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第一章【遭逢】
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「『記憶を消す花』?」
そんな非科学的な単語が飛び交ったのは、何時もの通い慣れたバーでの出来事であった。
そこは駅から幾分か離れた飲み屋街に存在する小さなバーで。
私の住む駅の南口側は河原の続く田舎道であったが、対して北口から抜ければ正反対のようなのだ。流行りの飲食店や若者の洋服店をはじめとした華やかな街が広がっている。
最も私はそのような輝かしい場へ赴く性分では無いが、四脚の木製スツールが入るこじんまりしたその佇まいから、自分でも驚く程このバーだけはお気に入りの場所となっていたのだ。
煌びやかな街の中、少し古臭い年季の入ったその店は酷く私に似ていた。眩しい群衆の中で作り笑いの営業を繰り広げる紛れもない今の私を彷彿とさせるのだ。
そして決まってこのバーを訪れるのは私の気が落ち込んだ日である。これは最早自分の中でのルーティンとなっていた。昼間会社で成した失態を、この店のウイスキーで流し込む。まるで胃の中に強制的に蓋をするようにその失態を閉じ込めるのだ。仕事の失態も流し込んだはずのウイスキーも、ここで同じ数だけ吐露してきた。
しかしどうやらバーの店主は優しいことに全てを受け入れてくれる。慈悲だ。有難いことに店主は黙ったまま私の話を聞き、最後には客から聞いた滑稽な話を提供してくれるもんだから、私は最後には笑って、また翌日出社をするのだ。私も馬鹿な生き物になったものだ。酒は全てを忘却させてくれると信仰し、「こんな会社辞めてやる」と言ってはまた働く。同じことを繰り返す日々だ。
そうして、この日も例外ではなく仕事終わりにほとほと落ち込み、このバーに雪崩込んだ次第である。
しかしながら今日の訪問は普段の足運びとはまた違う、特別な感覚であった。
それもそのはず、私は今日の訪れを「最期の晩餐」にしようと考えている。
というのも近日の私の様子は『仕事の疲れ』と一言で表されるものではなかった。
連日にわたり食や娯楽への感性を失い、仕舞いには生への執着が薄れ始めていた。人間とは防衛本能が働くもので、頭ではまだ出来る、まだやれると励ましていたとしても一方の身体は全く機能しなくなるようだ。人は馬鹿な生き物だと思っていたのは、人間その物ではなく私だけを指していたのか。自身の言葉を後悔するように頭の中で嘆く。兎にも角にもつまりは仕事を続けることさえもできなくなってしまった訳である。
何事も手に付かなくなり三十路を迎えた私は、恋人の一人も居ない、愛人も居ない、家族とはほぼ縁も途絶え、仕事仲間でさえも、また多くの友だちすらも居ない。挙句の果てには自分一人を生かす唯一の手段であった仕事を辞めた今日。私がまず思い立った事はこのバーへ立ち寄り、最期に最高の酒を仰ぐという行為だった。
絶対に飲み干すことは無いだろうとキープしていたあのボトル。まだほとんど量が減っていないそれを今日は全て飲み干してしまうと決め込む。そのくらいの覚悟で来ていたのだ。
大好きなウイスキーと器用に作られた丸氷を朧気に見つめる。今まで何度も見てきたはずの懇切丁寧に彫られたグラスの切子は、既にぼやけて見えない程に私の酔いは回っていた。
そんな事から冒頭の会話へ戻る。
「何でも記憶を消す事が出来る効能を持った花があるそうな。いえ、お客さんから聞いた談笑のひとつに過ぎないのですがね。」
そう言う店主はまるで自分の方が酔っているぞとばかりに意気揚々と私に話を聞かせた。店主なりに私を励まそうとしているのだろう。仕事の愚痴を零すことしか脳の無いあの私が静かである事をそんなにも珍しく感じたのだろうか。何時ものような仕事の失敗を、記憶を消す事で忘れ去れば良いとでも言いたいのだろうか。
「えぇ、ご主人貴方、その顔は信じていないのでありましょう。」
「そんな空想世界のような話があるものか。小説ではあるまいし。あぁ、もしかして、そういうアンタはこの話を信じているのかい?」
