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第二話 仕合なんて出たくないよ
二
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佐野一刀流の道場は、神田明神下の東本願寺から一町ほど東にある徒士屋敷の合間にある。二百坪の土地に稽古場が置かれ、多くの門弟が江戸中から通っている。内弟子が使う住居も用意されていて、早朝から竹刀の打ち合う音が響いていた。
道場主は佐野空風。佐野一刀流の開祖で、伊東一刀斎から直々に教えを受け、免許皆伝を認められると、江戸に移って道場を開いた。小野一刀流の小野忠明とは好敵手として知られ、何度も真剣で戦ったと言う。将軍徳川家光が内々に二人が戦う様子を見ていたと言われ、それが佐野一刀流の名をさらに高めた。
東本願寺の伽藍を右手に見ながら、五郎は道場に向かっていたが……。
板葺の屋根が視界に入ったところで、その足が止まった。
「どうしました」
「やめよう。行くのは」
「おう。どうしてですか。道場は目の前ですよ」
「行っても仕方ないよ」
道場を見て、五郎はため息をつく。
「江戸中の剣士が集まるんだぜ。直心影流とか、鹿島新當流やタイ捨流の達人に加えて、直心影流の若手も来るって話じゃないか。噂を聞いただけで、もう嫌になっちゃったよ」
剣術仕合の話は、江戸の津々浦々まで広がっていた。武家はもちろん、町民も顔をあわせれば、誰が来るかとか、一番、強いのは誰であるとか話をして、大いに盛りあがっていた。
前年、将軍家光が武芸上覧の会を開催しており、その影響もあって、今回の仕合に関する期待は異様に高い。
「勝てっこないよ」
「そんなことはありません。五郎さんなら大丈夫です」
拓之進は大きく手を振りあげた。声は明るい。
「いっぱい稽古をして、腕はあがっています。今なら大丈夫ですよ」
「お前には、一度も勝てなかったけれどな」
「そんなことはありません。何度も追い込まれました」
拓之進は正面から五郎を見据えた。
「それに、今回の大会は、年を二五才より下に限っています。老練な剣士は出てきません。同じ年頃の人たちが相手ならば、やれますよ」
「まあ、仕官の話も出ているぐらいだからな」
今回の剣術仕合では、若手を競わせて、その中で特に優れた者がとある大名の剣術指南役になるという噂が流れていた。仕合は道場でおこなわれることになっていていたが、その様子を隠れたところから用人が見るらしい。大名の名前も挙がっており、真偽の確認するため、若い旗本が押しかけたという話も聞いていた。
仕官の話が広まったこともあり、参加を希望する剣士は、若手でも名の知れたものばかりで、水準の高い仕合になることは明らかだった。
そんな場所に自分が出て、どうするのだ。
叩きのめされ、笑いものになって終わるだけだ。
「やっぱり帰ろう」
「駄目です。行きましょう」
「だったら、お前が出てくれよ。あの剣技があれば、必ず……」
「いけません。呼ばれたのは、止水流の師範です。それは、五郎さんであり、私ではありません」
三日前に、使いが来て、剣術大会への招待状をわたされた。そこには、確かに、井ノ瀬五郎の名前が記されていた。
代理も認められていたが、そのために病気など、やむを得ない事情が必要だった。
だから、出かけるまで、五郎は本気で自分の腕をへし折ることを考えていた。
「さあ。早く」
拓之進にうながされて、五郎は歩き出す。
だが、背後から声をかけられたところで、再びその足は止まってしまった。
「おう、そこにはいるのは、井ノ瀬の小せがれではないか。久しいな」
五郎が振り向くと、背の高い剣士が笑いながら歩み寄ってきた。茶の小袖に、濃紺の袴といういでたちで、髷はわざと大きく油って、荒々しい空気を作り出している。打刀ではなく、太刀を佩いているところにも、武者であることを押し出す意志が感じられる。
目付きは悪く、それは前に道場に通っていたときと変わらない。
