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独白
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部屋の隅に座り込み、私はひたすらタイピングをしていた。キーボードを叩く指は、もう私の意志とは無関係に動いているようだった。画面には、意味のわからない文字列が連なっている。それは、私が書いた文章ではない。誰かが、私の指を借りて書いているのだ。この文字の羅列は、遠い昔に書かれた、忘れ去られた物語の断片なのかもしれない。あるいは、まだ誰も知らない、世界の終わりを告げる予言なのか。
キーボードの向こう側から、何かが私を呼んでいる。それは、私の名前ではない。私という存在を構成している、無数の記号の一つ一つを、丁寧に、そして冷酷に呼び出す声だった。
「──、──!」
そのノイズは、かつてネズミが発した音に似ていた。耳を塞いでも、頭の奥に直接響いてくる。脳髄を揺さぶり、思考を掻き乱す。その声が何を言っているのか、私はわかろうとしなかった。いや、わかってはならないのだ。もし理解してしまったら、私は私でなくなってしまう。ただの記号として、この世界から消え去ってしまう。
私は、ずっと一人だった。生まれてこの方、誰とも深く関わったことはない。学校という場所は、私にとって異国の地だった。教室のざわめき、友達同士の笑い声、先生の熱心な講義。それらすべてが、私という存在を拒絶しているように感じられた。私は、まるでガラスの壁で隔てられた世界を、ただ眺めているだけの傍観者だった。
家に帰れば、家族という名の見知らぬ人々と食卓を囲んだ。彼らの話す言葉は、私にはノイズにしか聞こえなかった。私が口を開いても、誰も私の声を聞いてはいないようだった。私は、まるでそこに存在しないかのように、透明な存在だった。
ある日、私はネットの世界に逃げ込んだ。そこでは、誰も私の顔を知らない。過去も、現在も、未来も、すべてを自由に創造することができた。私はプログラマーになり、都内に住み、趣味は惣菜パンを食べることと自販機のコンプリート。友人Mという、架空の友人を作り出した。彼は、私の心の奥底に沈んでいた、もう一人の私だった。
彼は、私の絶望を代弁してくれた。私の孤独を、私の苦しみを、私の虚無感を、すべて「怪文書」という形で吐き出してくれた。私は、彼の言葉を読んでいるふりをして、自分の心の叫びを聞いていたのだ。
私は、友人Mを病ませた。私が彼を壊したのだ。いや、彼を壊すことで、私は自分自身を壊した。綱渡りのような、いつ壊れるか分からないギリギリの生活。そのバランスを、私は自ら崩したのだ。
部屋の隅で、私はふと顔を上げた。窓の外は、もう夜になっていた。闇の中に、ぼんやりと街の明かりが灯っている。その光の一つ一つが、私とは無縁の世界で生きている人々の生活を物語っているようだった。彼らは、絶望を忘れ、消化し、明日に向かって生きている。それが私には、あまりにも遠い、別の次元の物語のように感じられた。
私は、もう立ち上がる気力もなかった。このまま、この部屋の隅で、ただの肉の塊になってしまえばいい。感情という名の錆びた歯車が、がたがた音を立てていた。その音も、次第に小さくなっていく。
ふと、私の視界の端に、何かが動いた。床の隅に、ネズミが這いずり回っている。ネズミは、私をじっと見つめている。その小さな瞳には、何も映っていない。ただの、空虚な闇。それは、私自身の目と同じだった。
ネズミは、ノイズを発した。
「──、──!」
鼓膜を叩く、不協和音。私は、それが何かを語ろうとしているのだと理解した。だが、それは、私の言語ではない。私の神経を直接叩きつける、原始的な音の羅列。
私は、ネズミに問いかけた。
「君は、誰なんだ?」
ネズミは、ただノイズを発し続ける。そのノイズは、私の中に渦巻く、無数の記号を呼び覚ます。私という存在を構成している、無意味な、無価値な、そして無慈悲な記号たち。
「私は、どこにいるんだ?」
ネズミは、ただノイズを発し続ける。そのノイズは、私を、この部屋の隅から、どこか遠い場所へと連れ去ろうとしているようだった。
私は、このままではいけないと思った。このままでは、私はただの肉の塊になってしまう。しかし、どうすればいいのか、わからない。私は、生きることを望んでいるのか?死ぬことを望んでいるのか?それすらも、もうわからなかった。
私は、キーボードに手を伸ばした。再び、指が動き出す。今度は、意味のある言葉を紡ごうとした。しかし、指は、勝手に、またしても意味のない文字列を打ち込んでいく。
