やってきたのは柳生十兵衛最後の弟子! -止水流道場始末記-

中岡潤一郎

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第二話 仕合なんて出たくないよ

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 五郎は遠縁を降りると、木刀を構えた。

 すっと呼吸を整えて、止水流の型稽古に入る。

 右からの擦りあげ、ついで刀を回しての袈裟斬り。

 ついで左からの擦りあげと逆袈裟。

 横からの一撃を加えた後の、踏みこんでの下段からのすくいあげ。

 いくつかの型を繰り替えして、自らの太刀筋を確かめる。

 まるで駄目だ。速さは足りないし、正確さも劣る。理想の動きは頭にあっても、身体がまったくついていかない。情けない。

 今日の稽古でも、拓之進に叩きのめされた。

 五郎が必死で打ちこんでいるのに、まるで気にする様子も見せず、踏みこんできて、こちらの竹刀を叩き落とす。

 思い切って接近戦に持ち込んでも、あっさり跳ね返されてしまう。ひ弱に見えるのに、どんなに押しても、拓之進が退くことはなかった。

 五郎の手は止まった。心が沈んでいくのがわかる。

 無理だ。勝てっこない。

 これで剣術の仕合に出るのか。拓之進と市之助に押されて、受付はすませたが、とうていかなうとは思えない。半月後に恥をかくだけではないか。

 大きく息をついて、うつむく。そこで、彼は視界の片隅で、人影が動くのを見てとった。見なれた顔がそこにはあった。

「何だ、弓子か。どうした」

 弓子は屋敷から庭につながる小路に立っていた。

 珍しく表情は翳っていた。

「あ、その、うちから届け物があって。声をかけても返事がないから、悪いけれど勝手に入ったら、あなたがここで稽古をしているのが見えて」
「なんだ。それなら声をかけろよ」
「邪魔はよくないと思って」
「そんなこと気にするなよ。らしくない」

 五郎が遠縁に腰を下ろすと、弓子はその隣に座った。十分に距離は開いているが、それでもその息吹を感じることはできる。

 晩秋の冷たい風が吹く。頭上にはいわし雲だ。

 ここのところ冷え込みが厳しくなって、朝、起きた時には身体が冷えている。布団から抜け出すのがつらく思われるが、それでも拓之進が待っているので、無理矢理、起きて、道場に向かっていた。

「仕合に出るって聞いたけど、本当なの」

 弓子がぽつりと言った。

「誰から聞いた?」
「伊勢屋の使いから」
「そうか。どこで噂になっているかわからんなあ」
「で、どうなの?」
「出るよ。気乗りはしないけれど」

 五郎は吐息をついた。

「行っても、派手にやられるだけだからなあ。若いけれど、腕のたつ連中ばかりそろっているし。ほら、知っているだろう。直心影流の森山市之助。あいつも出るんだぜ。どうやったって勝てっこないよ」
「決まったわけじゃないでしょ」
「決まっているよ」
「どうして、そんな投げやりなのよ。だらしない」
「お前にはわからないよ」

 父が生きていた頃から、道場の序列は下で、さんざん叩かれてきた。

 先日、出会った黒田与次郎とその取り巻きも止水流の道場にも通っていたが、五郎はいつも稽古で打ちのめされていた。帰り際に声をかけられ、空き地に引きずっていかれて、木刀で打ちのめされたこともあった。小突かれることはしょっちゅうで、ひどくつらかった。

 市之助にも勝ったことはない。明らかに手を抜かれたときでも。

「恥をかくだけだと思うよ」
「ああ、もうじれつたい」

 弓子は立ちあがって、五郎をにらみつけた。

「何なのよ。駄目、駄目って。そんなのやってみなきゃわからないじゃない」
「えっ」
「いい。あたしは、あなた以上に、あなたのことを知っている。この道場で一生懸命、稽古していたのも、叩きのめされた後、泣きながらも近くの神社に行って素振りをしていたことも、みんな知っている。井ノ瀬のおじさまがいたときも、亡くなった後も。道場が荒らされて、ひどい目にあうようになってからも、一人で木刀を振るっていた。拓之進がきてからは、毎日、打ち合っている。ものすごく稽古をしているのをあたしは知っている。あれだけやっているんだから、必ず腕はあがっている。大丈夫。絶対に勝てる」

 弓子は声を張りあげていた。

 五郎は驚いた。なぜ、ここまでむきになるのか、わからない。

「勝ちなさい。最後まで。あなたならできる」
「そんなこと言われてもなあ」
「わかった。だったら、あなたが最後まで勝ち上がったら、あたしがこの家に来るから。ずっと面倒を見てあげるから。それでいい……」

 そこで弓子は言葉を切った。口を両手で押さえて、その場に立ち尽くす。頬は一瞬で赤く染まる。

 何だ、何が起きた。

 五郎は、しばし弓子を見ていた。

 彼方から烏の鳴き声が響く。それに押されるようにして、五郎は口を開く。

「弓子、それはいったい……」
「えっと、これは……違うの。そういうのじゃなくて。だから……」

 弓子はひどく慌てていた。何だ、いったい。

「ちょっと待って。変なこと考えないで」
「何を考えるって」
「えっ」
「お前が何を言いたいのかわからないが、別に、それは特別なことじゃないだろ。普段と同じだ」
「……」
「だって、家に来て、面倒を見てくれるなんて、今までずっとやっていることじゃないか。おせんさんを連れてきてくれて、飯まで出してくれて。そりゃ、さすがにずっとというのは、どうかと思うけれど、別に変わったことではないだろう」

 五郎は返答を待ったが、弓子は何も言わなかった。ただ、手を握って、うつむいている。

 なぜ、突然、黙ったのか。よくわからない。

「おい、いったい……」
「何なの。あんた、何なの」

 突然、弓子は声を張りあげた。

「こっちの気も知らないで。いったい、何なの。頭ないの」
「何だ、それは。さすがにひどくないか」
「ひどくないわよ。当然よ。ああ、もうまったく」

 弓子は顔をゆがめた。

「気をつかってほしいのは、こっちよ。あたしが馬鹿だった。ここまで抜けているなんて。もう知らない」

 弓子は吠えると、そのまま背を向けて走り去った。

 五郎は縁側に座ったまま、ただそれを見送った。

 なんなのだ、いったい。勝手に話をして、勝手に怒って、勝手に走っていった。

 何を考えているのか、さっぱりわからない。

 なぜ、あそこまで当たり散らされなければならないのか。

 それでも、五郎は頭をかきながら、立ちあがった。ここで放っておいたら、次に会った時に何を言われるかわからない。多少の弁明は必要だろう。

 だが、玄関の先に出たところで、五郎は足を止めた。

 門の手前で弓子がいた。その傍らに立つのは拓之進だ。

 何か言っているのがわかる。頬には涙の跡があり、拓之進は困りながらも、必死に弓子をなだめていた。

「そうか。そうだよな」

 やっぱり、弓子も拓之進がいいのか。いい男だものな。

 心が痛むのを感じながら、五郎は道場に向かった。

 少しでも竹刀を振っていたかった。そういう気分だった。
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