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14歳の助走。
アルカディア。
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現場から戻ると、エメイラが旅装を整えて玄関に立っていた。長い髪をまとめ、動きやすい外套に着替え、腰の小袋がいくつも増えている。こちらを見ると、いたずらっぽく目を細めた。
「食糧の線は絶やさない手筈をつけておいたわ。獣人隊商の便と、ルステインの倉からの便を交互に回す。塩、乾物、根菜、干し肉、香草……三月分は確保済み」
「助かる。本当に、ありがとう」
礼を言うと、エメイラは肩を軽く竦めた。
「あなたが走るなら、私も走るだけ」
ストークに手短に指示を渡す。指令所の回し、耳役の札の扱い、札の返答の掲示。彼はいつも通りの落ち着いた声で復唱し、「大丈夫です」とだけ言って僕らを送り出してくれた。僕、エメイラ、ミザーリに、陽炎隊から数人が護衛としてつく。街道を南へ、丘を越え、運河筋へ降りる。水面の匂いが近づいた頃、エメイラが横で息を弾ませる。
「見せたいものがあるの。少し驚くかも」
桟橋に入ると、そこに新しい運河船が繋がれていた。白い側板に僕の紋章。甲板の手摺は低めに抑えられ、馬車を積めるように後方に滑り台のような板が据え付けられている。船腹の内側には箱がいくつも固定できる金具。浅い水でも動けるよう、軽く仕立ててある。
「私からの贈り物」
「……どうやって」
「ポケットマネーよ。普段あまり使わないもの。書と薬草くらいだから」
「代金は」
「いらないわ。代わりに、今度、大きな願いをひとつ頼むから」
笑って言うその顔が、少しだけ意地悪で、優しかった。胸の奥が温かくなる。
「必ず返す。言葉でも、形でも、行いでも」
馬車を載せ、荷を固め、舳先が水を切った。運河の静けさは心を整えてくれる。交代で舵を握り、日暮れまでにルステインへ。そこで必要な確認だけ済ませ、夜明けとともに王都に向けて再び運河を下る。到着したのは僕の誕生日の一日前。刻限を確かめ、荷をタウンハウスへ入れると、その足で執務室に入った。
ローランが待っていた。机上には書類が山のように並び、しかし一枚も乱れていない。
「お帰りなさい。報告を」
僕は現場の進行、各工区の人数、採石場と港の状況、耳役の増設、文官と兵士の試験結果を順に述べた。ローランは要点だけを拾って、二行の要旨に落としていく。横で書記頭が写しを取り、カレルへの連絡札が用意される。
「礼の稽古も、今夜のうちに」
「ああ、頼む」
簡潔な言い回し、名乗りの順、受け答えの順番。余計な飾りを削って、芯だけを立てる。背筋を一本に通すと、胸のざわめきが静まっていく。ミザーリは腕を組んだまま、僕の立ち居振る舞いを横目で見て、最後にうんと頷いた。
「大丈夫。主はもう何度も修羅場を越えてる。明日はその続きだよ」
ひと区切りついたところで、僕は口を開いた。
「新しい街の名を決めた。『アルカディア』にする」
ローランの手が止まる。
「意味は」
「理想郷。違う世界の言葉で……人が互いを恐れず働き、暮らし、学び、笑える場所の名だ」
エメイラが椅子の背にもたれ、静かに微笑む。
「良い響き。口にすると、胸の中が少し広くなるわ」
ミザーリは指を折りながら、ぽつりと言う。
「屋台の通りも、炊き場も、見張りの小屋も、その名に恥じないようにしなきゃね。あたい達の仕事だ」
ローランは新しい帳の見出しに、ゆっくりと筆を置いた。
「アルカディア。以後、書類はこの名で統一します」
夕餉は簡素に、しかし温かく。ギピアが王都に持ってきてくれた調味の瓶が役立つ。腹を満たした後、僕は謁見服の点検に移る。紋章の刺繍は糸のほつれなし。留め具の金具は締まり良し。明日は謁見。陞爵と拝領の発表。大勢の前で短く語り、受け取るべきものを受け取る日だ。
「眠れるかい?」とエメイラ。
「……眠る努力はする」
「なら、少しだけ夜風に当たりましょう」
バルコニーに出る。王都の屋根が幾重にも重なり、遠くに王城の灯が浮かぶ。風は涼しく、手すりに置いた指先から、熱が抜けていく。
「アルカディアは、もう動き出しているわ。図面の線は、人の手で濃くなる。あなたがいなくても回るように、皆で支える」
「わかってる。わかってるけど……胸のどこかが、どうしても騒ぐ」
ミザーリが背後から来て、言葉を投げる。
「騒ぐのは生きてる証拠。なら、明日も生かして使いな」
笑って、短く拳を合わせた。僕は深く息を吸い、吐き、言葉をひとつだけ選ぶ。
「任せろ」
部屋に戻り、最後の紙に目を通す。ローランが差し出してきた確認の札は三枚。耳箱の回しの臨時手順、王都側の受け入れ、翌朝の集合刻。どれも必要で、どれも過不足がない。机の上を空にし、灯を落とす前に、もう一度だけ紋章を見た。紺の地に刻まれた意匠は、謁見服の白に映えていた。
床に入ると、思いが行き来する。港の潮騒、採石場の槌音、新街の炊き場の湯気、耳役の机に並んだ札。そこに集まった人の声。あの人、この人の笑い。明日、受けるものの重さは、その全部に応えるための重さだ。重くていい。背筋に通す。
目を閉じる。遠くで時を告げる鐘が鳴り、静けさが戻ってくる。明日、僕は伯爵として名を呼ばれる。街の名は決まった。アルカディア。理想郷は、遠いものの名ではない。手を伸ばし、耳を澄まし、短く約し、必ず返す。その積み重ねの先に、きっとある。
