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第3章
【3.1.4】 その傍にずっといたもの。
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「いやぁ、なかなか楽しかったな!」
机の上に胡坐をかいたギンが、その頭の後ろで手を組んで、得意げに言った。
「やり過ぎだ。」と、クロが怒っている。その尻尾が倫太郎の顔を叩くせいで、倫太郎は呆然としながらも、その状況をなんとか飲み込んだ。
正面の菅原はただただ固まり、神田は隣で座り込んだまま、その目を見開いている。言葉が出るようになるまでは、もう少し時間がかかるだろうか。
少し胸の辺りがむかむかとするのは、物凄い勢いで移り変わっていった景色に酔ったせいに違いない。ひどく乗り心地の悪い車の助手席に乗って、砂利道を猛スピードで走られたような、そんな感じとでも言ったら良いのだろうか。残念ながら、そんな経験は今まで味わったことは無いけれど。
何年分の景色を見て来たのかと、計算することも馬鹿らしいほどの時間を、無理矢理見させられたのだという事だけは、倫太郎にも理解はできた。
そういえばと、菅原にくっついていた精霊を探す。いつの間にか開かれた倫太郎の掌は、いまやそのズボンをギュッとにぎったままだ。その手を外し、その汗を誤魔化すように手を擦り合わせながらふと見回せば、小さい何かが菅原を心配するようにその周りをふわふわと飛んでいた。
倫太郎はホッとして、再び手を伸ばす。菅原は、その見開いた目で、倫太郎の動きを追っているが、まだその口ははくはくと動くばかりで何も発することは無い。
小さな小さな精霊は、菅原の所からゆっくりと飛んでくると、倫太郎の手の上に着地し、嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねているように見えた。
(なんだか、昔飼っていたジュウシマツのようだな。)
そう思った瞬間、ぼんっと音を立てたかのようにして、それは形を持って現れた。小さい小さい、白黒の鳥。
一瞬驚いたような顔をして動きを止めたそれが、倫太郎の方を振り返り、唖然としたように見上げた。倫太郎も、まさかのことに驚き固まり、その鳥と目だけが合った。
「あはは、ずいぶんと復活したじゃないか。さすが倫太郎だ。」
ギンが笑う。耳元で、クロが溜息をついた。
「名前はどうする?」と、楽しそうにギンが言うので、倫太郎はもう色々と諦めて、「…マツ君。」とだけ言った。昔、飼っていたジュウシマツの名前を出せば、その最期を思い出し胸がちくりと痛んだ。
下等動物だけは避けようと思っていたのに、まさか頼りなげにしていた精霊が、形を作れるほどに復活しているとは思わなかったのだ。
「もっと、格好良い名前が無かったものか。」
本来のジュウシマツの大きさには、全くもって届かないが親指程の大きさのマツ君は、納得がいかないとでもいうように項垂れて、呟いた。
申し訳ないことをしてしまったと、倫太郎はその肩を下げ、眉を落とした。考えれば、ギンの記憶に反応して不思議な世界を堪能してきたのだ。今までの経験から言って、クロの言葉を借りれば、マツ君にとってそれはきっと「久々の御馳走」だったに違いない。
クロの尻尾が、倫太郎の顔をゆるりと擦った。「気にするな。」とでも言ってれているのだろうか。「また下等動物か。」と呆れているのだろうか。
マツ君は情けない感じで倫太郎の手を飛び立つと、パタパタと飛んで行き、菅原の肩にとまった。「ひぇっ。」と一瞬おののいた菅原だったが、マツ君のその姿に少し落ち着きを取り戻したらしい。
マツ君は、菅原の首にその体を擦りつけた。今まで、ずっとそうしてきたかのようだ。
「菅原先生と、ずっと一緒にいたの?」
倫太郎の問いに、マツ君は鳥らしくククッと頷いた。その姿はとても懐かしく、そして愛らしい。
そんなことを考えていた倫太郎の顔を、クロの尻尾がベシベシと叩く。ポーカーフェイスな癖して、その尻尾は随分と素直なのだろうか。なんだか焼きもちを焼いてくれているような気がして、倫太郎は少し嬉しくなった。
「僕と?一緒にいた?」
菅原が、肩にとまるそれを必死に見るようにして顎を引いた。その黒縁の眼鏡越しに、マツ君と目が合っただろうか。少し、目元が緩んだ気がした。
「驚かせてすみません。先生に用事があったのは、僕では無くてギンの方なんです。」
倫太郎がそう言ってギンの方に視線を向ければ、菅原に向けられた銀色の瞳は悪戯が成功したように細められ、口元は笑っていた。
「別に、お前に用事があったわけでは無い。ただ、何かいるかもなと思っただけだ。見えないものの存在を、肯定できる人間は今や希少だ。」
「見えないもの?」
