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第三話 それでも、俺は間違っていない
九
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「おかげさまで、保科家との話はまとまりました」
五郎の前で、怡与蔵は丁寧に頭を下げた。井ノ瀬家の奥座敷でのことで、その仕草にはこれまでにない風格を感じた。もう一人前の商人だ。
「近いうちに、品物を納めることになります。打ち合わせが必要な小物は、もう少し時がかかりますが、それも目処は立っております。本当に、ありがとうございました」
「とんでもない。がんばったのはお前だ」
「何の。井ノ瀬様と流様が手を貸してくださったからです。手前だけだったら、もう命はなかったでしょう」
怡与蔵は淡々と語った。
あの日の話し合いの後で、相模屋は正式に保科家への出入りを認められた。忠左衛門の仲介で、保科正貞とも話をしたようだ。奥向きの家臣とも話をしており、商いは滞りなく進んでいた。
「何か問題はありそうか」
「今のところなにも」
怡与蔵は、そこで目を細めた。
「そういえば、作次の一党が姿を見せないのです。風の噂では、江戸を離れたとのことで。いったい、何があったのでしょう」
怡与蔵の言葉に、五郎と拓之進は顔を見合わせた。思わず笑みを浮かべる。
作次の根城を襲った後、二人は書付を残して去った。
そこには、武家屋敷の由来について記していた。
この屋敷はかつて小田原北条氏の陣屋であり、小田原攻めの際に、大きな合戦があった。三千の将兵が激突し、多くの死傷者が出た。首を打ち棄てられた者もおり、しばらく、屋敷の周囲には死体の山が積まれていたと書いた。
無論、それはでっち上げだ。作次の一党を脅すために、五郎が書いた。
闇夜の襲撃をうまく使って、北条方の幽霊がおり、その屋敷に留まっていれば取り殺されると、彼らに思い込ませる策を講じたのである。
書状を読んで、作次の一党は震えあがった。普段なら歯牙にもかけなかっただろうが、夜、正体不明の敵に、何をされたのかわからぬまま倒された後では、幽霊という言葉は強い恐怖を与えた。
それでも、しばらく彼らは屋敷に留まっていたが、新月の晩に拓之進が再び屋敷に侵入し、作太の髷を切り落とすと、恐慌に陥って、その日のうちに十人を超える荒くれ者が逃げ出した。翌日、二人で屋敷に白い布を投げ込むと、屋敷にいた全員が飛び出した。
彼らが江戸を飛び出すまで、三日とかからなかった。
孝右衛門の要望通り、二人は大きな騒動を起こすことなく、作太の一党を追い払うことに成功した。
うまくいったのは、拓之進の技があったからだ。最初に襲撃した時、物音をたてず、闇の中で敵を倒したため、荒くれ者は我を失った。彼らが浮き足だったところで、二人が巧みにゆさぶりをかけたところで、勝負は決した。
「お前のおかげだ」
「いえ。五郎さんもがんばりましたよ」
「どうかな。足を引っぱっていただけのように思えるが」
「そんなことはありませんよ。ねえ、怡与蔵さん」
「もちろんです。井ノ瀬様がいなければ、どうなっていたか」
話しかけられた怡与蔵は力強く応じた。
「能登屋さんが動いたのも、井ノ瀬様の言葉があったからです。きちんと話をしてくれたからこそ、保科家に紹介する気にもなったのでしょう」
今回、相模屋は保科家との取引で大いに助けられたのであるが、そのきっかけを作ったのは、あの能登屋孝右衛門だった。
当初、忠左衛門は能登屋との商いを望んだのであるが、孝右衛門はそれを断り、怡与蔵と会うように勧めた。
一見したところ、頼りなく見えるが、芯が通っているから安心していい。何とかしてやりたいので、面倒を見てやってくれないかと頭を下げたらしい。
正直、裏があるのではと勘ぐったと、忠左衛門は語った。それほどまでに熱心だったらしい。
相模屋の商いがうまくいかなかったとき、職人や取引先を押さえて回ったのも、孝右衛門の考えだった。放っておけば、横から他の店がかっさらってしまい、先代が積みあげた商いの結びつきがなくなってしまう。それを怖れて、先手を打ち、自ら囲い込んだのである。もちろん、時が来たら、相模屋に帰すつもりで。