「綱渡りのような生き方をしている」
画面に、そう表示された。それは、かつて友人Mが言った言葉だ。いや、私が、彼に言わせた言葉だ。
私は、ただ絶望の中で、この文章を読んでいる。そして、この文章の続きを書かなければならない。そう、私は、この物語を完結させなければならないのだ。
誰に求められてもいない物語を、一人で書き続けている。
私は、この虚無の海から抜け出せない。いや、抜け出す気力もない。この海の中に、私はもう完全に溶け込んでしまっている。
ドアを叩く音がする。
ドンドンドン。ドンドンドン。
それは、私の中から響く音。私が、ドアを叩いている。早く開かないか。開かないとまずいのだ。なぜ開かないのか。
ドアノブがない。
押しても引いても開かない。
私は、ずっとこの部屋の隅で、ドアを叩き続けるのだろう。そして、誰も開けてくれることはない。私は、この部屋という名の牢獄に、永遠に閉じ込められる。
私は、もう人間ではない。ただの記号だ。ただの、無意味な文字列の羅列だ。
ふと、私の意識が、遠のく。
部屋の隅に座り込んでいた私は、ゆっくりと床に倒れ込んだ。目の前のパソコンは消え、キーボードも、モニタもない。そこには、ただの白い壁と、天井の蛍光灯があった。
私は、ここを「部屋」と呼んでいたが、それは私の想像だった。実際には、ここは独房だ。
「──死んだ方が幸福だ」と、誰かが言った。
声の主は、私ではない。壁の向こうから聞こえてくる、別の誰かの声。それは、私と同じように、この独房に閉じ込められた、もう一人の私の声だった。
私は、返事をしなかった。反論する気力もなかった。ただ、天井の蛍光灯をじっと見つめている。蛍光灯は、今日も、何の感情もなく、私を照らしている。
壁の向こうからは、今日もまた、誰かの話し声が聞こえる。楽しそうな、楽しそうな、楽しそうな、誰かの声。その声は、私を罵る言葉に聞こえた。
私は、もう何も書かない。何も語らない。私は、ただ、この独房で、何も考えずに、毎日の飯を食うだけの、ただの肉の塊になってしまった。
ドアを叩く音は、もう聞こえない。
いや、違う。その音は、私の中から響いている。
ドンドンドン。
それは、私が、自分自身という名のドアを叩き続ける音。
しかし、そのドアには、ノブがない。
そして、外から開けてくれる人は、もう、どこにもいない。
私は、天井の蛍光灯を見つめる。
私は、やっと正しい選択をしたのだ。この独房という名の、永遠の静寂の中で、私は、もう二度と、壊れることはない。
私は、記号になった。そして、その記号は、誰も読めない、意味のない文字列。
キーボードの向こう側から、何かが私を呼んでいる。それは、私の名前ではない。私という存在を構成している、無数の記号の一つ一つを、丁寧に、そして冷酷に呼び出す声だった。
「──、──!」
そのノイズは、かつてネズミが発した音に似ていた。耳を塞いでも、頭の奥に直接響いてくる。脳髄を揺さぶり、思考を掻き乱す。その声が何を言っているのか、私はわかろうとしなかった。いや、わかってはならないのだ。もし理解してしまったら、私は私でなくなってしまう。ただの記号として、この世界から消え去ってしまう。
私は、ずっと一人だった。生まれてこの方、誰とも深く関わったことはない。学校という場所は、私にとって異国の地だった。教室のざわめき、友達同士の笑い声、先生の熱心な講義。それらすべてが、私という存在を拒絶しているように感じられた。私は、まるでガラスの壁で隔てられた世界を、ただ眺めているだけの傍観者だった。
家に帰れば、家族という名の見知らぬ人々と食卓を囲んだ。彼らの話す言葉は、私にはノイズにしか聞こえなかった。私が口を開いても、誰も私の声を聞いてはいないようだった。私は、まるでそこに存在しないかのように、透明な存在だった。
ある日、私はネットの世界に逃げ込んだ。そこでは、誰も私の顔を知らない。過去も、現在も、未来も、すべてを自由に創造することができた。私はプログラマーになり、都内に住み、趣味は惣菜パンを食べることと自販機のコンプリート。友人Mという、架空の友人を作り出した。彼は、私の心の奥底に沈んでいた、もう一人の私だった。
彼は、私の絶望を代弁してくれた。私の孤独を、私の苦しみを、私の虚無感を、すべて「怪文書」という形で吐き出してくれた。私は、彼の言葉を読んでいるふりをして、自分の心の叫びを聞いていたのだ。
私は、友人Mを病ませた。私が彼を壊したのだ。いや、彼を壊すことで、私は自分自身を壊した。綱渡りのような、いつ壊れるか分からないギリギリの生活。そのバランスを、私は自ら崩したのだ。