意味が分からないとでも言うように、菅原が繰り返す。あの言葉を、菅原は忘れてしまったのだろうか。倫太郎は少しだけ不安な気持ちを誤魔化して、「先生、前に言ってましたよね。」と菅原の表情を伺った。
「まだ説明しきれていなものが山ほどあるが、それらは全て見えない生物がいると仮定すれば解決する。」
倫太郎の心に、なぜか妙にずっと張り付いていた、昔菅原が口にした言葉を、唱えるように言葉にしてみる。クロとマツ君の存在を、肯定するとまでは言えないが、それでもその可能性を否定しない言葉だ。
「つまり、この子たちは、…見えないもの?」
「殻を持たないもの、ということらしいです。」
「お、お、おばけ?」
神田が座りこんだまま、助けを乞うかのように倫太郎を見上げた。倫太郎がその手を差し出すと、びくっと一瞬怯んだ神田だったが、それでもその手を取り、ゆっくりと起き上がった。
「下等動物と一緒にするな。」
倫太郎の肩の上で、クロが呆れたように言った。黒猫に言葉をかけられて、再び固まった神田だったが、それでもその見た目に誤魔化されたのか、クロにその手を伸ばし、バシリと見事にパンチをくらった。
「でも、もうお前は諦めたんだろう?」
ギンの言葉に、菅原が再び驚いたようだった。諦めたと言うのは、見えない存在を信じることをということだろうか。
隈を湛えて、少し赤みもかかっている瞳は、菅原の疲れをそのまま表しているようなものだろう。
今回のドタバタで余計に疲れさせてしまっただろうが、明日は休みだ。ゆっくり休んでくれれば良いと思う。
「生きていくためには、働かなきゃいけないから。いつ教師を辞めようかと、考えてはいたのですが。」
人生相談でもするかのように、菅原はその肩を落としてギンに話し始めた。ギンはニヤニヤと笑って、その心を読んでいるようだった。マツ君は、菅原を心配そうに覗いて、「無理はしなくて良い。」と言った。
日本各地の逸話を検証して、その繋がりを調べてみたい。趣味で、化石を掘りたい。神社仏閣巡りもしたい。本も読みたい。それなのに、時間が無い。教師を辞めて他の仕事に就くことも考えたが、新たに仕事を探す時間も無い。
そんなことを訥々《とつとつ》と菅原が話す。その肩の上を、マツ君は鼓舞するようにピョンピョンと跳ねている。
「本当に、人間は馬鹿だな。自分達を自ら身動き取れなくして、逃げようとして、失敗して、そして諦める。そして、考えることすらも、やめてしまったということか。」
「…考えても、もうどうにもならないと思った。適当に誰かが発信しているのを見て、もうそれで良いかなと。」
菅原が肩を落とす。泣いてしまうのではという雰囲気に、倫太郎までもが沈んでいくようだった。
机の上に胡坐をかいたギンが、その頭の後ろで手を組んで、得意げに言った。
「やり過ぎだ。」と、クロが怒っている。その尻尾が倫太郎の顔を叩くせいで、倫太郎は呆然としながらも、その状況をなんとか飲み込んだ。
正面の菅原はただただ固まり、神田は隣で座り込んだまま、その目を見開いている。言葉が出るようになるまでは、もう少し時間がかかるだろうか。
少し胸の辺りがむかむかとするのは、物凄い勢いで移り変わっていった景色に酔ったせいに違いない。ひどく乗り心地の悪い車の助手席に乗って、砂利道を猛スピードで走られたような、そんな感じとでも言ったら良いのだろうか。残念ながら、そんな経験は今まで味わったことは無いけれど。
何年分の景色を見て来たのかと、計算することも馬鹿らしいほどの時間を、無理矢理見させられたのだという事だけは、倫太郎にも理解はできた。
そういえばと、菅原にくっついていた精霊を探す。いつの間にか開かれた倫太郎の掌は、いまやそのズボンをギュッとにぎったままだ。その手を外し、その汗を誤魔化すように手を擦り合わせながらふと見回せば、小さい何かが菅原を心配するようにその周りをふわふわと飛んでいた。
倫太郎はホッとして、再び手を伸ばす。菅原は、その見開いた目で、倫太郎の動きを追っているが、まだその口ははくはくと動くばかりで何も発することは無い。
小さな小さな精霊は、菅原の所からゆっくりと飛んでくると、倫太郎の手の上に着地し、嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねているように見えた。
(なんだか、昔飼っていたジュウシマツのようだな。)
そう思った瞬間、ぼんっと音を立てたかのようにして、それは形を持って現れた。小さい小さい、白黒の鳥。
一瞬驚いたような顔をして動きを止めたそれが、倫太郎の方を振り返り、唖然としたように見上げた。倫太郎も、まさかのことに驚き固まり、その鳥と目だけが合った。
「あはは、ずいぶんと復活したじゃないか。さすが倫太郎だ。」
ギンが笑う。耳元で、クロが溜息をついた。
「名前はどうする?」と、楽しそうにギンが言うので、倫太郎はもう色々と諦めて、「…マツ君。」とだけ言った。昔、飼っていたジュウシマツの名前を出せば、その最期を思い出し胸がちくりと痛んだ。