そう言い聞かせるうちに、意識はふっと底のほうへ沈んでいった。翌朝の光が、まだ見ぬ天井を白くするのを待ちながら。
「食糧の線は絶やさない手筈をつけておいたわ。獣人隊商の便と、ルステインの倉からの便を交互に回す。塩、乾物、根菜、干し肉、香草……三月分は確保済み」
「助かる。本当に、ありがとう」
礼を言うと、エメイラは肩を軽く竦めた。
「あなたが走るなら、私も走るだけ」
ストークに手短に指示を渡す。指令所の回し、耳役の札の扱い、札の返答の掲示。彼はいつも通りの落ち着いた声で復唱し、「大丈夫です」とだけ言って僕らを送り出してくれた。僕、エメイラ、ミザーリに、陽炎隊から数人が護衛としてつく。街道を南へ、丘を越え、運河筋へ降りる。水面の匂いが近づいた頃、エメイラが横で息を弾ませる。
「見せたいものがあるの。少し驚くかも」
桟橋に入ると、そこに新しい運河船が繋がれていた。白い側板に僕の紋章。甲板の手摺は低めに抑えられ、馬車を積めるように後方に滑り台のような板が据え付けられている。船腹の内側には箱がいくつも固定できる金具。浅い水でも動けるよう、軽く仕立ててある。
「私からの贈り物」
「……どうやって」
「ポケットマネーよ。普段あまり使わないもの。書と薬草くらいだから」
「代金は」
「いらないわ。代わりに、今度、大きな願いをひとつ頼むから」
笑って言うその顔が、少しだけ意地悪で、優しかった。胸の奥が温かくなる。
「必ず返す。言葉でも、形でも、行いでも」
馬車を載せ、荷を固め、舳先が水を切った。運河の静けさは心を整えてくれる。交代で舵を握り、日暮れまでにルステインへ。そこで必要な確認だけ済ませ、夜明けとともに王都に向けて再び運河を下る。到着したのは僕の誕生日の一日前。刻限を確かめ、荷をタウンハウスへ入れると、その足で執務室に入った。
ローランが待っていた。机上には書類が山のように並び、しかし一枚も乱れていない。
「お帰りなさい。報告を」
僕は現場の進行、各工区の人数、採石場と港の状況、耳役の増設、文官と兵士の試験結果を順に述べた。ローランは要点だけを拾って、二行の要旨に落としていく。横で書記頭が写しを取り、カレルへの連絡札が用意される。
「礼の稽古も、今夜のうちに」
「ああ、頼む」
簡潔な言い回し、名乗りの順、受け答えの順番。余計な飾りを削って、芯だけを立てる。背筋を一本に通すと、胸のざわめきが静まっていく。ミザーリは腕を組んだまま、僕の立ち居振る舞いを横目で見て、最後にうんと頷いた。
「大丈夫。主はもう何度も修羅場を越えてる。明日はその続きだよ」
ひと区切りついたところで、僕は口を開いた。
「新しい街の名を決めた。『アルカディア』にする」
ローランの手が止まる。
「意味は」
「理想郷。違う世界の言葉で……人が互いを恐れず働き、暮らし、学び、笑える場所の名だ」
エメイラが椅子の背にもたれ、静かに微笑む。
「良い響き。口にすると、胸の中が少し広くなるわ」
ミザーリは指を折りながら、ぽつりと言う。
「屋台の通りも、炊き場も、見張りの小屋も、その名に恥じないようにしなきゃね。あたい達の仕事だ」
ローランは新しい帳の見出しに、ゆっくりと筆を置いた。
「アルカディア。以後、書類はこの名で統一します」
夕餉は簡素に、しかし温かく。ギピアが王都に持ってきてくれた調味の瓶が役立つ。腹を満たした後、僕は謁見服の点検に移る。紋章の刺繍は糸のほつれなし。留め具の金具は締まり良し。明日は謁見。陞爵と拝領の発表。大勢の前で短く語り、受け取るべきものを受け取る日だ。
「眠れるかい?」とエメイラ。
「……眠る努力はする」
「なら、少しだけ夜風に当たりましょう」
バルコニーに出る。王都の屋根が幾重にも重なり、遠くに王城の灯が浮かぶ。風は涼しく、手すりに置いた指先から、熱が抜けていく。
「アルカディアは、もう動き出しているわ。図面の線は、人の手で濃くなる。あなたがいなくても回るように、皆で支える」
「わかってる。わかってるけど……胸のどこかが、どうしても騒ぐ」
ミザーリが背後から来て、言葉を投げる。
「騒ぐのは生きてる証拠。なら、明日も生かして使いな」
笑って、短く拳を合わせた。僕は深く息を吸い、吐き、言葉をひとつだけ選ぶ。
「任せろ」
部屋に戻り、最後の紙に目を通す。ローランが差し出してきた確認の札は三枚。耳箱の回しの臨時手順、王都側の受け入れ、翌朝の集合刻。どれも必要で、どれも過不足がない。机の上を空にし、灯を落とす前に、もう一度だけ紋章を見た。紺の地に刻まれた意匠は、謁見服の白に映えていた。
床に入ると、思いが行き来する。港の潮騒、採石場の槌音、新街の炊き場の湯気、耳役の机に並んだ札。そこに集まった人の声。あの人、この人の笑い。明日、受けるものの重さは、その全部に応えるための重さだ。重くていい。背筋に通す。
目を閉じる。遠くで時を告げる鐘が鳴り、静けさが戻ってくる。明日、僕は伯爵として名を呼ばれる。街の名は決まった。アルカディア。理想郷は、遠いものの名ではない。手を伸ばし、耳を澄まし、短く約し、必ず返す。その積み重ねの先に、きっとある。
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