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第五章:調教師との接触
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「早田さん、よければ今度、牧場見学に来ませんか?」
川崎さんが唐突にそう言ったのは、三月下旬のある午後だった。
「実は昔の知り合いが、千葉で調教師やってて。引退馬の受け入れなんかもしてるんです。勉強になると思いますよ」
「……行きたいです」
光映は即答した。
それはただの好奇心ではなかった。
それは――“同族”に会いに行くという、静かな決意だった。
牧場は、駅からさらに車で40分。
舗装された道が切れた先に広がる、芝と土と木の匂い。
柵の向こうで、三頭の引退馬がのんびりと草を食んでいた。
「こっちが調教師の見嶋(みしま)さんです」
川崎さんの紹介で現れたのは、60歳を過ぎた年配の男性。
風でなびく白髪、くたびれたジャンパー。
だが、その目は鋭く、馬と光映の両方を瞬時に見抜くような気配があった。
「馬、好きなのかい?」
「……なりたいと思ってます」
一瞬の沈黙。だが見嶋は、顔をしかめるでも笑うでもなく、ただ「そうか」と言った。
「最近は人間の方がよほど難しい。馬は嘘をつかないからな」
そう言って、柵の中に入ると、呼ばなくても一頭の芦毛がすっと近づいてきた。
「この子はソレイユ。元は短距離の牝馬だった。人間の言葉は分からないが、人の気持ちはよく察する」
光映は柵越しに手を伸ばした。
ソレイユはわずかに鼻を動かし、光映の指先に静かに触れた。
その瞬間――
全身が熱くなった。
皮膚の下で何かが動くような感覚。
言葉ではない、意志でもない。
ただ、「同じ種」であるという直感。
「……私は、馬になれると思いますか」
光映が問うと、見嶋は芝を見つめたまま言った。
「わしは、ならせてきた側だ。何十頭も、馬に“なれないまま”競馬場に出てきて、心を壊して終わったのもいた」
「心を……壊す?」
「馬にも心はある。だが人間にも“ならないと壊れる”心がある」
その言葉が、光映の胸に沈んだ。
見学を終えた帰り道、光映は川崎さんに聞いた。
「あの調教師さん、本気で言ってると思いますか?」
「本気だったと思います。見嶋さん、現役の頃は有名でした。人間にも馬にも、厳しいけど誠実な人で」
「私は、まだなれていないと思います」
「なにに?」
「馬に」
川崎さんは答えなかった。ただ黙って、光映の顔を見ていた。
その視線は、哀れみではなかった。
ただ、理解できないものを、理解しようとする人間の眼だった。
帰宅後、光映はノートを広げた。
今までは動画で覚えた馬の歩様や食事、反芻時間の記録などが並んでいたが、今日からは新たに一頁加えた。
「心の訓練」
そこには、調教師・見嶋の言葉が一言だけ書かれていた。
馬にも心はある。だが人間にも、“ならないと壊れる”心がある。
そしてその下に、自分の字でこう書いた。
私は、壊れてもいい。なれるなら。
川崎さんが唐突にそう言ったのは、三月下旬のある午後だった。
「実は昔の知り合いが、千葉で調教師やってて。引退馬の受け入れなんかもしてるんです。勉強になると思いますよ」
「……行きたいです」
光映は即答した。
それはただの好奇心ではなかった。
それは――“同族”に会いに行くという、静かな決意だった。
牧場は、駅からさらに車で40分。
舗装された道が切れた先に広がる、芝と土と木の匂い。
柵の向こうで、三頭の引退馬がのんびりと草を食んでいた。
「こっちが調教師の見嶋(みしま)さんです」
川崎さんの紹介で現れたのは、60歳を過ぎた年配の男性。
風でなびく白髪、くたびれたジャンパー。
だが、その目は鋭く、馬と光映の両方を瞬時に見抜くような気配があった。
「馬、好きなのかい?」
「……なりたいと思ってます」
一瞬の沈黙。だが見嶋は、顔をしかめるでも笑うでもなく、ただ「そうか」と言った。
「最近は人間の方がよほど難しい。馬は嘘をつかないからな」
そう言って、柵の中に入ると、呼ばなくても一頭の芦毛がすっと近づいてきた。
「この子はソレイユ。元は短距離の牝馬だった。人間の言葉は分からないが、人の気持ちはよく察する」
光映は柵越しに手を伸ばした。
ソレイユはわずかに鼻を動かし、光映の指先に静かに触れた。
その瞬間――
全身が熱くなった。
皮膚の下で何かが動くような感覚。
言葉ではない、意志でもない。
ただ、「同じ種」であるという直感。
「……私は、馬になれると思いますか」
光映が問うと、見嶋は芝を見つめたまま言った。
「わしは、ならせてきた側だ。何十頭も、馬に“なれないまま”競馬場に出てきて、心を壊して終わったのもいた」
「心を……壊す?」
「馬にも心はある。だが人間にも“ならないと壊れる”心がある」
その言葉が、光映の胸に沈んだ。
見学を終えた帰り道、光映は川崎さんに聞いた。
「あの調教師さん、本気で言ってると思いますか?」
「本気だったと思います。見嶋さん、現役の頃は有名でした。人間にも馬にも、厳しいけど誠実な人で」
「私は、まだなれていないと思います」
「なにに?」
「馬に」
川崎さんは答えなかった。ただ黙って、光映の顔を見ていた。
その視線は、哀れみではなかった。
ただ、理解できないものを、理解しようとする人間の眼だった。
帰宅後、光映はノートを広げた。
今までは動画で覚えた馬の歩様や食事、反芻時間の記録などが並んでいたが、今日からは新たに一頁加えた。
「心の訓練」
そこには、調教師・見嶋の言葉が一言だけ書かれていた。
馬にも心はある。だが人間にも、“ならないと壊れる”心がある。
そしてその下に、自分の字でこう書いた。
私は、壊れてもいい。なれるなら。
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