部屋の隅で、私はふと顔を上げた。窓の外は、もう夜になっていた。闇の中に、ぼんやりと街の明かりが灯っている。その光の一つ一つが、私とは無縁の世界で生きている人々の生活を物語っているようだった。彼らは、絶望を忘れ、消化し、明日に向かって生きている。それが私には、あまりにも遠い、別の次元の物語のように感じられた。
私は、もう立ち上がる気力もなかった。このまま、この部屋の隅で、ただの肉の塊になってしまえばいい。感情という名の錆びた歯車が、がたがた音を立てていた。その音も、次第に小さくなっていく。
ふと、私の視界の端に、何かが動いた。床の隅に、ネズミが這いずり回っている。ネズミは、私をじっと見つめている。その小さな瞳には、何も映っていない。ただの、空虚な闇。それは、私自身の目と同じだった。
ネズミは、ノイズを発した。
「──、──!」
鼓膜を叩く、不協和音。私は、それが何かを語ろうとしているのだと理解した。だが、それは、私の言語ではない。私の神経を直接叩きつける、原始的な音の羅列。
私は、ネズミに問いかけた。
「君は、誰なんだ?」
ネズミは、ただノイズを発し続ける。そのノイズは、私の中に渦巻く、無数の記号を呼び覚ます。私という存在を構成している、無意味な、無価値な、そして無慈悲な記号たち。
「私は、どこにいるんだ?」
ネズミは、ただノイズを発し続ける。そのノイズは、私を、この部屋の隅から、どこか遠い場所へと連れ去ろうとしているようだった。
私は、このままではいけないと思った。このままでは、私はただの肉の塊になってしまう。しかし、どうすればいいのか、わからない。私は、生きることを望んでいるのか?死ぬことを望んでいるのか?それすらも、もうわからなかった。
私は、キーボードに手を伸ばした。再び、指が動き出す。今度は、意味のある言葉を紡ごうとした。しかし、指は、勝手に、またしても意味のない文字列を打ち込んでいく。
「綱渡りのような生き方をしている」
画面に、そう表示された。それは、かつて友人Mが言った言葉だ。いや、私が、彼に言わせた言葉だ。
私は、ただ絶望の中で、この文章を読んでいる。そして、この文章の続きを書かなければならない。そう、私は、この物語を完結させなければならないのだ。
誰に求められてもいない物語を、一人で書き続けている。
私は、この虚無の海から抜け出せない。いや、抜け出す気力もない。この海の中に、私はもう完全に溶け込んでしまっている。
ドアを叩く音がする。
ドンドンドン。ドンドンドン。
それは、私の中から響く音。私が、ドアを叩いている。早く開かないか。開かないとまずいのだ。なぜ開かないのか。
ドアノブがない。
押しても引いても開かない。
私は、ずっとこの部屋の隅で、ドアを叩き続けるのだろう。そして、誰も開けてくれることはない。私は、この部屋という名の牢獄に、永遠に閉じ込められる。
私は、もう人間ではない。ただの記号だ。ただの、無意味な文字列の羅列だ。
ふと、私の意識が、遠のく。
部屋の隅に座り込んでいた私は、ゆっくりと床に倒れ込んだ。目の前のパソコンは消え、キーボードも、モニタもない。そこには、ただの白い壁と、天井の蛍光灯があった。
私は、ここを「部屋」と呼んでいたが、それは私の想像だった。実際には、ここは独房だ。
「──死んだ方が幸福だ」と、誰かが言った。
声の主は、私ではない。壁の向こうから聞こえてくる、別の誰かの声。それは、私と同じように、この独房に閉じ込められた、もう一人の私の声だった。
私は、返事をしなかった。反論する気力もなかった。ただ、天井の蛍光灯をじっと見つめている。蛍光灯は、今日も、何の感情もなく、私を照らしている。
壁の向こうからは、今日もまた、誰かの話し声が聞こえる。楽しそうな、楽しそうな、楽しそうな、誰かの声。その声は、私を罵る言葉に聞こえた。
私は、もう何も書かない。何も語らない。私は、ただ、この独房で、何も考えずに、毎日の飯を食うだけの、ただの肉の塊になってしまった。
ドアを叩く音は、もう聞こえない。
いや、違う。その音は、私の中から響いている。
ドンドンドン。
それは、私が、自分自身という名のドアを叩き続ける音。
しかし、そのドアには、ノブがない。
そして、外から開けてくれる人は、もう、どこにもいない。
私は、天井の蛍光灯を見つめる。
私は、やっと正しい選択をしたのだ。この独房という名の、永遠の静寂の中で、私は、もう二度と、壊れることはない。
私は、記号になった。そして、その記号は、誰も読めない、意味のない文字列。
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