五郎は視線をそむけた。話す気にもなれなかった。
「無視するのか。この黒田与次郎を。家格は、こちらが上と知った上でのふるまいか」
黒田与次郎は旗本一五〇〇石黒田家の嫡男で、父親の黒田玄蕃は新番の組頭を勤めている。八〇〇石の無役である井ノ瀬家と家格が違う。
与次郎は五郎を見て口元を歪めた。彼の背後には、取り巻きの若い武士が三人おり、彼らも同じような表情を浮かべていた。
馬鹿にされているのはわかる。だが、何も言わず、五郎はうつむいた。
そのまま逃げ去ろうとしたところで、拓之進が割って入ってきた。
「何を言っているのです。無礼でしょう」
思いのほか、彼の声は強かった。
「五郎さんは、井ノ瀬家の当主です。家督を嗣いでいないあなたに、侮辱される謂れはない」
「何だと」
「謝ってください。よくありません」
「ふざけるな。誰がこんな奴に」
与次郎の手が動く。背後の三人も同じだ。
殺気が高まる。
「やめろ。拓之進」
与次郎は佐野一刀流の達人で、その技量は師範代に匹敵すると言われる。町奴と喧嘩をした時には、一瞬で相手の腕を切り飛ばしている。
短気で、自分を侮る相手には容赦しない。いったい、どうなるか。
しかし、拓之進は気にした様子もなく、正面から与次郎を見据えている。
「わびろ。今なら許してやる」
「謝るのはそちらでしょう。今ならば許します」
「何を……」
与次郎が間合いを詰める。
双方がにらみ合い、空気が熱を帯びた瞬間。
「やめろ。そこまでだ」
高い声が響いて、若い武家が姿を見せた。
絣に灰色の袴という格好だ。髷は小さく結っており、月代もきれいに剃っている。
背は小さく、身体はほっそりとしているが、ひ弱な印象はまったくない。むしろ、与次郎とその一党よりも迫力がある。
顔立ちは整っていて、武家らしい凛々しさが漂っている。目力も強い。
若侍は二人に歩み寄った。視線は与次郎に向く。
にらみ返されるが、まったくひるむ気配はない。
「刀を抜けば、どちらかが命を落とすまでやりあうことになる」
若侍の声は朗々と響いた。さながら役者のようだ。
「果たし合いなら、それでもいい。だが、これから、栄えある剣術大会がはじまろうという時に、佐野一刀流の門弟が、そんな粗略なふるまいをしてよいのか。立場を考えよ」
「何を……」
「どうしてもというのなら、この森山市之助がお相手いたそう。直心影流の太刀筋、お見せする」
市之助の手がわずかに動く。
与次郎の手も動いたが、それはは手は柄に触れる遥か手前で止まった。軽く手を握りしめる姿には、ためらいがあった。
「阿呆らしい。行くぞ」
与次郎が顔をゆがめて立ち去ると、取り巻きの三人もその後を追った。
五郎は大きく息をついた。荒事にならずによかった。巻き込まれていたら、彼に為す術はなかった。
「大丈夫だったかい。五郎」
「おかげさまで。まだ剣を抜く前だったから」
「そうか。それはよかった」
涼しげな笑みに、五郎の心は揺れる。人の目を惹きつける涼しげな表情だが、彼はそれが苦手だった。
市之助は、一千八百石の旗本、森山家の嫡男で、文武に秀でた若侍として知られていた。老中の酒井雅楽頭忠清にもその名を知られており、どのような人物なのか訊ねられたという。父親は大番組の組頭で、老齢な事もあり、間もなくその跡を継ぐと見られている。
直心影流の使い手であり、道場では師範代として、同朋を鍛える立場にある。
学問も優れていて、四書の素読はとうに終え、今では朱子の書物を読んでいるということだ。
市之助のよいところは、これだけの才を持ちながらも、決して傲ることなく、誰に対しても穏やかに接するところだった。相談を持ちかけられれば、親身になって応じ、争いが起きれば、自ら仲介役を買って出て、双方から話を聞いて、うまく事を収めてしまう。謙虚で、与次郎のように威張り散らすところがない。
五郎のように無役の者にも自然な調子で話しかけてくる。見下したところはない。
同じ旗本とは思えないほど、人として優れており、多くの者が慕うのもわかる。むしろ、それが自然だ。
