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第1章
【1.2.2】 そこに残っている何か。
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夕飯の時間にはまだ少し早いというのに、部屋から出てきた倫太郎に気が付いた母親は、「夕飯、まだできないから、適当になんか食べておいて。」と言いながら、乾いたらしい洗濯物をザバザバと置いた。
仕事から帰ってきてからしばらくは、パタパタといつも忙しそうだ。帰り際にスーパーにでも寄って来たのだろうか。買い物の袋が、冷蔵庫の前に無造作に置かれている。
毎日、適当に起きて、適当にゲームして、適当に眠くなったら寝る。そんな日々を過ごしていたせいで、倫太郎の扱いはひどくぞんざいだ。それでも軽く摘まめるものを用意してくれているあたり、見捨てられてはいないということなのだろうけど。
倫太郎が学校に行けなくなり始めた頃の、腫れものをさわるかのように接してくる母親を思い出せば、かなりの進歩だと言える。あの頃は、母親の悲壮な顔も、上手くいかなくてイライラしている様子も見たくなくて、倫太郎は自分の部屋にただただ閉じこもっていた。腹が減るから仕方なく階下に下りる、家族との接点はそれだけだった。
倫太郎はスーパーの袋を開け、中のものを適当に冷蔵庫に入れていく。牛乳、魚の切り身のパック、豚肉、にんじん。にんじんは、冷蔵庫で良いのか?と疑問に思った倫太郎は、それをまた袋に戻した。まだ中身の残る買い物袋にカレー粉が入っているのを見つけた瞬間、向こうの世界でたらふく食べた肉の匂いを思い出した。腹が減っているのに、気持ちだけはいっぱいというひどい違和感だ。
いつだっただろうか。母親が諦めたのか何なのか、急に元の母親に戻ったような気がした。
学校に普通に通っていた頃の母親は、あっけらかんとしていて、どちらかというと肝っ玉母さんだ。それが、倫太郎がいきなり学校に行きたくないと始まったせいで、急にしおしおと萎れてしまったのだ。
それが、何をきっかけにしたのか、急に全てを吹っ切ったかのように母親が元気になれば、父親の目に見えるイライラも少し収まるようになった。両親は学校の話に一切触れなくなり、会話も、少ないけれども、それでも少しはするようになった。
もう少しすれば退学になるというのに良いのだろうかと、なぜか倫太郎の方が心配になるほどだ。
そんなことを思い出しながら、倫太郎は再び冷蔵庫を開ける。色々入ってはいるが、何を食べて良いのかがわからず途方に暮れた。腹は減っているのだが、口の中に向こうで食べた肉の感覚が残っていて、濃いものは食べたくない。甘いものでも良いが、がっつり甘いものはちょっと…という感じで、目ぼしいものを見つけられないまま、冷蔵庫の扉を閉めた。
「そうそう、隣の山田さんがね、千葉に旅行に行って、そのお土産がテーブルにあるでしょう?あと一個だし、食べちゃって。」
リビングで取り込んだ洗濯物を畳みながら、母親が言った。カウンター越しに見れば、テーブルの上に一つだけ残された温泉饅頭がある。倫太郎はキッチンを出て、椅子に座ると、それを手に取った。なんとなく頼りないそれをそっと持ち上げて、なんだか久しぶりだなと思いながら、かさかさとその透明な包みを開けば、ありがちな茶色の焼き印を押された白い饅頭が出て来て、手にしっとりと吸い付いた。
言われずともとばかりにがぶりと噛みつけば、あっという間に半分が口の中に消える。モグモグと咀嚼しながら残りの饅頭を見れば、焼き印の「竜」の字が逆さで残っていた。
「今日の夕飯、何?」
さきほど向こうで食べた肉を思い出し、気が付けば聞いていた。もしカレーだったら…と思うと、少しうんざりしたからだ。この身体には入っていないはずの肉だが、食べた感覚だけは残っている。しかも、たらふく食べたのだ。
頭は満たされているのに、腹は満たされていない。そんな欲求も思い込み?向こうで食べた肉が思い込み?倫太郎はそんなことを考えながら、噛み合わない思考と身体を合わせるように腹をさする。
「あなたがそんなこと聞くなんて、珍しいわね。久々の外出に疲れた?」
残った饅頭を口に放り込む。あっという間に無くなってしまった。そこに何も無くなってしまった手には、その感触だけが残っている。そこにあったはずのものは無くなって、でもそこに残っている何か。
そこにあったものが、自分の思い込みによるものだというのなら、心に残ったこの気持ちは一体何なのだろう。
「疲れたのかも。」
そう。本当はひどく疲れている。身体も、頭も。
当たり前だったことが、当たり前で無くなっていく。強固だった足元が揺らぎ、不安が募る。
もしかしたら、自分は今、夢を見ているのかもしれない。そんな現実逃避でさえも、実は逃避でもなんでもなく、それが事実だとしたら。この世界もさっき見た世界のように、誰かの手によって作られたものだとしたら、今ここにいる自分は一体何者なんだろう。
「今日は、ブリが安かったから照り焼きにしようと思ってたんだけど。」
母親の言葉に、倫太郎は思考の沼から引き揚げられる。
母親の方を見れば、洗濯ものを畳む手を止めて、倫太郎の表情を伺っているかのようにこちらを見ていた。きっとそれは、倫太郎があまり魚を食べないせいだ。
家に引きこもってばかりだからか、食が細く、そして興味も薄い。好きでないものが出れば、白飯だけ食べて御馳走さまでも倫太郎にとっては問題無いのだが、母親の中ではそれでは許されないらしい。