実際、仕事が回るようになると、職人は相模屋との商いを再開して、かつてのように素晴らしい品物を納めてくれた。
事情を知った怡与蔵は、礼を言うため、孝右衛門と会った。その場に、五郎は同席したのであるが、その場で彼は言った。
「頭を下げられるほどのことではありませんな。あんたらが駄目になったら、そのまま手前どもが馴染みを総取りできたのですがな」
傲慢な言い回しであったが、横を向いた孝右衛門の表情には照れが見てとれた。
彼が怡与蔵を見なおすきっかけになったのは、五郎がからんでいたことも大きかった。熱心に助ける姿を見て、まだ救いがあると考えて、あえて厳しい課題を出したようだ。
「だったら、言ってくれればよかったんだよ。切腹とか切り出されたときには、どうしようかと思った」
「でも、それで、五郎さんは本気になったでしょう。それでよかったんです」
「なんか情けないよ」
しばし三人は今後について話をし、一刻ほど経ったところで、怡与蔵は辞去した。
入れ替わりに姿を見せたのは、弓子だった。五郎が見送りを終えて、縁側に回ると、それを追いかけるようにして、庭に入ってきた。
「あら、怡与蔵さん、来ていたの」
「ああ、商いがうまくいったから、その礼を言いにな」
「律儀な人ね」
弓子は、縁側に腰を下ろした。
「勝手に座るなよ」
「何を言っているの。呼び出したのは、そっちでしょ」
「そういう時は、ちゃんと先触れを出すものだ。都合がある」
「生意気、言って。それで何の用よ」
小さく息を吐くと、五郎は懐から紙の包みを出した。それを弓子に押しつける。
「やるよ。世話になったからな」
「何、これ」
「たいしたものじゃねえよ」
弓子は包みを見ていたが、やがて顔をあげて、五郎に視線を移す。
「中を見ていい」
「好きにしろ」
弓子は包みを開けた。途端に声がする。
「すごい、これ、簪でしょ。いったい、どうして」
「だから言っただろう。世話になったって。お前が口を利いてくれたから、相模屋は新しい馴染みを見つけられた。あれは助かった」
弓子は出入りの商人に相模屋を紹介したが、そのうちの何人かが相模屋の品を気に入って、取引を申し出た。娘のために、簪を買った主もいて、まとまった収入になったようだ。怡与蔵も感謝しており、何か礼をしたいと言っていた。
「でも、相模屋さんのでしょ。高いんじゃ」
「いいから受け取れよ。もう買ったんだから」
以前、相模屋の簪を見たとき、弓子は驚くほど明るい表情を見せた。
もしやすると、流行の簪を挿して、普段の自分とは異なる姿を思い描き、心を浮き立たせたのかもしれない。
それは、五郎の心をいたく刺激した。
もう一度、あの顔が見たい。そう思ったからこそ、相模屋から今回の礼に何かと言われた時、ためらうことなく簪を選んだのである。
「ありがとう。とてもうれしい」
「せっかくだから刺してみろよ」
「そうね」
弓子は髪に手をかけたが、それは途中で止まった。
「ねえ、あんたがやってよ」
「はあ。簪のさし方なんてわからないよ」
「いいから。あなたにやって欲しいの。お願い」
弓子が五郎を見あげる。その視線は、普段とは違う熱を持っていた。
五郎は簪を受け取った。それを髪に挿そうとしたところで、玄関が物音がした。かなり大きい。
五郎と弓子は顔を見合わせた。急ぎ玄関に向かうと、大男が拓之進を引き連れて、屋敷から出てくるところだった。
「おい、待て。拓之進をどうするつもりだ」
五郎が声をかけると、大男は視線を転じた。
すさまじい殺気が放たれる。
一瞬で首を刎ねられたように感じて、五郎はその場に立ち尽くした。
「儂は、柳生家家中、久我山信左衛門。この者はもらっていく」
「何だって」
「元々、この者は柳生家にかかわりのある者。余計な詮索は無用」
源九郎が無理矢理に拓之進を引いていく。抵抗の気配はまったくない。
どういうことだ。拓之進の剣技があれば、相手が誰であれ、叩きのめすのは簡単であろうに。
「五郎さん……」
拓之進は、頼る者のない幼子のような顔を向けてくる。
その瞳には涙がある。