「勿論信じていますとも。」
即刻、そしてハッキリと返された。
けれどもそこで気後れする私では無い。
「根拠の無い話を信じてはいけないよ。先ず、アンタは先刻その花の効能に『記憶を消す事が出来る』と挙げたね。一体全体、人間のどの規模の記憶を消す事が出来るのかね。…一部分を?それとも全て?」
「さァ」
「仮に若し記憶を一部消す事が出来たとしよう。自分の消したい記憶が消せるとは限らないじゃあないか。例えば自分の消したい記憶は残って、消したくない記憶は消えてしまう、だとか。」
「さァ」
「では消したい記憶を消すことが出来たと仮定しよう。それは一生消えたままなのだろうか。それともある一定の時間が経過すれば思い出すこともあるのだろうか。」
「さァ」
「そもそも記憶を消そうにも、どうやって消すと言うのだい?花の香りを嗅ぐ?花弁を食べる?花粉を飲む?毒のように触れるだけで記憶が消えるとでも言うのかい。」
「さァ」
「…。
アンタ、何も分かっちゃいないじゃないか!」
ガタンとバーカウンターから立ち上がると、スツールはその拍子に後ろへ倒れた。私は目の前の一杯をそのままぐいと飲み干し、有り金を叩きつけるように置く。結局ボトルの酒は半分以上残ったままだった。
最期なのだ。
今までの愚痴聞き代金にはまるで届かないかもしれないが、チップ代わりのつもりで沢山の札束と小銭をポケットから投げ出した。
「じゃあね、マスター。私だから取り合ってあげたものの、他のお客さんには『記憶を消す花』なんて阿呆な話をするものじゃないよ。」
「そりゃあご忠告どうも。嫌なことも忘れてしまえば良いのに、と思っただけなのですがね。」
矢張りか。
私は店主の創り話に踊らされていたのだろう。何時もであれば時間の無駄だと思った事も、今の私には調度良いと感じるようになっていた。
最期にはピッタリだったのかもしれない。このくらいインパクトが無くちゃあ。
「またご贔屓に。」
扉を閉じる瞬間に聞こえたその声が、私の頭では反復していた。
『また』。
『また』はもう二度と来ないだろうに。
「『記憶を消す花』?」
そんな非科学的な単語が飛び交ったのは、何時もの通い慣れたバーでの出来事であった。
そこは駅から幾分か離れた飲み屋街に存在する小さなバーで。
私の住む駅の南口側は河原の続く田舎道であったが、対して北口から抜ければ正反対のようなのだ。流行りの飲食店や若者の洋服店をはじめとした華やかな街が広がっている。
最も私はそのような輝かしい場へ赴く性分では無いが、四脚の木製スツールが入るこじんまりしたその佇まいから、自分でも驚く程このバーだけはお気に入りの場所となっていたのだ。
煌びやかな街の中、少し古臭い年季の入ったその店は酷く私に似ていた。眩しい群衆の中で作り笑いの営業を繰り広げる紛れもない今の私を彷彿とさせるのだ。
そして決まってこのバーを訪れるのは私の気が落ち込んだ日である。これは最早自分の中でのルーティンとなっていた。昼間会社で成した失態を、この店のウイスキーで流し込む。まるで胃の中に強制的に蓋をするようにその失態を閉じ込めるのだ。仕事の失態も流し込んだはずのウイスキーも、ここで同じ数だけ吐露してきた。
しかしどうやらバーの店主は優しいことに全てを受け入れてくれる。慈悲だ。有難いことに店主は黙ったまま私の話を聞き、最後には客から聞いた滑稽な話を提供してくれるもんだから、私は最後には笑って、また翌日出社をするのだ。私も馬鹿な生き物になったものだ。酒は全てを忘却させてくれると信仰し、「こんな会社辞めてやる」と言ってはまた働く。同じことを繰り返す日々だ。
そうして、この日も例外ではなく仕事終わりにほとほと落ち込み、このバーに雪崩込んだ次第である。
しかしながら今日の訪問は普段の足運びとはまた違う、特別な感覚であった。
それもそのはず、私は今日の訪れを「最期の晩餐」にしようと考えている。
というのも近日の私の様子は『仕事の疲れ』と一言で表されるものではなかった。
