融けないΩに触れたくて

Moma

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翌朝。
グループチャットに『今日から数日、体調不良のため休みます』と柊のメッセージが流れた。
その文字列を見た瞬間、楓は深く溜息をつく。

(…わかってたことだけど)

画面を伏せ、額を押さえる。
柊のヒートが近いのは知っていた。知っていたのに、いざ”いない”と突きつけられると、胸に穴が開いたような虚しさに襲われる。

研究室に入れば、雰囲気はいつもと変わらない。誰もが淡々と実験の準備を始め、会話も普段通りに流れている。
けれど楓の視線は、つい一角の空席へと引き寄せられた。そこに柊の姿がないだけで、研究室全体が妙に冷たく感じられる。

(…柊、ヒート大丈夫かな)

本当なら、柊の横顔を見ながら過ごせた時間だ。そう思うほど、胸の奥で焦燥が膨らんでいく。
そんな楓を見かねて、リナが明るい声をかけた。

「楓、そんな顔しなくても大丈夫だって。柊、前にもヒートの時リモートで参加してたじゃない?今回も落ち着いたら、またすぐ顔出すよ」

「…そう、だな」

言われてみれば確かにそうだった。過去のヒートの時、柊は抑制剤を飲んで安静にしながら、時にはオンラインで研究に加わっていた。それを思い出せば”今回も大丈夫”と考えるのが自然だ。
けれど、どうしても胸の奥のもやは晴れない。

(ヒートって…本来なら、αが側に必要なんじゃないのか?それなのに、俺じゃなくてもいいのか…?俺、必要ないの?)

ネガティブな思考が頭を巡り、無意識に眉間に皺を寄せていた。

「うわー、楓がネガティブキャンペーンしてる」

「珍しい! 超レア!」

研究員たちが面白がるように囁き合い、少しだけ場が和む。

「でもさ、そんなに気になるなら電話くらいしてみたら?」

「そうそう。リモートの時は普通に会話できてたんだから、大丈夫だって」

皆に背中を押され、楓はしばし迷った末、昼休みにスマホを手に取った。

(少しくらいなら…声を聞いたら安心できるしな…)

軽い気持ちで、通話ボタンを押す。ワンコール、ツーコール。
すぐに繋がった。

「……ッ、か……え……で……!」

耳に飛び込んできたのは、想像もしなかった悲痛な声だった。

「たすけ……て……よく…せいざい、全然…効かない……っ、苦しくて……」

嗚咽混じりに名を呼ぶ柊の声。聞いているだけで胸が締めつけられる。

「柊……!すぐ行く、待ってろ!」

考えるより先に言葉が口をついていた。
椅子を蹴って立ち上がり、研究室の皆に

「悪い、柊の所いってくる」

とだけ告げ、周囲が驚く間もなく楓は鞄を掴んでドアへ駆け出していた。
ただ一つ、柊の元へ行かなくては――それだけを胸に。

タクシーに飛び乗り、スマホに入力していた柊の住所を告げる。
胸の内に広がったのは――わずかな安堵だった。

(住所を聞いておいて、本当に良かった)

もし知らなかったら、今ごろ自分はただ立ち尽くしていただろう。だが安心は一瞬で、すぐに心配と焦燥がのしかかってくる。
窓の外の景色が流れる。けれど楓の耳には、自分の心臓の音ばかりが響いていた。

(落ち着け、俺…。今一番冷静じゃなきゃいけないのは俺だ)

柊の声を思い出すたび、全身が駆り立てられそうになる。助けなければ、という使命感と同時に、身体の奥底で別の衝動が蠢く。
強く拳を握りしめ、シートに背を押しつける。何度も深呼吸し、α用の抑制剤を流し込む。

やがてタクシーは柊の自宅前に停まった。料金を払い、ほとんど駆けるようにしてインターホンを押す。

「柊!…柊、俺だ、楓だ!」

返事はない。しつこく呼びかけていると、カチャリと鍵が外れる音がした。
次の瞬間――ドサリと、重いものが倒れるような音。

「……っ!」

楓は慌ててドアノブを回し、中へ飛び込んだ。
一瞬にして全身を包んだのは、甘く濃密な香りだった。
あの日研究室で感じた一時的なフェロモンの波など比にならない。強烈で、とろけるように甘い匂いが肺を満たし、めまいがするほどだ。

玄関先、そこに柊が力尽きるように倒れていた。

「柊!」

腕を抱き上げると、熱に浮かされた身体がしがみついてきた。弱々しいのに必死な力で、楓のシャツを掴んで離さない。

「楓……っ、抑制剤……きかない……助けて……っ、つらい…つらいの」

泣きじゃくる声で、何度も名を呼ばれる。
胸が張り裂けそうになる一方で、理性を焼き尽くすほどの欲望が全身を駆け巡る。

(駄目だ、こんなの…耐えられるのか…?)

血が逆流するような衝動に、歯を食いしばった。今にも理性が切れそうで、自分自身が恐ろしい。

それでも、柊をこのまま放っておくわけにはいかない。
楓は奥のベッドへと抱き上げ、慎重に運んだ。
けれど運ぶ間も、柊は縋りつき、震える声で”楓、楓”と泣き続ける。

理性を失いかけながらも、楓はただ必死に自分を抑え込む。

(今は――助けることだけ、考えろ……!)

そう言い聞かせながら、柊をベッドに横たえた。
だが、部屋いっぱいに漂う甘いフェロモンの濃度は、楓の喉を焼き、理性を少しずつ浸食していく――。


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