だが、五郎は駄目だった。市之助と立って話をしているだけで、自分が駄目な人間のように思えてつらいのである。市之助にその気はないと言い聞かせても、劣等感の炎を消すことはできず、顔をあわせるたびにみじめな思いをした。だから、あまり話はしたくなかった。
「久しぶりだね。元気そうでよかった」
「ああ。何とかやっているよ」
声が強ばらないように気をつけながら、五郎は応じた。
「勘三郎様が亡くなって、もう半年か。何もできずに、申し訳ない」
「いいんだよ。葬式を手伝ってくれただけでも十分さ。俺じゃ何もできなかった」
「水臭い。同じ道場で学んだ仲じゃないか」
市之助はさわやかに語りかける。それがつらい。
「そちらの方は?」
市之助の視線が動いたので、あわてて五郎は紹介した。
「ああ、彼は流拓之進。今、うちで暮らしている」
「そうか。井ノ瀬の屋敷にいるのか」
「よろしくお願いします」
拓之進は名乗り、頭を下げた。ふるまいはいつもと変わらない。
「腕はたちそうだ。ふるまいに隙がない」
市之助の目が細くなった。
「ぜひ、そのうち立ち合ってほしいな」
「おう。本当ですか。こちらこそ、よろしくお願いします」
「おもしろいしゃべり方をする人だな。いつもこうなのか」
「まあな」
「市之助さんは、どうしてここに? 仕合に出るためですか」
「そのつもりはなかったんだけど、先生に言われてね」
市之助は笑った。
「腕試しにはよいだろうって。回りからも声があがって断り切れなかったんだよ」
彼はそういう人物だ。常に回りが守り立て、彼もその期待に応える。
わかっているが、五郎は改めて自分との違いを認識した。
「君たちも出るのかい」
「五郎さんが出ます。私は居候なので、見るだけです」
「そうか。井ノ瀬が」
一瞬、市之助の目が翳った。
馬鹿にしたわけではない。だが、侮ったのは確かだ。
「なら、いっしょに行こう」
「いや、俺は……」
「急がないと。今日は受付だけだが、それでも遅れたらお終いだ。さあ」
二人は連れだって歩きはじめ、やむなく五郎はその後ろにつづいた。
出たくない。このまま帰って屋敷に閉じこもっていたい。
だが、そう言い出せるわけもなく、五郎の視線は自然と下を向いていた。
道場主は佐野空風。佐野一刀流の開祖で、伊東一刀斎から直々に教えを受け、免許皆伝を認められると、江戸に移って道場を開いた。小野一刀流の小野忠明とは好敵手として知られ、何度も真剣で戦ったと言う。将軍徳川家光が内々に二人が戦う様子を見ていたと言われ、それが佐野一刀流の名をさらに高めた。
東本願寺の伽藍を右手に見ながら、五郎は道場に向かっていたが……。
板葺の屋根が視界に入ったところで、その足が止まった。
「どうしました」
「やめよう。行くのは」
「おう。どうしてですか。道場は目の前ですよ」
「行っても仕方ないよ」
道場を見て、五郎はため息をつく。
「江戸中の剣士が集まるんだぜ。直心影流とか、鹿島新當流やタイ捨流の達人に加えて、直心影流の若手も来るって話じゃないか。噂を聞いただけで、もう嫌になっちゃったよ」
剣術仕合の話は、江戸の津々浦々まで広がっていた。武家はもちろん、町民も顔をあわせれば、誰が来るかとか、一番、強いのは誰であるとか話をして、大いに盛りあがっていた。
前年、将軍家光が武芸上覧の会を開催しており、その影響もあって、今回の仕合に関する期待は異様に高い。
「勝てっこないよ」
「そんなことはありません。五郎さんなら大丈夫です」
拓之進は大きく手を振りあげた。声は明るい。
「いっぱい稽古をして、腕はあがっています。今なら大丈夫ですよ」
「お前には、一度も勝てなかったけれどな」
「そんなことはありません。何度も追い込まれました」
拓之進は正面から五郎を見据えた。
「それに、今回の大会は、年を二五才より下に限っています。老練な剣士は出てきません。同じ年頃の人たちが相手ならば、やれますよ」
「まあ、仕官の話も出ているぐらいだからな」