連日にわたり食や娯楽への感性を失い、仕舞いには生への執着が薄れ始めていた。人間とは防衛本能が働くもので、頭ではまだ出来る、まだやれると励ましていたとしても一方の身体は全く機能しなくなるようだ。人は馬鹿な生き物だと思っていたのは、人間その物ではなく私だけを指していたのか。自身の言葉を後悔するように頭の中で嘆く。兎にも角にもつまりは仕事を続けることさえもできなくなってしまった訳である。
何事も手に付かなくなり三十路を迎えた私は、恋人の一人も居ない、愛人も居ない、家族とはほぼ縁も途絶え、仕事仲間でさえも、また多くの友だちすらも居ない。挙句の果てには自分一人を生かす唯一の手段であった仕事を辞めた今日。私がまず思い立った事はこのバーへ立ち寄り、最期に最高の酒を仰ぐという行為だった。
絶対に飲み干すことは無いだろうとキープしていたあのボトル。まだほとんど量が減っていないそれを今日は全て飲み干してしまうと決め込む。そのくらいの覚悟で来ていたのだ。
大好きなウイスキーと器用に作られた丸氷を朧気に見つめる。今まで何度も見てきたはずの懇切丁寧に彫られたグラスの切子は、既にぼやけて見えない程に私の酔いは回っていた。
そんな事から冒頭の会話へ戻る。
「何でも記憶を消す事が出来る効能を持った花があるそうな。いえ、お客さんから聞いた談笑のひとつに過ぎないのですがね。」
そう言う店主はまるで自分の方が酔っているぞとばかりに意気揚々と私に話を聞かせた。店主なりに私を励まそうとしているのだろう。仕事の愚痴を零すことしか脳の無いあの私が静かである事をそんなにも珍しく感じたのだろうか。何時ものような仕事の失敗を、記憶を消す事で忘れ去れば良いとでも言いたいのだろうか。
「えぇ、ご主人貴方、その顔は信じていないのでありましょう。」
「そんな空想世界のような話があるものか。小説ではあるまいし。あぁ、もしかして、そういうアンタはこの話を信じているのかい?」
「勿論信じていますとも。」
即刻、そしてハッキリと返された。
けれどもそこで気後れする私では無い。
「根拠の無い話を信じてはいけないよ。先ず、アンタは先刻その花の効能に『記憶を消す事が出来る』と挙げたね。一体全体、人間のどの規模の記憶を消す事が出来るのかね。…一部分を?それとも全て?」
「さァ」
「仮に若し記憶を一部消す事が出来たとしよう。自分の消したい記憶が消せるとは限らないじゃあないか。例えば自分の消したい記憶は残って、消したくない記憶は消えてしまう、だとか。」
「さァ」
「では消したい記憶を消すことが出来たと仮定しよう。それは一生消えたままなのだろうか。それともある一定の時間が経過すれば思い出すこともあるのだろうか。」
「さァ」
「そもそも記憶を消そうにも、どうやって消すと言うのだい?花の香りを嗅ぐ?花弁を食べる?花粉を飲む?毒のように触れるだけで記憶が消えるとでも言うのかい。」
「さァ」
「…。
アンタ、何も分かっちゃいないじゃないか!」
ガタンとバーカウンターから立ち上がると、スツールはその拍子に後ろへ倒れた。私は目の前の一杯をそのままぐいと飲み干し、有り金を叩きつけるように置く。結局ボトルの酒は半分以上残ったままだった。
最期なのだ。
今までの愚痴聞き代金にはまるで届かないかもしれないが、チップ代わりのつもりで沢山の札束と小銭をポケットから投げ出した。
「じゃあね、マスター。私だから取り合ってあげたものの、他のお客さんには『記憶を消す花』なんて阿呆な話をするものじゃないよ。」
「そりゃあご忠告どうも。嫌なことも忘れてしまえば良いのに、と思っただけなのですがね。」
矢張りか。
私は店主の創り話に踊らされていたのだろう。何時もであれば時間の無駄だと思った事も、今の私には調度良いと感じるようになっていた。
最期にはピッタリだったのかもしれない。このくらいインパクトが無くちゃあ。
「またご贔屓に。」
扉を閉じる瞬間に聞こえたその声が、私の頭では反復していた。
『また』。
『また』はもう二度と来ないだろうに。
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