やってきたのは柳生十兵衛最後の弟子! -止水流道場始末記-

中岡潤一郎

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第一話 切腹って痛いんだろうなあ

五之二

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 拓之進は、ふうと息を吐いた。

「江戸はすごいですね。こんなにおいしい物が普通に食べられるなんて」
「しかも安い。無役の貧乏旗本でも何とかなる」

 茶碗を縁台において、五郎は空を見あげた。

「ここに来たのは、父上が亡くなったすぐ後だった。役目もなく、道場をうまく引き継ぐこともできずで、この先、どうしようかと思いながら、このあたりを歩いていたら、太助から声をかけられたんだ。食っていけって。その気にはなかったし、金もなかったから断ったんだけど、いいからって言われて。今日と同じ煮魚と白飯だよ。うまかったなあ」
「そうですか」
「食べてみて、わかったよ。身も心も飢えていたことに」

 父が亡くなり、心身共にすり減っていたが、それが自覚できぬほどに疲れ切っていた。温かい飯で、五郎は間違いなく生き返っていた。

 それから、何かあると、五郎はこの『ぶな』を訪れていた。口の悪い太助だが、彼の言葉を聞いていると、不思議と背筋が伸びる。

「いいですね。ここは」

 拓之進が左右を見回す。

「侍も町民も分け隔てなく扱う」
「ああ。悪ささえしなければ、誰でも好きなだけ食べていい。それがこの店のやり方さ」

 そこで、五郎が視線を転じると、路地から顔を覗かせる子供の姿が見てとれた。

 二人で、そのうちの女の子が半身を出して、こちらを見ていた。背後の男の子が懸命に押さえようとしていたが、うまくいかず、二人はもみあうような格好になっていた。

 五郎は笑って、声をかけた。

「おいで。おみち、作太」

 二人は、顔を見合わせた。

 ぱっと走り出したのは、女の子だ。そのまま飛びついてくる。

 背は小さく、手足も細い。顔も尖っているが、それでも以前よりはかなり丸みが出てきた。桃色の小袖が似合うようになったのは、本当によいことだ。

 女の子は、五郎の足にすがりついていた。

 一方、男の子は五郎に一礼してから、拓之進を見た。露骨に警戒している。

「ああ、大丈夫だよ。作太。その侍は俺の客だ。悪さはしないよ」
「流拓之進です。よろしく」
「そっちの男の子が作太。女の子はおみちだ。二人とも太助の家で暮らしている」
「あの人の子供なのですか」
「ちょっと違う。事情があってな。太助の母上が引き取ったんだ」