おい、何だよ。お前は、そんな弱いやつではなかっただろう。どうした。
五郎は声をかけたかったが、結局、口を開けないまま、ただ彼らが門を出ていくのを見ているしかなかった。
五郎の前で、怡与蔵は丁寧に頭を下げた。井ノ瀬家の奥座敷でのことで、その仕草にはこれまでにない風格を感じた。もう一人前の商人だ。
「近いうちに、品物を納めることになります。打ち合わせが必要な小物は、もう少し時がかかりますが、それも目処は立っております。本当に、ありがとうございました」
「とんでもない。がんばったのはお前だ」
「何の。井ノ瀬様と流様が手を貸してくださったからです。手前だけだったら、もう命はなかったでしょう」
怡与蔵は淡々と語った。
あの日の話し合いの後で、相模屋は正式に保科家への出入りを認められた。忠左衛門の仲介で、保科正貞とも話をしたようだ。奥向きの家臣とも話をしており、商いは滞りなく進んでいた。
「何か問題はありそうか」
「今のところなにも」
怡与蔵は、そこで目を細めた。
「そういえば、作次の一党が姿を見せないのです。風の噂では、江戸を離れたとのことで。いったい、何があったのでしょう」
怡与蔵の言葉に、五郎と拓之進は顔を見合わせた。思わず笑みを浮かべる。
作次の根城を襲った後、二人は書付を残して去った。
そこには、武家屋敷の由来について記していた。
この屋敷はかつて小田原北条氏の陣屋であり、小田原攻めの際に、大きな合戦があった。三千の将兵が激突し、多くの死傷者が出た。首を打ち棄てられた者もおり、しばらく、屋敷の周囲には死体の山が積まれていたと書いた。
無論、それはでっち上げだ。作次の一党を脅すために、五郎が書いた。
闇夜の襲撃をうまく使って、北条方の幽霊がおり、その屋敷に留まっていれば取り殺されると、彼らに思い込ませる策を講じたのである。
書状を読んで、作次の一党は震えあがった。普段なら歯牙にもかけなかっただろうが、夜、正体不明の敵に、何をされたのかわからぬまま倒された後では、幽霊という言葉は強い恐怖を与えた。
それでも、しばらく彼らは屋敷に留まっていたが、新月の晩に拓之進が再び屋敷に侵入し、作太の髷を切り落とすと、恐慌に陥って、その日のうちに十人を超える荒くれ者が逃げ出した。翌日、二人で屋敷に白い布を投げ込むと、屋敷にいた全員が飛び出した。
彼らが江戸を飛び出すまで、三日とかからなかった。
孝右衛門の要望通り、二人は大きな騒動を起こすことなく、作太の一党を追い払うことに成功した。
うまくいったのは、拓之進の技があったからだ。最初に襲撃した時、物音をたてず、闇の中で敵を倒したため、荒くれ者は我を失った。彼らが浮き足だったところで、二人が巧みにゆさぶりをかけたところで、勝負は決した。
「お前のおかげだ」
「いえ。五郎さんもがんばりましたよ」
「どうかな。足を引っぱっていただけのように思えるが」
「そんなことはありませんよ。ねえ、怡与蔵さん」
「もちろんです。井ノ瀬様がいなければ、どうなっていたか」
話しかけられた怡与蔵は力強く応じた。
「能登屋さんが動いたのも、井ノ瀬様の言葉があったからです。きちんと話をしてくれたからこそ、保科家に紹介する気にもなったのでしょう」
今回、相模屋は保科家との取引で大いに助けられたのであるが、そのきっかけを作ったのは、あの能登屋孝右衛門だった。
当初、忠左衛門は能登屋との商いを望んだのであるが、孝右衛門はそれを断り、怡与蔵と会うように勧めた。
一見したところ、頼りなく見えるが、芯が通っているから安心していい。何とかしてやりたいので、面倒を見てやってくれないかと頭を下げたらしい。
正直、裏があるのではと勘ぐったと、忠左衛門は語った。それほどまでに熱心だったらしい。
相模屋の商いがうまくいかなかったとき、職人や取引先を押さえて回ったのも、孝右衛門の考えだった。放っておけば、横から他の店がかっさらってしまい、先代が積みあげた商いの結びつきがなくなってしまう。それを怖れて、先手を打ち、自ら囲い込んだのである。もちろん、時が来たら、相模屋に帰すつもりで。
実際、仕事が回るようになると、職人は相模屋との商いを再開して、かつてのように素晴らしい品物を納めてくれた。
