龍は暁に啼く

高嶺 蒼

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第一部 幸せな日々、そして旅立ち

第四章 第九話

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 「ごめんな。助けてやる事が出来なくて」

 風に流されて消えてしまいそうな程の小さな呟き。
 そこに込められた隠し様の無い愛惜の思いを、黒い獣はもはや感じる事すら出来ないだろう。

 まだ若い命。これから伸びやかに健やかに育っていくはずだった命を、今ここで刈り取らねばならぬ事がただ悲しい。
 だが、見過ごすわけにはいかない。あの獣は自然の理の中から外れてしまった。
 次の命を生み育てる事も出来ず、静かに老いその寿命を全うする事ももう出来はしない。
 世界に害悪をばら撒く事しか出来なくなった存在をこのままにはしておけなかった。

 黒い巨体に剣先を真っ直ぐに向ける。
 小さな身体に小さな剣。傍から見れば何とも心もとない感じを受けるが、少女は自分が負ける事などまるで考えていないのだろう。
 まるで気負いのない、だが一片の隙も感じさせない構えで、ただ静かにその時を待っていた。

 先に動いたのは獣の方だ。
 緊張感に耐えられなくなった訳ではない。ただ、己の飢餓感を抑える事が出来なくなったのだろう。
 まず目の前の小さな獲物を喰らってやろうと、一気に地を蹴り走り出した。

 その巨体を迎える少女は微動だにしない。その瞳だけが、近づいてくる獣の姿を追いかける。
 魔に落ちた事で、身体能力はかつての身体と比べようも無いくらいに上がっている。
 地を駆けるその姿はまるで一陣の黒い凶風のようだ。だが、雷砂の目は正確にその位置を捉えていた。

 「すぐに、終わらせてやるからな」

 その声が届くよりも早く、逞しい後肢が大地を蹴った。
 大きな身体が軽々と宙を舞い、鋭い爪が獲物を狙う。
 かすっただけでも大怪我を負うであろうその凶器を前に、雷砂は冷静に対処する。
 まずは僅かに身体を開く事でその攻撃を紙一重でかわすと、すれ違いざま、的確に短剣を黒い巨体へと叩き込んだ。
 だが、狙った首筋の毛皮が思いの他硬く、刃は凶獣の身の内まで届かない。

 何度か同じ事を繰り返してみるが結果は同じ。
 しっかり手入れはしてあるが、それ程高価なものでは無いし、刃も薄い。
 早くも刃こぼれしはじめた愛剣に視線を走らせ、あまり長くもちそうも無い事を確認する。
 時間をかけ外皮を切り裂き、その奥の骨肉に到達するまではどう考えてももってくれそうには無かった。

 (やり方を変えるしかないか)

 再び襲い掛かってきた前肢をかわし、軽く剣を振るって指の間を浅く切った。
 そこの皮膚はそれ程頑丈ではなかったらしく、獣が初めて苦痛の唸り声を上げた。

 (よし。いけそうだ)

 心の中で頷き、雷砂は風を切って襲い掛かる左右の爪をかわしながら同じ事を繰り返した。
 どれくらいそうしていたか。
 気がつけば、よけきれない爪がかすったのか、頬や腕、肩口を何箇所か、鋭く裂かれて血が流れ出していた。
 だが、怪我を負っているのは相手も同じ。
 両方の前肢の指の間から血を流し、獣は苛立った様に雷砂の周りをウロウロしながらこちらの様子を窺っている。
 足先の些細な怪我など、彼にとって大した痛手では無いであろう。
 だが、切られれば痛いし、小さな傷も数が増せばうんざりもしてくる。

 彼は考えていた。次はどうやって攻撃をしようかと。
 大した知性の無い頭でも、繰り返し痛みを与えられる事でようやく理解した。
 前足で攻撃し続けても、あの小さな獲物は倒せない、と。
 ならばどうしたらいいのか。
 回転の遅い頭脳が答えを探し、そしてたどり着く。
 爪が駄目ならもう一つの武器を使えばいい。自分には鋭く大きな牙があるのだから。
 そうと決まれば後は行動するのみ。
 大きな身体を可能な限りの早さで動かして、小さな標的の死角から一気に襲い掛かる。大きく口を開け、鋭いその牙で。

 だが、雷砂はその瞬間を待っていた。
 あえて隙を作り、狙い通りに襲い掛かってきた獣に素早く向き直る。
 その事に気がついた獣は僅かに動揺する。
 しかし、動き出した身体は止まらない。迫る黒い獣に向かって、少女もまた走り出していた。

 互いの身体がぶつかり合うその瞬間、小さな獲物を頭から噛み砕こうとした顎の正面からほんの少しだけ身体を左へ傾ける。
 そしてそのまま右手に握った剣を獣の喉の奥へ突き入れた。
 腕ごと、肩の付け根まで。
 肉を貫いた感触が伝わる。
 やはり身体の中は表面より硬くなかったと冷静に考えながら、致命的な損傷を与えるべく、短剣を可能な限り広範囲に動かした。

 それは一瞬の出来事。
 次の瞬間には驚いた獣が反射的に顎を閉じるより先に剣を引き抜いていた。
 その勢いのまま後ろに飛びのき、様子を見る。
 油断無く剣を構えたまま。

 獣はそのまま数歩前に進んで足を止める、獲物を引き裂く事も出来ずに閉じられた口からおびただしい量の血が溢れていた。
 雷砂はその痛ましい姿から目を逸らすことなく、じっと真っ直ぐに獣の目を見つめていた。

 「……もう、眠れ。楽になっていい」

 その声に促されたように。大きな身体がどうと倒れる。土煙をあげ、地響きを立てて。そしてそのまま動かなかった。
 近づいていくと、血の色の瞳だけが僅かに動いた。だがすぐに、その瞳も光を失い、そして―。

 ゆっくりとその身体は空に溶けていった。黒い、霞となって。

 魔に堕ちたモノは、その身を土に返す事すら出来ない。
 彼らが死ぬとその身は魔気となり、大気に溶ける。
 何の痕跡も残さずに。最初から居なかったモノのように。

 雷砂は霞んで消えていく大きなその姿を見つめた。その身体を構成していた黒い霞の最後の一片が消えるまで。
 それから目を閉じる。その瞼の裏に若く美しかった一頭の獣の姿を思い浮かべながら。

 「忘れないよ。決して」

 幼い声で紡がれる誓い。
 目を開き、見つめる先にはもう何も残っていない。
 右手に握った剣を見る。刃こぼれして、ボロボロになった短剣。
 その姿が、確かに彼が存在し、戦い、そして死んでいったのだという事の、唯一の証だった。


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