臭いモノには花

植澄 紗

文字の大きさ
3 / 15
第一章【遭逢】

1

しおりを挟む
 1

「『記憶を消す花』?」


 そんな非科学的な単語が飛び交ったのは、何時もの通い慣れたバーでの出来事であった。


 そこは駅から幾分か離れた飲み屋街に存在する小さなバーで。

 私の住む駅の南口側は河原の続く田舎道であったが、対して北口から抜ければ正反対のようなのだ。流行りの飲食店や若者の洋服店をはじめとした華やかな街が広がっている。


 最も私はそのような輝かしい場へ赴く性分では無いが、四脚の木製スツールが入るこじんまりしたその佇まいから、自分でも驚く程このバーだけはお気に入りの場所となっていたのだ。



 煌びやかな街の中、少し古臭い年季の入ったその店は酷く私に似ていた。眩しい群衆の中で作り笑いの営業を繰り広げる紛れもない今の私を彷彿とさせるのだ。


 そして決まってこのバーを訪れるのは私の気が落ち込んだ日である。これは最早自分の中でのルーティンとなっていた。昼間会社で成した失態を、この店のウイスキーで流し込む。まるで胃の中に強制的に蓋をするようにその失態を閉じ込めるのだ。仕事の失態も流し込んだはずのウイスキーも、ここで同じ数だけ吐露してきた。

 しかしどうやらバーの店主は優しいことに全てを受け入れてくれる。慈悲だ。有難いことに店主は黙ったまま私の話を聞き、最後には客から聞いた滑稽な話を提供してくれるもんだから、私は最後には笑って、また翌日出社をするのだ。私も馬鹿な生き物になったものだ。酒は全てを忘却させてくれると信仰し、「こんな会社辞めてやる」と言ってはまた働く。同じことを繰り返す日々だ。



 そうして、この日も例外ではなく仕事終わりにほとほと落ち込み、このバーに雪崩込んだ次第である。





 しかしながら今日の訪問は普段の足運びとはまた違う、特別な感覚であった。


 それもそのはず、私は今日の訪れを「最期の晩餐」にしようと考えている。





 というのも近日の私の様子は『仕事の疲れ』と一言で表されるものではなかった。

 連日にわたり食や娯楽への感性を失い、仕舞いには生への執着が薄れ始めていた。人間とは防衛本能が働くもので、頭ではまだ出来る、まだやれると励ましていたとしても一方の身体は全く機能しなくなるようだ。人は馬鹿な生き物だと思っていたのは、人間その物ではなく私だけを指していたのか。自身の言葉を後悔するように頭の中で嘆く。兎にも角にもつまりは仕事を続けることさえもできなくなってしまった訳である。 

 何事も手に付かなくなり三十路を迎えた私は、恋人の一人も居ない、愛人も居ない、家族とはほぼ縁も途絶え、仕事仲間でさえも、また多くの友だちすらも居ない。挙句の果てには自分一人を生かす唯一の手段であった仕事を辞めた今日。私がまず思い立った事はこのバーへ立ち寄り、最期に最高の酒を仰ぐという行為だった。

 絶対に飲み干すことは無いだろうとキープしていたあのボトル。まだほとんど量が減っていないそれを今日は全て飲み干してしまうと決め込む。そのくらいの覚悟で来ていたのだ。 


 大好きなウイスキーと器用に作られた丸氷を朧気に見つめる。今まで何度も見てきたはずの懇切丁寧に彫られたグラスの切子は、既にぼやけて見えない程に私の酔いは回っていた。



 そんな事から冒頭の会話へ戻る。



「何でも記憶を消す事が出来る効能を持った花があるそうな。いえ、お客さんから聞いた談笑のひとつに過ぎないのですがね。」



 そう言う店主はまるで自分の方が酔っているぞとばかりに意気揚々と私に話を聞かせた。店主なりに私を励まそうとしているのだろう。仕事の愚痴を零すことしか脳の無いあの私が静かである事をそんなにも珍しく感じたのだろうか。何時ものような仕事の失敗を、記憶を消す事で忘れ去れば良いとでも言いたいのだろうか。


「えぇ、ご主人貴方、その顔は信じていないのでありましょう。」

「そんな空想世界のような話があるものか。小説ではあるまいし。あぁ、もしかして、そういうアンタはこの話を信じているのかい?」




「勿論信じていますとも。」


  
 即刻、そしてハッキリと返された。
 けれどもそこで気後れする私では無い。


「根拠の無い話を信じてはいけないよ。先ず、アンタは先刻その花の効能に『記憶を消す事が出来る』と挙げたね。一体全体、人間のどの規模の記憶を消す事が出来るのかね。…一部分を?それとも全て?」

「さァ」

「仮に若し記憶を一部消す事が出来たとしよう。自分の消したい記憶が消せるとは限らないじゃあないか。例えば自分の消したい記憶は残って、消したくない記憶は消えてしまう、だとか。」

「さァ」

「では消したい記憶を消すことが出来たと仮定しよう。それは一生消えたままなのだろうか。それともある一定の時間が経過すれば思い出すこともあるのだろうか。」

「さァ」

「そもそも記憶を消そうにも、どうやって消すと言うのだい?花の香りを嗅ぐ?花弁を食べる?花粉を飲む?毒のように触れるだけで記憶が消えるとでも言うのかい。」

「さァ」

「…。
 
 アンタ、何も分かっちゃいないじゃないか!」


 ガタンとバーカウンターから立ち上がると、スツールはその拍子に後ろへ倒れた。私は目の前の一杯をそのままぐいと飲み干し、有り金を叩きつけるように置く。結局ボトルの酒は半分以上残ったままだった。


 最期なのだ。


 今までの愚痴聞き代金にはまるで届かないかもしれないが、チップ代わりのつもりで沢山の札束と小銭をポケットから投げ出した。


「じゃあね、マスター。私だから取り合ってあげたものの、他のお客さんには『記憶を消す花』なんて阿呆な話をするものじゃないよ。」


「そりゃあご忠告どうも。嫌なことも忘れてしまえば良いのに、と思っただけなのですがね。」


 矢張りか。

 私は店主の創り話に踊らされていたのだろう。何時もであれば時間の無駄だと思った事も、今の私には調度良いと感じるようになっていた。

 最期にはピッタリだったのかもしれない。このくらいインパクトが無くちゃあ。

「またご贔屓に。」

 扉を閉じる瞬間に聞こえたその声が、私の頭では反復していた。




『また』。




『また』はもう二度と来ないだろうに。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

処理中です...