事情を知った怡与蔵は、礼を言うため、孝右衛門と会った。その場に、五郎は同席したのであるが、その場で彼は言った。
「頭を下げられるほどのことではありませんな。あんたらが駄目になったら、そのまま手前どもが馴染みを総取りできたのですがな」
傲慢な言い回しであったが、横を向いた孝右衛門の表情には照れが見てとれた。
彼が怡与蔵を見なおすきっかけになったのは、五郎がからんでいたことも大きかった。熱心に助ける姿を見て、まだ救いがあると考えて、あえて厳しい課題を出したようだ。
「だったら、言ってくれればよかったんだよ。切腹とか切り出されたときには、どうしようかと思った」
「でも、それで、五郎さんは本気になったでしょう。それでよかったんです」
「なんか情けないよ」
しばし三人は今後について話をし、一刻ほど経ったところで、怡与蔵は辞去した。
入れ替わりに姿を見せたのは、弓子だった。五郎が見送りを終えて、縁側に回ると、それを追いかけるようにして、庭に入ってきた。
「あら、怡与蔵さん、来ていたの」
「ああ、商いがうまくいったから、その礼を言いにな」
「律儀な人ね」
弓子は、縁側に腰を下ろした。
「勝手に座るなよ」
「何を言っているの。呼び出したのは、そっちでしょ」
「そういう時は、ちゃんと先触れを出すものだ。都合がある」
「生意気、言って。それで何の用よ」
小さく息を吐くと、五郎は懐から紙の包みを出した。それを弓子に押しつける。
「やるよ。世話になったからな」
「何、これ」
「たいしたものじゃねえよ」
弓子は包みを見ていたが、やがて顔をあげて、五郎に視線を移す。
「中を見ていい」
「好きにしろ」
弓子は包みを開けた。途端に声がする。
「すごい、これ、簪でしょ。いったい、どうして」
「だから言っただろう。世話になったって。お前が口を利いてくれたから、相模屋は新しい馴染みを見つけられた。あれは助かった」
弓子は出入りの商人に相模屋を紹介したが、そのうちの何人かが相模屋の品を気に入って、取引を申し出た。娘のために、簪を買った主もいて、まとまった収入になったようだ。怡与蔵も感謝しており、何か礼をしたいと言っていた。
「でも、相模屋さんのでしょ。高いんじゃ」
「いいから受け取れよ。もう買ったんだから」
以前、相模屋の簪を見たとき、弓子は驚くほど明るい表情を見せた。
もしやすると、流行の簪を挿して、普段の自分とは異なる姿を思い描き、心を浮き立たせたのかもしれない。
それは、五郎の心をいたく刺激した。
もう一度、あの顔が見たい。そう思ったからこそ、相模屋から今回の礼に何かと言われた時、ためらうことなく簪を選んだのである。
「ありがとう。とてもうれしい」
「せっかくだから刺してみろよ」
「そうね」
弓子は髪に手をかけたが、それは途中で止まった。
「ねえ、あんたがやってよ」
「はあ。簪のさし方なんてわからないよ」
「いいから。あなたにやって欲しいの。お願い」
弓子が五郎を見あげる。その視線は、普段とは違う熱を持っていた。
五郎は簪を受け取った。それを髪に挿そうとしたところで、玄関が物音がした。かなり大きい。
五郎と弓子は顔を見合わせた。急ぎ玄関に向かうと、大男が拓之進を引き連れて、屋敷から出てくるところだった。
「おい、待て。拓之進をどうするつもりだ」
五郎が声をかけると、大男は視線を転じた。
すさまじい殺気が放たれる。
一瞬で首を刎ねられたように感じて、五郎はその場に立ち尽くした。
「儂は、柳生家家中、久我山信左衛門。この者はもらっていく」
「何だって」
「元々、この者は柳生家にかかわりのある者。余計な詮索は無用」
源九郎が無理矢理に拓之進を引いていく。抵抗の気配はまったくない。
どういうことだ。拓之進の剣技があれば、相手が誰であれ、叩きのめすのは簡単であろうに。
「五郎さん……」
拓之進は、頼る者のない幼子のような顔を向けてくる。
その瞳には涙がある。
おい、何だよ。お前は、そんな弱いやつではなかっただろう。どうした。
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