しかし、今日は違う。腹は減っているのだ。
「照り焼き、良いね。」
倫太郎がそう言うと、母親は少し驚いたような顔をした後、ほっとしたように笑った。
仕事から帰ってきてからしばらくは、パタパタといつも忙しそうだ。帰り際にスーパーにでも寄って来たのだろうか。買い物の袋が、冷蔵庫の前に無造作に置かれている。
毎日、適当に起きて、適当にゲームして、適当に眠くなったら寝る。そんな日々を過ごしていたせいで、倫太郎の扱いはひどくぞんざいだ。それでも軽く摘まめるものを用意してくれているあたり、見捨てられてはいないということなのだろうけど。
倫太郎が学校に行けなくなり始めた頃の、腫れものをさわるかのように接してくる母親を思い出せば、かなりの進歩だと言える。あの頃は、母親の悲壮な顔も、上手くいかなくてイライラしている様子も見たくなくて、倫太郎は自分の部屋にただただ閉じこもっていた。腹が減るから仕方なく階下に下りる、家族との接点はそれだけだった。
倫太郎はスーパーの袋を開け、中のものを適当に冷蔵庫に入れていく。牛乳、魚の切り身のパック、豚肉、にんじん。にんじんは、冷蔵庫で良いのか?と疑問に思った倫太郎は、それをまた袋に戻した。まだ中身の残る買い物袋にカレー粉が入っているのを見つけた瞬間、向こうの世界でたらふく食べた肉の匂いを思い出した。腹が減っているのに、気持ちだけはいっぱいというひどい違和感だ。
いつだっただろうか。母親が諦めたのか何なのか、急に元の母親に戻ったような気がした。
学校に普通に通っていた頃の母親は、あっけらかんとしていて、どちらかというと肝っ玉母さんだ。それが、倫太郎がいきなり学校に行きたくないと始まったせいで、急にしおしおと萎れてしまったのだ。
それが、何をきっかけにしたのか、急に全てを吹っ切ったかのように母親が元気になれば、父親の目に見えるイライラも少し収まるようになった。両親は学校の話に一切触れなくなり、会話も、少ないけれども、それでも少しはするようになった。
もう少しすれば退学になるというのに良いのだろうかと、なぜか倫太郎の方が心配になるほどだ。
そんなことを思い出しながら、倫太郎は再び冷蔵庫を開ける。色々入ってはいるが、何を食べて良いのかがわからず途方に暮れた。腹は減っているのだが、口の中に向こうで食べた肉の感覚が残っていて、濃いものは食べたくない。甘いものでも良いが、がっつり甘いものはちょっと…という感じで、目ぼしいものを見つけられないまま、冷蔵庫の扉を閉めた。
「そうそう、隣の山田さんがね、千葉に旅行に行って、そのお土産がテーブルにあるでしょう?あと一個だし、食べちゃって。」
リビングで取り込んだ洗濯物を畳みながら、母親が言った。カウンター越しに見れば、テーブルの上に一つだけ残された温泉饅頭がある。倫太郎はキッチンを出て、椅子に座ると、それを手に取った。なんとなく頼りないそれをそっと持ち上げて、なんだか久しぶりだなと思いながら、かさかさとその透明な包みを開けば、ありがちな茶色の焼き印を押された白い饅頭が出て来て、手にしっとりと吸い付いた。
言われずともとばかりにがぶりと噛みつけば、あっという間に半分が口の中に消える。モグモグと咀嚼しながら残りの饅頭を見れば、焼き印の「竜」の字が逆さで残っていた。
「今日の夕飯、何?」
さきほど向こうで食べた肉を思い出し、気が付けば聞いていた。もしカレーだったら…と思うと、少しうんざりしたからだ。この身体には入っていないはずの肉だが、食べた感覚だけは残っている。しかも、たらふく食べたのだ。
頭は満たされているのに、腹は満たされていない。そんな欲求も思い込み?向こうで食べた肉が思い込み?倫太郎はそんなことを考えながら、噛み合わない思考と身体を合わせるように腹をさする。
「あなたがそんなこと聞くなんて、珍しいわね。久々の外出に疲れた?」
残った饅頭を口に放り込む。あっという間に無くなってしまった。そこに何も無くなってしまった手には、その感触だけが残っている。そこにあったはずのものは無くなって、でもそこに残っている何か。
そこにあったものが、自分の思い込みによるものだというのなら、心に残ったこの気持ちは一体何なのだろう。
「疲れたのかも。」
そう。本当はひどく疲れている。身体も、頭も。
当たり前だったことが、当たり前で無くなっていく。強固だった足元が揺らぎ、不安が募る。
もしかしたら、自分は今、夢を見ているのかもしれない。そんな現実逃避でさえも、実は逃避でもなんでもなく、それが事実だとしたら。この世界もさっき見た世界のように、誰かの手によって作られたものだとしたら、今ここにいる自分は一体何者なんだろう。
「今日は、ブリが安かったから照り焼きにしようと思ってたんだけど。」
母親の言葉に、倫太郎は思考の沼から引き揚げられる。
母親の方を見れば、洗濯ものを畳む手を止めて、倫太郎の表情を伺っているかのようにこちらを見ていた。きっとそれは、倫太郎があまり魚を食べないせいだ。
家に引きこもってばかりだからか、食が細く、そして興味も薄い。好きでないものが出れば、白飯だけ食べて御馳走さまでも倫太郎にとっては問題無いのだが、母親の中ではそれでは許されないらしい。
しかし、今日は違う。腹は減っているのだ。
「照り焼き、良いね。」
倫太郎がそう言うと、母親は少し驚いたような顔をした後、ほっとしたように笑った。
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