龍は暁に啼く

高嶺 蒼

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第一部 幸せな日々、そして旅立ち

第四章 第八話

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 雷砂は束の間、走り去る二人の背中を見送り、その姿が安全な場所まで離れたのを見て微笑んだ。
 大人から、まだ庇護しなければならない幼い子供として扱われるのは本当に久しぶりだった。
 雷砂を知る人達は、雷砂が並の大人よりよほど頼りになる存在である事を十分に知ってくれている。
 それ故に、雷砂はいつだって大人と同じように扱われたし、自分でもそれが当たり前だと思っていた。
 だから、幼い子供を危険から守ろうとする先程の言葉と眼差しは、何ともくすぐったいものだった。

 優しい人達だった、と思う。
 ほんの少し言葉を交わしただけだが、彼らの善良さはしっかり伝わってきた。
 女性は最後まで雷砂の身を本気で案じていてくれたし、男性も小さな子供を置き去りにする罪悪感でいっぱいの顔をしていたのに、それをねじ伏せて会ったばかりの子供の言葉に従ってくれた。

 「守らなきゃ、な」

 呟き、表情を引き締める。
 そして、まだおさまらない土煙の向こうへ目を凝らした。のっそりと起き上がる大きな影。
 その姿がゆっくりと土煙の中から現れる。

 大きな身体だ。
 だが、まだ少し幼さを感じさせるバランスの身体。まだ成獣の長さに達していない二本の犬歯。
 今朝は金地に黒縞の美しい毛皮をしていたのに、今は見る影も無い真っ黒に塗りつぶされたその身体を、雷砂は悲しそうな眼差しで見つめた。

 普通の人では分からないだろう。
 だが、常日頃から草原で様々な獣と共に生きる雷砂には見分ける事が出来た。
 血の色の瞳で雷砂の様子を伺うその変わり果てた獣は、今朝草原で遭遇した若いヴィエナス・タイガーだった。

 「魔気に毒されたのか?でも急すぎる。今朝あった時は、魔の気配の欠片も感じられなかったのに」

 目を細め、疑念に満ちたその思いを呟きに変える。
 この世界に生きとし生けるものは全て、魔に落ちる可能性がある。
 だが、それがこれほど急激に起こる例を雷砂は知らない。
 少なくとも、今までに読んだ魔に関する内容の本の中には記されていなかったし、今までに会う機会のあった様々な職種の旅人からも漏れ聞いた事は無かった。
 雷砂は痛ましい姿にその身を変えられてしまった哀れな獣を見つめ、きつく拳を握り締めた。





 魔という概念がある。この世界で邪悪とされるものの総称だ。

 魔のモノを生み出す元になるのは魔気と呼ばれる目に見えない物。
 それは、大気中に僅かに存在し、普通に生活をしていればまず問題は起こらない。
 魔気は大気と共に吸い込まれ、生き物の身体に蓄積されるが、日々の生活の中で普通に排泄されてしまう。
 だが、排泄が間に合わない程一度に大量に摂取するか、排泄を上回る量を日々摂取するなどといった事があった場合。
 摂取量が身体の許容量を越えた瞬間に、生き物は魔の物として再構築される。

 これが一般的に『鬼化』と呼ばれる現象だ。
 魔として再構築されたものは『魔鬼』と呼ばれ、ここまで症状が進行してしまると、どんなに力ある聖職者の手にかかろうとも、浄化され元に戻る事は不可能となる。

 この一歩手前、魔に毒され、その精神に影響を受け始めた存在は『魔性』と呼ばれる。
 軽度であったり重度であったり、その段階によって異なる状態を示すが、基本的に肉体の変化は無く、精神に対する影響のみ受ける。
 ただごく稀に、身体能力が飛躍的に上がる例も確認されている。
 どの段階の魔性であれ、この状態であれば、高位聖職者の浄化を受け、元に戻る事も可能だとされていた。

 しかし……。

 表情を曇らせたまま、腰の後ろに括ってある鞘から愛用の短剣を抜き出し、その手に握る。
 目の前に居るあの獣は、もはや後戻りできる状況ではなかった。
 その身を再構築され、本来であれば備わっているはずの獣としての本能や理性ももはや残っては居ないであろう。
 今の彼にあるのは荒れ狂う狂気と狂おしいほどの飢餓感。

 魔の物は、清浄な存在に引かれる性質を持つ。
 彼らにとって、魔気に侵されていないモノはこの上も無いご馳走なのだ。
 だから、魔に落ちたものは身の内の狂気の命じるままに、正なるモノを害し喰らい尽くす。己の命が散る、その瞬間まで。

 (魔鬼を見つけたら容赦するな。即座に滅しろ)

 かつてシンファがそう教えてくれた。初めて魔のモノについて話してくれた時に。
 魔鬼の中にかつての自分は残っていない。
 ごく稀に理性を持ったまま転じる者もあるというが、それは本当に万に一つほどの例なのだ。万に一つを信じて危険を犯すわけにはいかない。

 (可哀想だと思うだろう?だが、哀れと思うなら殺してやれ。化け物としての歪な生から一刻も早く開放してやるんだ)

 「……あぁ、分かってる。分かってるよ、シンファ。それしか方法が無い事くらい」

 でも、そうと分かっていても心はためらう。
 たとえほんのひと時のふれあいしかなかったとしても、雷砂は彼の本来の姿を知っていたから。若く、美しく、力に溢れたかつての姿を。

 雷砂を警戒しているのだろう。
 獣は少しずつ距離を詰めてくる。その瞳にはもう知性と理性の色は無い。
 その事に深い悲しみを覚えながら……少女は静かに剣を構えた。


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