 詳しい事情はいずれ話す機会もある。今はこれでいい。

「よくここに食べに来るんだ。はじめて会った時には、すごい目でにらみつけられて大変だった。なじむまで、ひと月はかかったよ」

 嫌われたと思い、五郎は落ち込んだが、事情を知ると、そのふるまいもやむを得ないと思えた。むしろ、よくここまで回復したと思う。

 五郎が頭をなでると、おみちは目を細めて笑った。

 おみちはしばらく頬を手にすり寄せていたが、ぱっと離れると、今度は拓之進に駆けよった。膝に乗って、その顔を胸にすり寄せる。

「あ、えっと」

 拓之進は目を大きく見開いている。

「五郎さん、これは……」
「なんだよ。俺の時には、膝に乗るまでふた月はかかったのに」

 五郎は頬をふくらませた。

 ひどくないか。やっぱり、女は顔のいい男がいいのか。

「あの、この子、何とかしてください」
「いいじゃないか。懐いているんだから、そのままにしてやれよ」

 おみちが、はじめて訪れた客に、ここまで懐くとは。珍しい。拓之進のやさしさを感じとったのかもしれないが、少しくやしい。

 彼が声をかけようとした瞬間、おみちが振り向いた。一瞬で顔を強ばらせ、拓之進の膝から降りる。

 作太がそれにあわせて前に出て来て、おみちをかばう。

 五郎が振り向くと、その先には、太刀を肩にかけた侍の姿があった。惣髪で、黒い着物を身にまとっている。

 好戦的な気配を振りまいていて、町人が怯えて道を空けるほどだ。

 五郎の顔が強ばる。相手の顔には見おぼえがあった。

 侍は『ぶな』の前に立つと、声を張りあげた。

「なんだ、まだ、この店、あったのかよ。さっさとやめろって言ったのに」
「うるさいな。またお前か。死右衛門しにえもん

 太助が出てきて、侍を見おろした。

「とっとと帰れ」
「駄目だね。この店は、宿屋にするんだ。お前が出て行くまで、何度でも来てやる」
「こんな狭いところで、宿ができるか。女を置きたいなら吉原でやるんだな。そう遠くはない」
「生意気な。斬られたいのか」

 死右衛門が刀に手をかけた。

 気配に怯えて、おみちが震える。その身体をしっかりと抱きしめる。

「いけません。あの侍は本気です。助けないといけません」

 拓之進が声をかけてきたが、五郎はうつむいたまま動かない。手を強く握りしめて、縁台で固まっている。

 死右衛門は、一度、三四郎とともに五郎の屋敷に来て、さんざんに暴れ回ったことがある。五郎は止めようとしたが、あっさりと叩きのめされ、稽古場で悶絶していた。

 駄目だ。勝てない。絶対に。

 拓之進はしばし五郎を見ていたが、やがて腰をあげ、死右衛門に歩み寄った。その目は、正面の旗本奴を真っ直ぐに見ている。

「どういうつもりですか。こんなところで因縁をつけるなんて」

 声は堂々としていた。怖れている様子はない。

「回りの者が怯えているではありませんか」
「なんだ、てめえは」
「通りすがりの侍です。引いてください」
「ふざけるな。そんなことができるわけがないだろうが」

 死右衛門は拓之進と向かい合う。その刀が肩から腰へと移る。

 殺気が高まり、死右衛門の手が柄に伸びる。周囲の空気が固まったその瞬間……

 拓之進が死右衛門の眼前に立っていた。一尺と離れていない。

 文字どおり、目の前であるが……。

 一瞬のことで、いつ動いたのか、まったくわからなかった。

 死右衛門が目を剥き、刀を抜こうとするが、できない。拓之進が刀の柄で鞘を押さえていた。

「行ってください。つまらない争い、したくありません」

 拓之進の一声で、死右衛門はぱっと下がった。それでも、視線はそらさない。

 すさまじい眼光を、拓之進は正面から受け止める。

 にらみあいがつづく。

 死右衛門が再び柄に手を伸ばすと、拓之進が間合いを詰めた。

 殺気が高まり、五郎は震えあがった。町民も何も言わない。

 死右衛門の手が下がり、柄に触れる。 

 その瞬間、拓之進の手が刀に伸びる。

 大仰な仕草ではなかったが、明らかに気圧されて、死右衛門は下がった。またたく間に二間の間が開く。

 風が吹き、彼方から鳶の鳴き声が響く。

 それが町の空気に吸い込まれるようにして消えたところで、死右衛門は顔をそむけた。そのまま何も言わず、『ぶな』の前から立ち去った。

 姿が見えなくなったところで、五郎は大きく息を吐いた。町の者も同じで、あの太助ですら頬の筋肉がゆるめて、うなだれていた。

 平然としていたのは、拓之進だけだ。おみちに歩み寄ると、ゆっくり頭をなでる。

「ごめんね。怯えさせて。もう大丈夫だから」

 おみちは丸い瞳で拓之進を見ると、その足に抱きついた。顔をすり寄せる。

 その頭に触れる拓之進の姿を見て、町の者が声をかける。ありがとう、とか、助かりましたという賛辞が寄せられる。

 その様子を五郎は無言で見ていた。ひどく心がつらかった。
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