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第2章
【2.3.2】 動き出した何か。
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岸間春とは、別れ際に連絡先を交換した。キーホルダーのような類のものが一切ついていないシンプルなスマホケースが、とても彼女らしいと思った。
彼女はギンに、「童話の題材に使わせてほしい。」と頼んでいたようだったが、ギンは呆れたように笑っただけだった。
自転車の籠に入れておいた帽子を被り、ポケットから引っ張り出した自転車の鍵を使って自転車のそれを外す。カシャンと気持ちの良い音がして揺れた自転車のキックスタンドを、倫太郎は蹴った。
ギンは後部座席に立ち上がり、倫太郎の頭に手をかけた。肩の上では、クロが足を投げ出して座っている。緊張感の無いそんな体勢に、落ちやしないかと心配になるが、空から下りて来た姿を思えば、そんな心配など無用であることはわかっている。
「他の人間に、ギン達の姿は見えない。」という言葉を信じて、倫太郎は自転車のペダルを思いっきり踏みこんだ。ゆっくりと進みだしたそれが、徐々にスピードを上げると、来たときよりも冷たい風が、倫太郎の肌を刺す。
元々の出発が遅かったとはいえ、思ったよりも多くの時間を、図書館で過ごしていたらしい。
頭上から聞こえる「うひゃぁ。」とか、「ひょえー。」とかいう、相変わらず楽しそうなギンの声に、倫太郎は思わず笑った。
図書館の入っている役所からの帰り道は、倫太郎の記憶の中にちょっとだけ残っている裏道を通ることにした。役所を出発する前に、念のためスマホの地図のアプリを使ってその道を確認した。あまり来たことのない場所ではあったが、母親の運転で通り過ぎたことは何度かある。しかし、車が多く走る道は通りたくなかったからだ。
駅を超えた辺りで、やっと自分のテリトリーとも言える場所に出た。中学時代には塾に通うためによく通った道だ。中学時代に遊びに行った同級生の家も、この辺りにある。
しかし、今の時間を思い出し、倫太郎は当初思い描いていたルートを急遽変えた。
「明日は、学校とやらに行くぞ。」
頭上から言われた言葉に、思わずハンドルを取られバランスを崩す。なんとか転ばずに済んだが、急にかけられたブレーキにギンは倫太郎の背中に抱きつくような形で突っ込んだ。
「危ないだろう!」と、ギンの声が背中で響く。振り向けば、口調では怒っているようだったが、銀色の瞳は細められ、楽しそうに笑っていた。
クロは、倫太郎の首にしがみついている。耳が忙しなく動いて、倫太郎の顎をくすぐる。
「いや、え?明日、何だって?」
「学校とやらに行くと言ったんだ。面白そうな奴が、いるらしいじゃないか。」
面白いやつ?
誰の事だと思いながら、たった今、急遽ルートを変えた理由を読まれていたことを知る。
倫太郎の高校の、下校時刻が近かったのだ。高校から駅に向かって、生徒たちが一斉に歩き出す時間に、そこに突っ込んでいく勇気を倫太郎は持ち合わせていない。クラスメイトに見つかって、何か言われるのも、ましてや声を掛けられるなんてことは絶対に避けたかった。
それなのに。
「なんと言ったか。昔話について調べているとかいうのが、いるんだろう?」
ああ、あの社会科教師のことだ。———倫太郎はすぐに合点がいった。そういえば、何度かあの教師が言っていたことを思い出していた。日本の伝承について、その元ネタを探し、検証することが好きな、授業脱線しまくりの社会科教師だ。
「明日、そいつに会いに行く。」
ギンの中では、完全に決定事項らしい。倫太郎は何も言い返せないまま、体勢を立て直し、再び自転車を漕ぎだした。自転車が静かに動き出すと、ギンは後部座席に立つのをやめて、そこに座ったようだった。クロは倫太郎の肩の上に座り直して、やれやれとばかりに溜息をついた。
ペダルが急に重くなったような気がして、倫太郎が足に力を入れれば、自転車はぐんと動き出す。倫太郎が漕ぐたびに、前へ前へと進んでいく。
秋の日は釣瓶落とし。
ややオレンジがかってきているようにも見える空を、倫太郎は横目に見る。ギンの髪の毛は、今何色に光っているだろうかなんて、そんな現実逃避をしながら、倫太郎は黙ってペダルを漕ぎ続けた。
明日、学校に行く。
はっきりと「嫌だ。」と言えなかったのは、ギンが怖かったからだろうか。———いや、それだけじゃない何かが、自分の中にあることを、倫太郎はわかっていた。
このままではダメだという気持ちがあることも、否定しない。でもそうじゃない。
昨日、今日と、自転車を漕いだ太ももが、ピリピリとしている。運動不足で不健康であることを、倫太郎の形をした殻が教えてくれている。
「明日、学校に行く。」と母親に告げれば、どんな顔をされるだろうか。制服がどこかから引っ張り出されてくるのだろうか。
「あ。」
何かを思い出したように、倫太郎は帽子の被った頭を触る。再び勢いよく自転車を止めたせいで、ギンがドスッと背中に突っ込んだ。
「今度はどうした。」
背中から聞こえる声は、怒っているようでもあり、笑っているようでもあった。倫太郎が何に気が付いたのか、ギンにはわかっているはずだ。
「言っただろう?人間は、出かけるためには、色々とやることがあるんだ。形にこだわらないと、生きていけないからな。」
クロが、得意げに言った。
「人間って、面白いなぁ!」とギンが笑っている。