今回の剣術仕合では、若手を競わせて、その中で特に優れた者がとある大名の剣術指南役になるという噂が流れていた。仕合は道場でおこなわれることになっていていたが、その様子を隠れたところから用人が見るらしい。大名の名前も挙がっており、真偽の確認するため、若い旗本が押しかけたという話も聞いていた。
仕官の話が広まったこともあり、参加を希望する剣士は、若手でも名の知れたものばかりで、水準の高い仕合になることは明らかだった。
そんな場所に自分が出て、どうするのだ。
叩きのめされ、笑いものになって終わるだけだ。
「やっぱり帰ろう」
「駄目です。行きましょう」
「だったら、お前が出てくれよ。あの剣技があれば、必ず……」
「いけません。呼ばれたのは、止水流の師範です。それは、五郎さんであり、私ではありません」
三日前に、使いが来て、剣術大会への招待状をわたされた。そこには、確かに、井ノ瀬五郎の名前が記されていた。
代理も認められていたが、そのために病気など、やむを得ない事情が必要だった。
だから、出かけるまで、五郎は本気で自分の腕をへし折ることを考えていた。
「さあ。早く」
拓之進にうながされて、五郎は歩き出す。
だが、背後から声をかけられたところで、再びその足は止まってしまった。
「おう、そこにはいるのは、井ノ瀬の小せがれではないか。久しいな」
五郎が振り向くと、背の高い剣士が笑いながら歩み寄ってきた。茶の小袖に、濃紺の袴といういでたちで、髷はわざと大きく油って、荒々しい空気を作り出している。打刀ではなく、太刀を佩いているところにも、武者であることを押し出す意志が感じられる。
目付きは悪く、それは前に道場に通っていたときと変わらない。
五郎は視線をそむけた。話す気にもなれなかった。
「無視するのか。この黒田与次郎を。家格は、こちらが上と知った上でのふるまいか」
黒田与次郎は旗本一五〇〇石黒田家の嫡男で、父親の黒田玄蕃は新番の組頭を勤めている。八〇〇石の無役である井ノ瀬家と家格が違う。
与次郎は五郎を見て口元を歪めた。彼の背後には、取り巻きの若い武士が三人おり、彼らも同じような表情を浮かべていた。
馬鹿にされているのはわかる。だが、何も言わず、五郎はうつむいた。
そのまま逃げ去ろうとしたところで、拓之進が割って入ってきた。
「何を言っているのです。無礼でしょう」
思いのほか、彼の声は強かった。
「五郎さんは、井ノ瀬家の当主です。家督を嗣いでいないあなたに、侮辱される謂れはない」
「何だと」
「謝ってください。よくありません」
「ふざけるな。誰がこんな奴に」
与次郎の手が動く。背後の三人も同じだ。
殺気が高まる。
「やめろ。拓之進」
与次郎は佐野一刀流の達人で、その技量は師範代に匹敵すると言われる。町奴と喧嘩をした時には、一瞬で相手の腕を切り飛ばしている。
短気で、自分を侮る相手には容赦しない。いったい、どうなるか。
しかし、拓之進は気にした様子もなく、正面から与次郎を見据えている。
「わびろ。今なら許してやる」
「謝るのはそちらでしょう。今ならば許します」
「何を……」
与次郎が間合いを詰める。
双方がにらみ合い、空気が熱を帯びた瞬間。
「やめろ。そこまでだ」
高い声が響いて、若い武家が姿を見せた。
絣に灰色の袴という格好だ。髷は小さく結っており、月代もきれいに剃っている。
背は小さく、身体はほっそりとしているが、ひ弱な印象はまったくない。むしろ、与次郎とその一党よりも迫力がある。
顔立ちは整っていて、武家らしい凛々しさが漂っている。目力も強い。
若侍は二人に歩み寄った。視線は与次郎に向く。
にらみ返されるが、まったくひるむ気配はない。
「刀を抜けば、どちらかが命を落とすまでやりあうことになる」
若侍の声は朗々と響いた。さながら役者のようだ。
「果たし合いなら、それでもいい。だが、これから、栄えある剣術大会がはじまろうという時に、佐野一刀流の門弟が、そんな粗略なふるまいをしてよいのか。立場を考えよ」
「何を……」
「どうしてもというのなら、この森山市之助がお相手いたそう。直心影流の太刀筋、お見せする」
