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第二章:競走馬への第一歩
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「初心者でも大丈夫ですか?」
電話口でそう尋ねる自分の声が、少し震えているのがわかった。
「もちろんですよ。まずは体験レッスンからどうぞ」
乗馬クラブの受付の声は明るく、事務的だった。
予約を終えて通話を切ると、スマホを握ったまま5分ほど動けなかった。
馬に乗るのは、人生で初めてだ。
運動は苦手。体力もない。そもそも目的がずれている。
「馬に乗りたい」のではない。「馬になりたい」なのだ。
でも、どこから始めればいいのか分からなかった。
だからまず、馬に近づこうと思った。
その週の土曜日、駅からバスで30分。さらに徒歩で15分。
郊外にある乗馬クラブは、観光牧場より少しだけ洗練された印象だった。
クラブハウスに入ると、ロッカーの横でジャージ姿の若い女性が笑っていた。
乗馬の経験者らしく、ブーツの履き方が慣れている。
一方、光映はレンタルのヘルメットとベストを着るだけで精一杯だった。
担当インストラクターは、川崎綾と名乗った。30代前半くらい。
髪をひとつにまとめて、無駄のない動きで準備を進めていく。
「ではまず、あの馬に乗ってみましょう。名前はナツメです」
案内された栗毛の馬は、思っていたよりずっと大きかった。
近づくと、体温と匂いが鼻を突いた。馬の目が、こちらを見ている。
何を思っているのか分からない。けれど、じっと見られている感覚は強く残った。
「左足を鐙(あぶみ)に入れて、手綱を持って、そのまま…そうです、よくできました」
光映の身体はぎこちなく、緊張で強張っていた。
それでも馬は、文句ひとつ言わず、歩き出した。
周囲の視線が気になった。
「47歳で、初心者で、明らかに場違い」
そんな自意識が頭の中で渦巻いていた。
けれど、馬の背にいる数分だけは、何も考えずにいられた。
風を感じた。視界が高かった。地面から少し離れた感覚。
「人間」としての自分が、少しだけ遠のいた気がした。
体験レッスンが終わると、汗がにじんでいた。
光映は鏡の前でヘルメットを外し、自分の髪を整えた。
乗馬が上手くなりたいわけではない。でも――もう一度来たい、と思った。
帰り際、川崎さんが声をかけてきた。
「次回、もう少し走らせてみましょうか。ナツメ、けっこう脚力あるんですよ」
「……はい」
「馬が好きなんですね?」
「……なりたいんです」
「え?」
川崎さんの顔が固まった。
冗談のつもりで言ったのではなかった。
でも、それ以上何も説明できなかった。
「また来週、お待ちしてます」
川崎さんは少し困ったように笑った。
その笑顔を背に、バス停までの道を歩きながら、光映は思っていた。
次は、もっと馬らしく歩いてみよう。
背筋を伸ばし、重心を前に。足をまっすぐ、地面を蹴るように。
まだ、誰も気づいていない。
自分の中で、何かが変わり始めていることに。
電話口でそう尋ねる自分の声が、少し震えているのがわかった。
「もちろんですよ。まずは体験レッスンからどうぞ」
乗馬クラブの受付の声は明るく、事務的だった。
予約を終えて通話を切ると、スマホを握ったまま5分ほど動けなかった。
馬に乗るのは、人生で初めてだ。
運動は苦手。体力もない。そもそも目的がずれている。
「馬に乗りたい」のではない。「馬になりたい」なのだ。
でも、どこから始めればいいのか分からなかった。
だからまず、馬に近づこうと思った。
その週の土曜日、駅からバスで30分。さらに徒歩で15分。
郊外にある乗馬クラブは、観光牧場より少しだけ洗練された印象だった。
クラブハウスに入ると、ロッカーの横でジャージ姿の若い女性が笑っていた。
乗馬の経験者らしく、ブーツの履き方が慣れている。
一方、光映はレンタルのヘルメットとベストを着るだけで精一杯だった。
担当インストラクターは、川崎綾と名乗った。30代前半くらい。
髪をひとつにまとめて、無駄のない動きで準備を進めていく。
「ではまず、あの馬に乗ってみましょう。名前はナツメです」
案内された栗毛の馬は、思っていたよりずっと大きかった。
近づくと、体温と匂いが鼻を突いた。馬の目が、こちらを見ている。
何を思っているのか分からない。けれど、じっと見られている感覚は強く残った。
「左足を鐙(あぶみ)に入れて、手綱を持って、そのまま…そうです、よくできました」
光映の身体はぎこちなく、緊張で強張っていた。
それでも馬は、文句ひとつ言わず、歩き出した。
周囲の視線が気になった。
「47歳で、初心者で、明らかに場違い」
そんな自意識が頭の中で渦巻いていた。
けれど、馬の背にいる数分だけは、何も考えずにいられた。
風を感じた。視界が高かった。地面から少し離れた感覚。
「人間」としての自分が、少しだけ遠のいた気がした。
体験レッスンが終わると、汗がにじんでいた。
光映は鏡の前でヘルメットを外し、自分の髪を整えた。
乗馬が上手くなりたいわけではない。でも――もう一度来たい、と思った。
帰り際、川崎さんが声をかけてきた。
「次回、もう少し走らせてみましょうか。ナツメ、けっこう脚力あるんですよ」
「……はい」
「馬が好きなんですね?」
「……なりたいんです」
「え?」
川崎さんの顔が固まった。
冗談のつもりで言ったのではなかった。
でも、それ以上何も説明できなかった。
「また来週、お待ちしてます」
川崎さんは少し困ったように笑った。
その笑顔を背に、バス停までの道を歩きながら、光映は思っていた。
次は、もっと馬らしく歩いてみよう。
背筋を伸ばし、重心を前に。足をまっすぐ、地面を蹴るように。
まだ、誰も気づいていない。
自分の中で、何かが変わり始めていることに。
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