融けないΩに触れたくて

Moma

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楓が差し入れの袋を片づけ、端末に目を戻す。

「よし…再学習、かけ直し入った。これで3時まで放置できるはず」

「うん。思ったより早く終わったね」

「あいつらが来るまでに、土台だけは作っておかないとね。さて、次の処理まではしばらく空くし、ちょっとだけ休憩しない?椅子、固いしさ」

「…じゃあ、少しだけ」

研究室の一角、窓際に置かれた細長いソファ。
簡素な合皮張りで座り心地は良くないが、ふたり並んで腰かけるにはちょうどいい。

カフェオレを持ったまま、柊が静かに腰を下ろす。
その隣に、楓も缶を片手に腰かけると、夜の静けさがふたりを包んだ。
数分後。

「…ん、柊?」

名前を呼ばれて、柊ははっとした顔で目を開ける。
気づけば、体がわずかに右に傾き、楓の肩に触れかけていた。
慌てて身を起こすと、頬がほんのり熱を帯びる。

「…ごめん。少し、寝てたみたい」

「いーよ。疲れてるの、見りゃわかるし」

楓はいつもと変わらないトーンで言い、空になった缶をくるくると指で転がす。

「…ほんとに、俺の好きなもんばっか、だった」

「ん?」

「さっきの差し入れ。何で知ってたのって聞いたけど…」

「さあ?」

楓は答えず、ただ小さく笑った。

「お前、寝るとき、睫毛すげぇ長いのな」

「…は?」

「なんでもない。うん、なんでもない」

口調はふざけているのに、その視線だけは、なぜかまっすぐだった。

柊は返す言葉を失い、静かにカフェオレを一口飲んだ。
冷めきった甘さが、どうしようもなく優しく感じられた。

そのままふぅと息を吐き、目を伏せる。
けれど、次の瞬間だった。

「……っ、は……」

喉の奥で微かな息が漏れた。
自分でも気づかぬうちに、胸の奥に違和感が湧き上がる。
――熱い。
火照るような感覚が背骨をなぞるようにして、腹の底へと溜まっていく。

「あ…」

カフェオレの缶が手から滑り落ちそうになり、慌てて両手で支える。
それすら少し遅く感じるほど、全身がじんわりと痺れていた。

「柊……?」

楓の声が、どこか遠くに聞こえた。

「…わかんない…身体が、変で…熱く…て……」

言葉の端が震え、声が甘く滲む。
そして、ふわりと、空気が変わった。
研究室の密閉された空間に、甘く、重い香りが広がる。

「…嘘、そんな…ヒート、じゃ、ないはず……」

周期にはまだ余裕があるはずだった。
柊の戸惑いと混乱が、その表情から溢れ出る。

胸の奥がじくじくと疼く。
理性の奥底に押し込めていた衝動が、ふわりと浮き上がってくる。
αの気配を感じるたびに、奥が、締めつけるように熱を持つ。

視界の端で、楓が動いた気配がした。
それだけで、呼吸が浅くなる。
その匂いを、声を、仕草を、すべてを、自分の中に取り込みたくなる。

――欲しい。

気づけば、楓の袖を掴んでいた。

「くるしい…っ、楓…助けて、助けて…やだ、やだ…っ」

柊は必死に訴える。
その目は潤み、焦点は定まらず、言葉の意味よりも欲求が先ににじみ出る。

「柊……落ち着いて。お前、抑制剤は?」

αとΩが同じ空間で作業をする前提での研究室。
お互いが抑制剤を持ち歩いているのは、暗黙の了解だった。

「やだ、やだっ、薬じゃなくて…っ」

喉の奥から絞り出した声は、ほとんど泣き声だった。
それでも、伝えずにはいられない。

「…薬じゃ、…やだ…楓が欲しい…かえでがいい…っ」

ぼろぼろと落ちていくような声。
羞恥よりも、理性よりも先に、欲求が舌にのる。
ただ本能が、目の前のα”楓”を求めて泣いていた。

「…おねがい…楓で、俺の…奥まで、満たして…っ」

熱に浮かされた目で見上げる柊の視線に、楓は息を詰めた。
それは、本能が理性を凌駕りょうがしたΩの目だった。

(…やめろ…今のこれは、本来の柊じゃない。Ωの本能がαを求めているだけ――)

そう分かっていながらも、楓の奥底で何かが引き絞られていく。
求められている。俺を、唯一のαとして。

けれどこれは、渇いた獣のような求愛だ。
柊がどれだけ泣き叫ぼうと、その手を取ってしまえば、戻れなくなる――

理性が悲鳴を上げている。
それでも、αの本能が、香りに反応して昂ぶっていく。

抱きたい。
ずっとずっと、柊の事が好きだった。
触れて、確かめたくて――でも、今じゃない。

「柊、場所を教えて。抑制剤、どこ?」

「左の棚…いちばん、上…でも、やだ…楓が…ほしい、ほしいの…くるしい…抱いて楽にして」

「バカ、言うなって」

楓は震える手で瓶を探し出し、慌てて蓋を開ける。
だが、柊は顔を背け、唇を固く閉ざしてしまう。

「なぁ、頼むから、飲んでくれよ」

「やだ…今だけでいいの……今だけ、だから…お願い、お願いだよ…」

涙すら滲ませ、楓に縋る柊。
理性的な彼が、こんなふうに懇願する姿――それがどれほど痛ましくて、美しいか。
それが、本能によるものと分かっていながら、楓の心を激しく揺さぶった。

(……クソッ……)

一瞬、目を閉じて自分を押し殺すと、楓は小瓶から薬液を口に含んだ。
そして――柊の顔を掴み、その唇に、自分の唇を重ねた。

「…っ!」

薬の苦さと、楓の温もりが一気に口腔に流れ込む。

柊は最初こそ驚いたが、抵抗せず、むしろ受け入れるように身体を傾けてきた。
舌先がわずかに触れ、呼吸が混ざり合う。
それだけで、身体の奥がまた疼くように熱くなる。

離れたくなくなる。
このまま、いっそ、欲望のまま柊の全てを飲み込んでしまいたくなる。

だが――楓は自分の肩を、拳で殴るようにして理性を呼び戻した。

「……しっかりしろ、俺」

言ってから、小さく笑った。
目の前の柊は、ぼんやりとした目で見つめ返してくる。
熱に浮かされた表情は、あまりにも無防備で、痛々しいほど綺麗だった。

「柊、鍵を閉めろ」

「……え?」

「この部屋の鍵だよ。俺が来ても、誰が来ても、開けるな。抑制剤が効くまで、ここから出るな。絶対に。いいか、絶対だ!」

「……かえ…で……?まって…」

「頼むよ。マジで、このままだと、ほんとに抱いちゃうから」

ギリッと奥歯を噛み、できる限りいつもの軽い口調を保つ。
けれど、指先は震え、喉は乾いて仕方がなかった。

「ほら、早く。俺の理性が残ってるうちに」

柊は未だに小さく首を横に振っていたが、楓は迷いを振り払うようにくるりと背を向けた。

最後に、後ろ手でドアを閉める。
鍵のかかる音が、静かに鳴った。

そして、深夜の廊下へと、一歩踏み出した。

胸の奥が、痛いほど熱くなっていた。


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