場での序列は下から数えた方が速いぐらい。年下の御家人にもやられていたよ。侮られてばかりだったから、父上が亡くなると、あっという間に道場は寂れてしまって、あとはつまらない連中に荒らされるだけになった」

 腕があれば、八代三四郎の一党にやられることもなかった。一度、叩きのめされて以来、身体が竦んでしまって、彼らが来ると抗うこともできなくなった。

 道場が荒らされているという噂が広まると、弟子はおろか、親戚筋からも無視されるようになり、窮地に追い込まれても助けてくれる者はいなくなった。

 もう自分はこの世にいらないと思った。

 孤独で、生きていても何の意味もない。塵芥に等しい。

 だったら、消えてなくなりたい。そう思った。

「実は、お前が来たあの日、俺は腹を斬ろうと思っていたんだよ」

 拓之進の表情は硬いままだった。

「生き恥をさらすぐらいなら、ぱっとあの世に逝ってしまえばいいと思った。父上には叱られるかもしれないが、打ちのめされるだけの世界にいるのも嫌だった。追い返そうとしたのも、早く切腹したかったからだ。悪かったな」
「……今でも、腹を斬りたいですか」
「……いや」

 五郎は小さな声で応じた。

「情けない話だが、そんな気はなくなってしまった。間合いというか、何か肝心なところをはずてしまったような気がする。こういうところが駄目なんだよな、俺」
「そんなことはないです。簡単に命を捨ててはいけません」
 拓之進は五郎の前に座ると、両腕を伸ばして肩をつかんだ。
「今、五郎さんはこの世にいるのです。だったら、いていいのです。そこに意味などありません。人は生きているだけで、こうして話をしているだけで、十分いいのです。お願いですから、いなくなるなんて言わないでください」

 拓之進は真っ直ぐに五郎を見ていた。瞳の輝きは驚くほど真剣だった。

「ずっといてください。私にできることなら、何でもしますから」

 見つめられて、五郎は思わず顔を引いた。

「だ、大丈夫だよ。今は切腹する気はないから」
「本当ですね。朝になって死んでいたなんて言うのは、駄目ですよ」
「そんなことしないから。俺、平気だから。第一、切腹は痛そうだし。しないですむなら、それでいいと思っているから」
「そうですか。よかった」

 拓之進は大げさに息をついた。

 五郎は驚いた。どうして、ここまで必死になるのか。わからない。

「お前、変わっているよな」
「どういうことですか」
「武士なら生き恥をさらすぐらいなら、腹を斬れって言うよな。叩きのめされてみっともないとか。止められたのははじめてだ」
「……実は私、切腹を見たことがあるのです」
「えっ」
「私の師匠です。道場で、わざと介錯もさせずに、腹を切り裂きました。二度、三度と刃を突きたて、そのたびにものすごい血が出て、ひどい有様でした。師匠は苦悶で顔をゆがめていましたが、それでもやめず、私に見ているように言いました。これが最期に伝えられる太刀筋だからと」
「それは、惨いな」

 師匠の切腹を見せられるのは、ひどくつらいことだったろう。

「厳しかったですが、大好きな師匠でした。もっと長生きしてほしいと思いました。なのに、あんな形で……」

 拓之進は顔を伏せた。再び話をはじめるまでには時間がかかった。

「だから、五郎さんには腹を切って欲しくありません。いえ、私の知っている人には皆、元気で生きていてほしい。もうあんな光景、見たくありません」

 拓之進の気持ちはよくわかった。自分も同じ状況に追い込まれたら、同じことを言うだろう。

 武士の誇りは大事だ。だが、たやすく死ぬのも間違っているような気がする。命を賭けるのは大事な時。安易に腹を斬るのはよくない。犬死狂いは間違っていると思いたい。

「わかった。俺は腹を斬らないよ。約束するから、安心してくれ」
「お願いします。必ずですよ」
 拓之進は言い切ると、笑顔を浮かべた。
「では、私は五郎さんと、いっしょに暮らします。ずっとここにいますから、よろしくお願いしますね」
「いや、それは待ってくれ」
「駄目です。もう決めました」
「いや、それは困る。あのな……」

 彼が先をつづけようとしたところで、高い声が響いてきた。女の声である。

「弓子さんです。何か呼んでいるようですが」
「なんだよ、この大事な時に……」

 二人が連れだって道場から出ると、顔を真っ赤にした弓子が速歩で歩み寄ってくるところだった。

「ちょっと、何をのんびりしているの。大変なんだよ」
「大変って、何が?」
「まったく。少しは噂にも耳を傾けて」

 弓子は早口でまくし立てたると、五郎は背筋を伸ばした。身体が自然と前に出る。

 その先には拓之進の姿がある。彼もまた走り出していた。

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