それでも良い。とにかく急いで帰って、予約の要らないワンコインのカットにでも行こう。きっと、今の髪型よりは幾分ましにはなるだろう。
倫太郎はギュッと帽子を被り直し、再びペダルをぐんっと漕いだ。
彼女はギンに、「童話の題材に使わせてほしい。」と頼んでいたようだったが、ギンは呆れたように笑っただけだった。
自転車の籠に入れておいた帽子を被り、ポケットから引っ張り出した自転車の鍵を使って自転車のそれを外す。カシャンと気持ちの良い音がして揺れた自転車のキックスタンドを、倫太郎は蹴った。
ギンは後部座席に立ち上がり、倫太郎の頭に手をかけた。肩の上では、クロが足を投げ出して座っている。緊張感の無いそんな体勢に、落ちやしないかと心配になるが、空から下りて来た姿を思えば、そんな心配など無用であることはわかっている。
「他の人間に、ギン達の姿は見えない。」という言葉を信じて、倫太郎は自転車のペダルを思いっきり踏みこんだ。ゆっくりと進みだしたそれが、徐々にスピードを上げると、来たときよりも冷たい風が、倫太郎の肌を刺す。
元々の出発が遅かったとはいえ、思ったよりも多くの時間を、図書館で過ごしていたらしい。
頭上から聞こえる「うひゃぁ。」とか、「ひょえー。」とかいう、相変わらず楽しそうなギンの声に、倫太郎は思わず笑った。
図書館の入っている役所からの帰り道は、倫太郎の記憶の中にちょっとだけ残っている裏道を通ることにした。役所を出発する前に、念のためスマホの地図のアプリを使ってその道を確認した。あまり来たことのない場所ではあったが、母親の運転で通り過ぎたことは何度かある。しかし、車が多く走る道は通りたくなかったからだ。
駅を超えた辺りで、やっと自分のテリトリーとも言える場所に出た。中学時代には塾に通うためによく通った道だ。中学時代に遊びに行った同級生の家も、この辺りにある。
しかし、今の時間を思い出し、倫太郎は当初思い描いていたルートを急遽変えた。
「明日は、学校とやらに行くぞ。」
頭上から言われた言葉に、思わずハンドルを取られバランスを崩す。なんとか転ばずに済んだが、急にかけられたブレーキにギンは倫太郎の背中に抱きつくような形で突っ込んだ。
「危ないだろう!」と、ギンの声が背中で響く。振り向けば、口調では怒っているようだったが、銀色の瞳は細められ、楽しそうに笑っていた。
クロは、倫太郎の首にしがみついている。耳が忙しなく動いて、倫太郎の顎をくすぐる。
「いや、え?明日、何だって?」
「学校とやらに行くと言ったんだ。面白そうな奴が、いるらしいじゃないか。」
面白いやつ?
誰の事だと思いながら、たった今、急遽ルートを変えた理由を読まれていたことを知る。
倫太郎の高校の、下校時刻が近かったのだ。高校から駅に向かって、生徒たちが一斉に歩き出す時間に、そこに突っ込んでいく勇気を倫太郎は持ち合わせていない。クラスメイトに見つかって、何か言われるのも、ましてや声を掛けられるなんてことは絶対に避けたかった。
それなのに。
「なんと言ったか。昔話について調べているとかいうのが、いるんだろう?」
ああ、あの社会科教師のことだ。———倫太郎はすぐに合点がいった。そういえば、何度かあの教師が言っていたことを思い出していた。日本の伝承について、その元ネタを探し、検証することが好きな、授業脱線しまくりの社会科教師だ。
「明日、そいつに会いに行く。」
ギンの中では、完全に決定事項らしい。倫太郎は何も言い返せないまま、体勢を立て直し、再び自転車を漕ぎだした。自転車が静かに動き出すと、ギンは後部座席に立つのをやめて、そこに座ったようだった。クロは倫太郎の肩の上に座り直して、やれやれとばかりに溜息をついた。
ペダルが急に重くなったような気がして、倫太郎が足に力を入れれば、自転車はぐんと動き出す。倫太郎が漕ぐたびに、前へ前へと進んでいく。
秋の日は釣瓶落とし。
ややオレンジがかってきているようにも見える空を、倫太郎は横目に見る。ギンの髪の毛は、今何色に光っているだろうかなんて、そんな現実逃避をしながら、倫太郎は黙ってペダルを漕ぎ続けた。
明日、学校に行く。
はっきりと「嫌だ。」と言えなかったのは、ギンが怖かったからだろうか。———いや、それだけじゃない何かが、自分の中にあることを、倫太郎はわかっていた。
このままではダメだという気持ちがあることも、否定しない。でもそうじゃない。
昨日、今日と、自転車を漕いだ太ももが、ピリピリとしている。運動不足で不健康であることを、倫太郎の形をした殻が教えてくれている。
「明日、学校に行く。」と母親に告げれば、どんな顔をされるだろうか。制服がどこかから引っ張り出されてくるのだろうか。
「あ。」
何かを思い出したように、倫太郎は帽子の被った頭を触る。再び勢いよく自転車を止めたせいで、ギンがドスッと背中に突っ込んだ。
「今度はどうした。」
背中から聞こえる声は、怒っているようでもあり、笑っているようでもあった。倫太郎が何に気が付いたのか、ギンにはわかっているはずだ。
「言っただろう?人間は、出かけるためには、色々とやることがあるんだ。形にこだわらないと、生きていけないからな。」
クロが、得意げに言った。
「人間って、面白いなぁ!」とギンが笑っている。
それでも良い。とにかく急いで帰って、予約の要らないワンコインのカットにでも行こう。きっと、今の髪型よりは幾分ましにはなるだろう。
倫太郎はギュッと帽子を被り直し、再びペダルをぐんっと漕いだ。
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