市之助の手がわずかに動く。
与次郎の手も動いたが、それはは手は柄に触れる遥か手前で止まった。軽く手を握りしめる姿には、ためらいがあった。
「阿呆らしい。行くぞ」
与次郎が顔をゆがめて立ち去ると、取り巻きの三人もその後を追った。
五郎は大きく息をついた。荒事にならずによかった。巻き込まれていたら、彼に為す術はなかった。
「大丈夫だったかい。五郎」
「おかげさまで。まだ剣を抜く前だったから」
「そうか。それはよかった」
涼しげな笑みに、五郎の心は揺れる。人の目を惹きつける涼しげな表情だが、彼はそれが苦手だった。
市之助は、一千八百石の旗本、森山家の嫡男で、文武に秀でた若侍として知られていた。老中の酒井雅楽頭忠清にもその名を知られており、どのような人物なのか訊ねられたという。父親は大番組の組頭で、老齢な事もあり、間もなくその跡を継ぐと見られている。
直心影流の使い手であり、道場では師範代として、同朋を鍛える立場にある。
学問も優れていて、四書の素読はとうに終え、今では朱子の書物を読んでいるということだ。
市之助のよいところは、これだけの才を持ちながらも、決して傲ることなく、誰に対しても穏やかに接するところだった。相談を持ちかけられれば、親身になって応じ、争いが起きれば、自ら仲介役を買って出て、双方から話を聞いて、うまく事を収めてしまう。謙虚で、与次郎のように威張り散らすところがない。
五郎のように無役の者にも自然な調子で話しかけてくる。見下したところはない。
同じ旗本とは思えないほど、人として優れており、多くの者が慕うのもわかる。むしろ、それが自然だ。
だが、五郎は駄目だった。市之助と立って話をしているだけで、自分が駄目な人間のように思えてつらいのである。市之助にその気はないと言い聞かせても、劣等感の炎を消すことはできず、顔をあわせるたびにみじめな思いをした。だから、あまり話はしたくなかった。
「久しぶりだね。元気そうでよかった」
「ああ。何とかやっているよ」
声が強ばらないように気をつけながら、五郎は応じた。
「勘三郎様が亡くなって、もう半年か。何もできずに、申し訳ない」
「いいんだよ。葬式を手伝ってくれただけでも十分さ。俺じゃ何もできなかった」
「水臭い。同じ道場で学んだ仲じゃないか」
市之助はさわやかに語りかける。それがつらい。
「そちらの方は?」
市之助の視線が動いたので、あわてて五郎は紹介した。
「ああ、彼は流拓之進。今、うちで暮らしている」
「そうか。井ノ瀬の屋敷にいるのか」
「よろしくお願いします」
拓之進は名乗り、頭を下げた。ふるまいはいつもと変わらない。
「腕はたちそうだ。ふるまいに隙がない」
市之助の目が細くなった。
「ぜひ、そのうち立ち合ってほしいな」
「おう。本当ですか。こちらこそ、よろしくお願いします」
「おもしろいしゃべり方をする人だな。いつもこうなのか」
「まあな」
「市之助さんは、どうしてここに? 仕合に出るためですか」
「そのつもりはなかったんだけど、先生に言われてね」
市之助は笑った。
「腕試しにはよいだろうって。回りからも声があがって断り切れなかったんだよ」
彼はそういう人物だ。常に回りが守り立て、彼もその期待に応える。
わかっているが、五郎は改めて自分との違いを認識した。
「君たちも出るのかい」
「五郎さんが出ます。私は居候なので、見るだけです」
「そうか。井ノ瀬が」
一瞬、市之助の目が翳った。
馬鹿にしたわけではない。だが、侮ったのは確かだ。
「なら、いっしょに行こう」
「いや、俺は……」
「急がないと。今日は受付だけだが、それでも遅れたらお終いだ。さあ」
二人は連れだって歩きはじめ、やむなく五郎はその後ろにつづいた。
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だが、そう言い出せるわけもなく、五郎の視線は自然と下を向いていた。
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