下等動物だけは避けようと思っていたのに、まさか頼りなげにしていた精霊が、形を作れるほどに復活しているとは思わなかったのだ。
「もっと、格好良い名前が無かったものか。」
本来のジュウシマツの大きさには、全くもって届かないが親指程の大きさのマツ君は、納得がいかないとでもいうように項垂れて、呟いた。
申し訳ないことをしてしまったと、倫太郎はその肩を下げ、眉を落とした。考えれば、ギンの記憶に反応して不思議な世界を堪能してきたのだ。今までの経験から言って、クロの言葉を借りれば、マツ君にとってそれはきっと「久々の御馳走」だったに違いない。
クロの尻尾が、倫太郎の顔をゆるりと擦った。「気にするな。」とでも言ってれているのだろうか。「また下等動物か。」と呆れているのだろうか。
マツ君は情けない感じで倫太郎の手を飛び立つと、パタパタと飛んで行き、菅原の肩にとまった。「ひぇっ。」と一瞬おののいた菅原だったが、マツ君のその姿に少し落ち着きを取り戻したらしい。
マツ君は、菅原の首にその体を擦りつけた。今まで、ずっとそうしてきたかのようだ。
「菅原先生と、ずっと一緒にいたの?」
倫太郎の問いに、マツ君は鳥らしくククッと頷いた。その姿はとても懐かしく、そして愛らしい。
そんなことを考えていた倫太郎の顔を、クロの尻尾がベシベシと叩く。ポーカーフェイスな癖して、その尻尾は随分と素直なのだろうか。なんだか焼きもちを焼いてくれているような気がして、倫太郎は少し嬉しくなった。
「僕と?一緒にいた?」
菅原が、肩にとまるそれを必死に見るようにして顎を引いた。その黒縁の眼鏡越しに、マツ君と目が合っただろうか。少し、目元が緩んだ気がした。
「驚かせてすみません。先生に用事があったのは、僕では無くてギンの方なんです。」
倫太郎がそう言ってギンの方に視線を向ければ、菅原に向けられた銀色の瞳は悪戯が成功したように細められ、口元は笑っていた。
「別に、お前に用事があったわけでは無い。ただ、何かいるかもなと思っただけだ。見えないものの存在を、肯定できる人間は今や希少だ。」
「見えないもの?」
意味が分からないとでも言うように、菅原が繰り返す。あの言葉を、菅原は忘れてしまったのだろうか。倫太郎は少しだけ不安な気持ちを誤魔化して、「先生、前に言ってましたよね。」と菅原の表情を伺った。
「まだ説明しきれていなものが山ほどあるが、それらは全て見えない生物がいると仮定すれば解決する。」
倫太郎の心に、なぜか妙にずっと張り付いていた、昔菅原が口にした言葉を、唱えるように言葉にしてみる。クロとマツ君の存在を、肯定するとまでは言えないが、それでもその可能性を否定しない言葉だ。
「つまり、この子たちは、…見えないもの?」
「殻を持たないもの、ということらしいです。」
「お、お、おばけ?」
神田が座りこんだまま、助けを乞うかのように倫太郎を見上げた。倫太郎がその手を差し出すと、びくっと一瞬怯んだ神田だったが、それでもその手を取り、ゆっくりと起き上がった。
「下等動物と一緒にするな。」
倫太郎の肩の上で、クロが呆れたように言った。黒猫に言葉をかけられて、再び固まった神田だったが、それでもその見た目に誤魔化されたのか、クロにその手を伸ばし、バシリと見事にパンチをくらった。
「でも、もうお前は諦めたんだろう?」
ギンの言葉に、菅原が再び驚いたようだった。諦めたと言うのは、見えない存在を信じることをということだろうか。
隈を湛えて、少し赤みもかかっている瞳は、菅原の疲れをそのまま表しているようなものだろう。
今回のドタバタで余計に疲れさせてしまっただろうが、明日は休みだ。ゆっくり休んでくれれば良いと思う。
「生きていくためには、働かなきゃいけないから。いつ教師を辞めようかと、考えてはいたのですが。」
人生相談でもするかのように、菅原はその肩を落としてギンに話し始めた。ギンはニヤニヤと笑って、その心を読んでいるようだった。マツ君は、菅原を心配そうに覗いて、「無理はしなくて良い。」と言った。
日本各地の逸話を検証して、その繋がりを調べてみたい。趣味で、化石を掘りたい。神社仏閣巡りもしたい。本も読みたい。それなのに、時間が無い。教師を辞めて他の仕事に就くことも考えたが、新たに仕事を探す時間も無い。
そんなことを訥々《とつとつ》と菅原が話す。その肩の上を、マツ君は鼓舞するようにピョンピョンと跳ねている。
「本当に、人間は馬鹿だな。自分達を自ら身動き取れなくして、逃げようとして、失敗して、そして諦める。そして、考えることすらも、やめてしまったということか。」
「…考えても、もうどうにもならないと思った。適当に誰かが発信しているのを見て、もうそれで良いかなと。」
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